欧米では、 
個人の意志の大切さを

子供のときから
徹底的に
たたき込まれ、

アジアの多くの国では、
社会的義務の大切さを教え込まれる。



特集 ∶都市と子ども

  家族文化のあり方を考える

高橋 敷


かつて、イギリスのロックが「家庭は城である」と言ったとおり、彼らにとっての家庭のプライドは昔の私たちのイエ、あるいは国家さえも連想させる。


「しきいをまたげば七人の敵がいる」のが自国の大家族時代の教訓だとすれば、


核家族同士の交際は、

「家庭は社会を教える学校である」とするルソーの原理※でなくてはならないだろう。



大家族が 分裂すれば 核になる

というものではない。


諸外国のように、近隣の夫婦や家族がお互いを招き合って会食したり、ピクニックに出かけたりすることは、私達にはあまり経験のないことだ。


他国の核家族の生き方は、家族内交際の仕方や近隣もしくは親戚づきあいが、助け合いになっている面を見落としてはならない。


日本の家屋と他国のそれとは

原理において大きい差がある。



個室が中心で共通の部屋はサロンだけという彼らと、どの部屋もみんなで利用できる私たちとの違いは大きい。


つまり、


彼らは、個室にいるときだけは自由だけれど、サロンに出る時は少しばかり「よそゆき」になる。


家の中ならどこでも裸でいるような私たちとは違う。


就学前の子どもが

独り寝をする諸外国では


個室を与える幼児の頃から掃除、整理は厳しく仕込まれている。  


個室で自由を持つ彼ら一人ずつは、子どもであっても、自分の部屋は自分で管理することが必要である。


自分の個室の管理が、生きている条件として果たされなくては自由は守れず


人格が形成される間を通じて

個室という

第2のゆりかごにいる。


家の中どこでも気ままに過ごし

紙を捨ててもみかんの皮を放りだしても、母親が片付けてくれる日本の家庭とは本質的に異なる。


日本人が子どもに与える個室や机は、それだけの責任につながらないばかりか、


汚れたら母親が掃除をする、単なる贅沢品である。



ユニークな家庭文化を育てるそのメンバーは、一人ひとりが個性を豊かにもった個人でなければならない。


個人の文化を築き上げる根拠地は、個室であったり自分のコーナーであったり、自分の机や戸棚であったりする。



ベッド一つだった部屋が

二十年後には人形が飾られ

ミニモデルが散りばめられ


個性あふれる青春の宮殿となっていく。


これらを総合しての個室から社会への流れがある。



私達に欠けるのは

そのプロセスであろう。


机も椅子も完備され、鉛筆削りまで揃っているとあっては、どうしようもない。


子に育つのは、古くなっていく不満と干渉への依存ばかりとなる。



ここでは、共通の部屋である、サロン(居間、応接、玄関、食堂、遊び場を兼ねている)の意味を評価せねばならない。


個室で自分の文化と責任を体験した子どもは、家庭文化を創るサロンというミニ社会で、一応社会人としての経験をする。


ふしだらな服装は許されないし、紙くずひとつ捨てることもかなわない。


サロンは、

近隣の人や親しい仲間が遠慮なく入ってきて、集い帰っていくところである。


子どもたちは、いわば二重の意味で社会を経験し、最終段階として外に出る。


私達の場合には、この流れがすべて欠落している。


自由とふしだらだけはあって責任はなにもない状態から、


いきなり外部に出ていくのだから


危険極まりない。


公徳心がないとか、社会性に弱いなどと批判することはやさしいが、むしろ構造的に考えると


よくやっている方かもしれない。



それにしても、

心配なのは

日本のサルまね個室化


しつけのためのものが、

世話を受けるホテル暮らしになり、


文化をつくるはずが

完成品支給の個性退化になり、


生きる力をつける道が、

つながりのない孤立を

生み出している。



 

調査季報
1979年6月

調査季報は、市民生活にとって重要な課題や行政の施策について、横浜市職員、市民、専門家が誌上で意見を発表し、討論・交流する政策研究誌です。








ジャン=ジャック・ルソー。

この名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。


ルソーは18世紀のフランスで活躍した哲学者で、社会契約論など政治哲学の分野で近代の民主主義システムの構築に大きな貢献をした人物として歴史の授業で習った人もいるかと思われます。


しかしルソーは単なる政治哲学者ではありませんでした。植物学についての著作を発表していたり、作曲家としても活動するなど、非常に多才な人物だったのです。

そしてなにより興味深いのが、ルソーは保育や幼児教育に関することについても本を出版していて、その内容が実に先見性に富んだものであったということです。


今回の記事では、ルソーが唱えた保育と幼児教育に関する考え方を紹介していきたいと思います。


ルソーの教育観

ルソーは1762年に『エミール』という本を出版しました。この本は今でも教育学の名著として読まれています。


そして、この本に書かれたような彼の思想は、その後のフレーベルやマリア・モンテッソーリといった幼児教育・保育手法の実践者の思想に大きな影響を与えているといわれています。

ルソーの教育観を一言で表すと、「消極的教育」という考え方になります。

つまり、

大人があれこれ教えるよりも、子どもたちが自発的に行動し、大人はあくまでもそれを援助する存在であるべきだということです。


これは、現代の私たちが保育の場で実践している教育内容の基礎的な考え方と共通しています。




知識よりも経験


ルソーは、「知識を与える前に、その道具である諸器官を完成させよ。感覚器官の訓練によって理性を準備する教育を消極教育と呼ぶ」と自著『エミール』のなかで自己の教育観を提唱しています。


知識を詰め込むよりも、運動や様々な経験を通して、子どもたちの心身を鍛えることを最優先に考えているのです。


このような考え方も、現代の保育や教育法に通じるところがあります。



子どもは

 

「未完成の大人」ではない


  ルソーは子どもを「未完成の大人」とは見ませんでした。


子どもは、大人とは全く違う

生き物であり


子どもには

子ども固有の世界観があるのだと

考えました。


ルソーの生い立ちは非常に不幸なもので、彼は社会に対して大きな不信感を持っていました。


彼の考えのなかでは、人間は生まれた瞬間(自然状態)が善であり、そのような子どもたちに文明や文化を教えるということは、堕落の道へと導いてしまうというものでした。


これがルソーの「消極的教育法」の根となっている部分です。


ちょっと大げさかもしれませんが、ルソーの生い立ちと彼の生きていた時代背景を考えれば不思議なことではありませんし、現代に通じる部分も多々あります。



“本当の教師は父親であり

本当の乳母は母親である”


これはルソーの残した有名な文言です。


これは、

「世界でいちばん有能な先生」よりも

「分別のある平凡な父親」のほうが


子どもを「立派に教育」することができるという意味です。


母親は子どもに愛を注ぎ、

父親は子どもを社会の一員たる

人間とする。


それがルソーの考え方です。


しかし、

そのように言っているルソーも

5人の子どもたちを


生まれてすぐに

施設に捨ててきたという

過去を持っています。