じわじわと妄想しながら
たどり着いた先に
「福沢諭吉の言葉ではない」
と書いてあったが
ついでに、その生涯に思いを馳せてみたところに
たまたまあった
青年時代の肖像は、ある人物を
彷彿させたばかりでなく
幼児の頃に父を亡くして
14歳から入塾し
身長は173㌢
その生い立ちは
幼児の頃に親の離婚で父を失い、
14歳の数週間だけ講習会に通ったが「やる気がないなら来るな」と言われた我が家の長男 その身長は173㌢
ほんの少しだけ偽造したなら
ほんの少しだけ時代を変えたなら。。。
かつて 私の同級婚活女性に
「身長が数センチ足りないけれども、学歴をふまえれば概ね勝ち組」と評されたうちの長男は、意外にも高身長に分類された。
さらに、調査を深めたところ
福沢諭吉は、日本人で始めてツーショットを撮ったと言われているのですが、それはこのサンフランシスコへ渡米した際に現地の写真屋に立ち寄り、撮って貰った一枚。
写真屋の娘さんにお願いして、一緒に写ってもらいそれを一緒に船に乗っていた士官たちに見せびらかした。
というエピソードまで発掘されて
愚母である私は
長男のあるエピソードを思い出した。
新型コロナ感染症に、おびやかされることもなく、平和に楽しんだ長男の高校生活
青春の象徴 🎤 💃はクラスの団結
息子たち探しのために徘徊した
私とママ友は集団男子を発見した。
ぬいぐるみと化した男子
お面をつけている男子
看板をもつ男子
大声で叫ぶ男子
長男が
なにを持ち
なにを叫んでいたのか
いまゃ、記憶の奥底…であるが
「頑張ってるね」
ありきたりな声をかけて
二言三言 交わしたあとに
くるりと背を向けて歩きだした
その後ろ姿をみたとき
個性溢れる装飾がされた
揃いのクラスTシャツに
他校名高等学校
2年X組
有村架純♥️
交際中だった他校の女子高生の
学校名 学年 クラスと実名だった。
思わず 呼び止め
「これ、架純ちゃん知ってるの?」と聞いたら、「知ってるけど…後で来るし。なんで?」と答えた。
一般公開されている
高校の学校祭…
「架純ちゃん、ここの高校じゃないのに、学校名とか名前晒しちゃだめだよ。」と私は言って
「架純ちゃんがかわいいからこそ、おにぃちゃんが名前背負って一緒にいたら、よく思わない人だって、もしかしたらいるかもしれないし。」と説いたら
「考えすぎじゃねぇ?」と一蹴した。
多くはないけど
おかしな人はいるものですから
友達、特に女子の個人情報を
晒すような真似は慎むように戒めた。
その7年後、
される側にとって
それは、
親切という行為になる。
歴史というと男性ばかりが描かれている印象もあり、女性には縁遠いと思われている方が多いかもしれません。
でも、亡母に代わり坂本龍馬を育てた姉の乙女や、頭山満を自身の主宰する私塾で教育した高場乱など、一流の男性の陰には、必ずその男性を育てた素晴らしい女性がいます。
歴史はお母さん方にとって、上質なお手本がたくさん詰まった宝箱なのです。
歴史上の人物の母親で、私の頭に真っ先に思い浮かぶのが、
福沢諭吉の母・於順(おじゅん)です。
諭吉は江戸後期に5人きょうだいの末っ子として大坂に生まれましたが、程なく父を亡くし、父母の郷里・中津(現・大分県中津市)へ一家で移りました。
大黒柱を失い、貧しい生活を送る中、諭吉は幼い時から於順の内職を手伝い、一所懸命家計を支えました。
その諭吉の家を、チエという女の子がよく訪ねてきました。身寄りがなく、汚い身なりをした彼女は近所の鼻つまみ者でしたが、於順だけは優しく受け入れていたのです。
チエが来ると、於順は彼女を庭へ連れていって虱を取ってやります。取った虱を潰すのが諭吉の役目ですが、諭吉はそれが嫌で仕方がありませんでした。
ある日、「今日は気分が悪いので」と諭吉がそっぽを向くと、於順は独り言のように呟きました。
「こうしてチエがここに来るのは、虱を取ってもらえれば気持ちがいいからでしょう。
けれどもチエは、自分ではできないのですよ。
できる人ができない人のためにしてあげる、
それが人として当たり前だと思うのだけれど……」
それを聞いて反省した諭吉は、また母を手伝い、チエの虱を潰してあげたのです。
私が於順を素晴らしいと思うのは
「人に優しくしなさい」ではなく、「人に優しくするのが当たり前」と諭吉に教えたことです。
教育で大事なことは、
その子にとっての当たり前の基準値をつくってあげることだと私は思っています。
そしてその基準値を
最初につくる存在が、
他ならぬ
母親なのではないでしょうか。
この一連の発言の内容を要約してみると,福沢はまず
彼の論説全体の調子をみると, 毎日の家庭生活の中にこそ人生の幸福があり,社会を改革する鍵がある,所帯じみた仕事を軽蔑すべからず、これに知性の光をあてて合理化せよ,
その教育的機能を再認識せよ,と啓蒙警告しているが如くである。
特に 後年の「福翁百話」やその他の 論説を参照してみるなら、
家庭こそ人間生活の活力の源泉,社会福祉にかかわる重要なものであるという認識をもっていたと考えられる。
近代日本に於て、家庭教育が喚起されはじめたのは明治中期以後のことといわれているが,
もっと一般的な日常平凡な 家庭生活なるものに至ると,
我が国に於ては 従来、女子供のかかわることとして軽視され,
男子はそれに関心を示さぬことをもって 誇りとして来たかの感があった。
それが重要な問題として認識し直されはじめたのは終戦後のことのように考えられているから
明治初期にあたり
福沢が
国民国家の問題を論じ乍ら,それに並行して家庭の卑近な生活の営み方を問題として論じたことは ,いかにも福沢らしくあり近代家庭論, 家庭教育論の先駆をなしていたように考えられるのである。
「世界でいちばん有能な先生」よりも「分別のある平凡な父親」のほうが子どもを「立派に教育」することができる。
母親は子どもに愛を注ぎ、
父親は子どもを社会の一員たる
人間とする。
それがルソーの考え方です。