与えられた立場
持って生まれた立場
さらにここから
自分で得る立場というものが増えていきます。
与えられたものではなく、自らの意思で得た、決めた立場です。
大人が、「ここはお前の家だ」って言ったら、そこが自分の家なんだから
そこで、楽しく暮らすことを考えればいいんだよ。
こういう奴はさ、おかあさんがいるときは「おとうさんがいない!おとうさんがいない!」って泣いて、
おとうさんがいるときは「おかあさんがいない!おかあさんがいない!」って泣くんだよ。
よく考える
幼い頃から、大切なことのように言いきかせられてきたこの言葉の意味が、突然わからなくなった。
平日の朝
今日で5 歳になるりくは
保育園の支度を整えながらこう言った。
「今日は、ぼくの誕生日なのにどうして保育園にいかなければいけないの??」
「天皇陛下の誕生日はお休みなのに」
育爺が、苦笑しながら
さらりと答えた。
「天皇陛下というのは
日本のそれぞれの時代に、一人ずつしかいないからね」
不満そうに不思議そうに
りくは言った。
「ぼくだって
一人しかいないよ。」
「常に“このままでいいのか”と漠然と思っている」
あるいは、もっと具体的に「自分は頑張っているつもりなんだけど……。なかなか結果が出ない」と悩んでいる。
いや、さらに言えば、老若男女
全ての日本人に
お薦めといえる本があります。
福沢諭吉『学問のすすめ』です。
電力の普及に努め、近代日本の発展を導いた「電力の鬼」松永安左ヱ門は
諭吉のことを聖徳太子、弘法大師に並ぶ日本三大偉人であると評しているほどです。
多くの人が諭吉の教えを知らないということは、本当にもったいないことです。
「誤解その一」は
『学問のすすめ』は子供向けに書かれたというもの。
「誤解その二」は
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という
序文の印象から、
平等を説いた本だというもの。
いずれも不正解です。
実は、『学問のすすめ』は、およそ150年前に書かれたとは思えない、現代の人たちにこそ読んでほしい金言、アドバイスが満載です。
教育家であり思想家である諭吉が多くの著作を世に出した当時は、激動の時代。
『学問のすすめ』は
国家として日本が
難局をどう乗り越えるべきかを
指南しました。
その結果、340万部も売れ、これは当時の国民の10人に1人が読んだことになります。実際に明治維新を遂行したのが政府であるなら、諭吉はそのシナリオを書いたともいえます。
しかし、すごいのはそこだけではありません。
諭吉の主張の根底には
「人間は独立して生きるべきだ。
そのためには何が必要か」という
メッセージがあるのです。
諭吉自身も自分の力で何事も行い、人格の尊厳を保つべきだという「独立自尊」という言葉を好みました。独立して生きるために、コミュニケーションスキルや統計学から論理的な考え方まで指南しました。しかも、それを易しい表現と独特の面白い例えで説いています。つまり、150年たっても色あせないのは、
人間が生きていく上で備えるべき
根本的な姿勢を
説いているからなのです。
ちなみに、有名な『学問のすすめ』の冒頭は、後に続く部分を含めてざっくりいうと
「人間は平等である……といわれているが、勉強しないから格差が生まれる」
というものですが
「福沢については、昔からいろいろなレッテルが貼られています。相矛盾するレッテルが、さんざん貼られてきたわけです。
また、実際、福沢のものをお読みになったらわかりますけれども、
表面的に取れば
相矛盾したようなことを言っておりますので、それを統一的に把握するということは非常に困難です」(丸山眞男「福沢諭吉の人と思想」)
福沢にはどのような「レッテル」が貼られていたのでしょうか。
思いつくままあげてみると、啓蒙思想家、自由主義者、民権論者、国権論者、絶対主義思想家、帝国主義者、プラグマチスト、近代主義者、そして
教育者などでしょうか。
こうして並べると明治日本の変貌にあわせるように、福沢はその時々で時流・世情に応じて姿を変えてきているように思うかもしれません。
しかし決してそうではありません。
時の権力や世相に寄り添い、あるいはおもねるような思想家・教育者・ジャーナリストではありませんでした。
この本で記されているように伊藤博文等の明治政府に対抗した姿勢からもハッキリと見てとれます。
その姿勢はいまのジャーナリズム、ジャーナリストや評論家などに見習ってほしいところです。
──本書を著すことでもう一度福沢先生に息を吹き込み、(著者を含めた)今の日本人に向かって「馬鹿野郎!」と叱ってもらいたい。それが本書を書き始めた動機である。──
福沢の多面的な思想を無意味な“レッテル貼り”ではなく捉えるには、生活史を追うのがいいと思います。
この本は実に的確に福沢の生涯を追い、彼が追い求めたものをとらえかえしています。この本を横に置いて福沢の著作を読めば、膨大な著作に埋もれて、
福沢の精神(生き方)を
見失ったりすることはありません。
いうまでもなく、福沢は
なによりも教育者でした。
──国を支えるのは人であり、その人は教育が作り出す。人を教えることに誇りを持ち、教鞭を執る人々に敬意を持たなければならない。
この場合の「教師」は学校の教師に限らない。
「生徒」もまた子供とは限らない。
社会の至るところで「教育」は必要とされている。(略)福沢諭吉は我々に、教育の本質が「愛」であることを教えてくれている。──
この福沢の「愛」という精神は時の政府・制度を超えて存在するものです。
ここを見失うと
福沢を誤解することになります。
有名な上野戦争(彰義隊と新政府軍の戦争)の音を遠くに聞きながら、生徒へ講義を続けていたというエピソードはそれを象徴しています。
福沢が主張した「一身の独立なくして一国の独立なし」(『学問のすゝめ』)にふれて北さんはこう記しています。
──彼はこれほど国家に貢献しながら、国家に依存することを潔(いさぎよ)しとしなかった。(略)彼は、「民」であること、「私立」であることに、誇りを持ち続けた。──
この「国家への貢献」とは
既存の明治政府を肯定した
ということではありません。
福沢は“望ましい・ありうべき国家像”を求めて活動したのです。
そして“望ましい・ありうべき
国家像”に不可欠の人間とはなにかを求めて教育の現場に立ったのです。
なにより「この人民ありてこの政府あり」(『学問のすゝめ』)と断じた福沢にとって、民衆の涵養こそが第一義でした。
福沢にとって民衆の生が国家(政府)の存在より大きいものであることは自明でした。
幕府の崩壊、新政府の成立、新政府成立に寄与した士族層の解体、新たな支配層、富裕層の出現を目の当たりにしてきたのですから。
「門閥制度は親の敵」とまでいった福沢が見た新政府はどのようなものだったのでしょう。
それは門閥を倒したかわりに薩長の藩閥を生み出したのに過ぎません。
支配層が交代しただけです。門閥を嫌悪・批判した福沢がそのような藩閥体制を認めるはずはありません。根底にある体制・権力(者)への批判が「丁丑公論」「痩我慢の説」を書かせたのです。
ここで重要なのは「教育の本質が愛」という北さんの指摘です。
これはもともとは東宮(今上天皇)の教育係を務めた小泉信三がその姉との会話で福沢について触れた時に語られたものだそうです。
「半学半教」がこの教育愛を実践する姿をあらわしています。
半学半教
「半学半教」とは教える側、学ぶ側は一方的なものではなく、お互いに教えあい学びあうということです。
そうでなければ“教える”ということは抑圧的な(権力的な)ことになります。
啓蒙が時に権威・権力的になることはしばしば見られます。
福沢は自身の体験から
教育の中に潜む
権力性を
見抜いていました。
そこから生まれた「半学半教」だったのです。
教育問題はいまでも多くの課題を残しています。
所得格差が教育格差を生み、
さらに学歴格差、所得格差へと続く
悪循環
教育自体が権力的なものを生み出しています。
福沢の時代には社会的不平等を解決するものとして教育がありました。
けれども今では
教育は社会的不平等を固定化あるいは拡大化するものとなっています。
福沢がこの実情を見たらなにを思うでしょうか。
「一身独立」は
どこへいったのでしょうか。
親学に代表されるような
道徳・倫理教育へも
容赦ない批判を
するように思います。
儒学者が幕藩体制(門閥)を支え、明治啓蒙家が藩閥(選民)政府を支えたように、教育という名の体制擁護がそこにはうかがえるからです。
明治政府に阻害されながらも独立自尊を貫き、曲学阿世とは最も遠い人物がこの本に描かれています。
明治政府のいかがわしさを最初に指摘した福沢が、現在の日本が行おうとしている明治賛美、あるいは明治150年記念事業を知ったらどう思うでしょうか。
「〇〇野郎!」と
一喝する声が
聞こえてきます。
そして福沢が記した
「この人民ありて
この政府あり」
という言葉の重みをあらためて
噛みしめる必要がありそうです。
福沢の総体を追求したこの本は、優れた評伝がしばしば優れた入門書・ガイドブックとなるという、その素晴らしい実例だと思います。必読です。
自分の本質に逆らう事ができる人はいないだろう。
人が様々な意志を発揮しようとしても、全てが自分自身の存在の法則にたぐりこまれてしまう。
人はあるがままに見られるものだ。
意志よりも人格によってその人の事が分かる。
だが人々は、
目に見える行動だけに
美点や汚点があらわれている
と考えて
一瞬一瞬に吐く息の中にさえ
それらが
息づいている事に
気づかない。