「しあわせ」について考えてみる。
不幸な人は何かに執着しているからだと思います。執という字にも幸がありますが、元来「幸」という字は「手錠」の意味です。不自由でなければ自由を感じられないのと同様、
幸せもある程度の縛りがある小さなところでしか感じられないという
解釈もありますが、
そもそも
「しあわせ」とは「幸」という字ではありませんでした。
年収とか恋愛とか結婚とか
そういうものだけに幸せがあると
固執するのではなく
「仕合わせ」るという視点
名詞ではなく「仕合わせるという動詞」の観点で見てみると、違った景色が見えるのではないでしょうか。
食うに困るほどの貧乏では幸福度もないと思いますが、金イコール幸福という直接因果と単純に結び付けられるものではありません。
金があっても幸せは感じられないが、金がなくても感じられるものが幸せだとしたら、しあわせとは一体なんでしょう?
ひとつヒントを言うと、
しあわせは見つけたり、探すものではない。
そもそも
「もの」でも「状態」でもない。
人からもらうものでもない。
しあわせとは各個人の内面から沸き起こる感情です。
そして、その感情を生み出すのは
行動です。
何も行動しなければ生み出されません。
つまり、
しあわせとは
動かないと感じない
ものなのです。
やめたれ!結婚出来ないのは年収が低いからだ!そう思いたいんだ!俺に原因があるため、結婚出来ない、モテない訳ではない!悪いのは国だ!世間だ!!そう思いたい人に現実を突きつけるなんて酷すぎると思うぞ!
気持ちはわかりますが、それもひとつの状態依存で危険です。
「自分が不幸なのは金を稼げないからだ」と理由付けするのは一時の心の安心を得られるかもしれませんが、
結局それは麻薬と一緒で、切れればまた何か自分ではない他者の責任を見つけようとします。
それは際限なく広がり、やがて世界のすべてはおれの敵だという思考に勝手に落ちていきます。
また「金が稼げない」ことを理由にすべての行動をとめてしまうと、
無意識に「金を稼げない」という城壁を自分の中に作り出しています。
それこそ杞憂でしかかないのですが、そういう状態に陥ると新たな不安に陥らないように
現在の状態のままを維持することが自分を守ることだという矛盾した生き方に終始します。
実はそれこそが「幸」という手錠や檻に自分を閉じ込め、自分で仕掛けた不自由さに自分で一生文句を言い続けるという地獄にハマるのです。
ツイッターなんかで見られますが、毎日毎日些細なことで、
自分の正しさや
主張ばかりに固執して
「仕合わせる」どころか「仕分ける」ばかりの人がいますが、それこそ不幸の権化みたいな行動です。
気に食わないものに文句を言う、誰かの粗探しをする、足を引っ張る。そんな行動からは不幸の芽しか湧いてこないのですよ。
誰も
自分のシーソーに乗ってくれない
からといって、
「なんで誰も乗らないんだ?無視か?差別か?許さんぞ!」
なんて大声張り上げていたら、余計に誰も寄り付かないでしょう。そういうことです。