性的な被害を受けることや声を上げた時の二次被害がどういうことかということが、まだ社会的に見えていないのも確かなの。

被害を訴えるとバッシングされる。

だから 誰も言わないし、実際に


どんな被害が起きているかも

当事者の痛みも

社会で共有されないままに、


「強姦神話」が広がっていく。

私たちはそんな悪循環の中にある。

 

強姦神話(ごうかんしんわ、英語: rape myths)は、強姦の加害者や被害者、性的暴行に対して持たれる、偏向していて類型的な、間違った信念のことである。


例えば、「露出の高い服装をしたり、なれなれしい態度を取ったりする女性が被害に遭う」「嫌なら必死に抵抗したはずだ」「女性は強姦されたがっている」といった説が含まれる。


強姦神話は、伝統的な性役割、個人間の暴力の容認、性的暴行の特質に対する誤解など、さまざまな文化的ステレオタイプに由来する。


強姦神話の普及は、強姦の被害者に対する非難やスティグマ化の主因となっている。


強姦神話が性暴力のステレオタイプな被害者像として提示するのは、


殴られて痣だらけとなった若い女性である。


しかし、必ずしも


目に見える身体的損傷が残るとは限らない。


性的暴行における主要な問題は、当事者の双方が性的行為を行うことに同意したかどうか、または同意する能力があったかどうか、という精神的な面にもある。


身体的外傷を負っていない性的暴行の被害者が、当局に通報しなかったり医療を求めなかったりするのは、このステレオタイプによるものである。

Wikipedia


 


警察とは

そういうものなのだと思っていたし


わいせつ罪のようなものは、なかなか犯人確保には至らないものなのだと思っていた。


「それは違う」

刑事さんたちは言った。


「そういう誤解があるのは、そういう警察官が実際にいるということだから、誤解ではないのかもしれないけれど」



 



強姦未遂の立件は難しいんだよ。

強制わいせつで立件するよ。



強姦ではないだろうけど、

強制わいせつにはなるんだ?!



「私は、なにもされていないんじゃないか」

「なぜ、彼はここでオトナに囲まれて泣いているのだろう」


「食事はどうするのか」

「お風呂は入れるのか」

「おやつは??」


私がそんなことに囚われていたのは、罪悪感に囚われていたからである。


「逮捕される」とは思っていなかったのだ。


「実質的な危害が及ばなければ」警察は動かない。


そう、聞いていた。



 

日本では被害者が悪いとする有責性が強く信じられている。強姦神話を内面化した結果、何の落ち度もない被害者が自責の念に駆られるケースもある。


Wikipedia


 



「おめでとう。勝ったのよ。」

弁護士に言われても信じられなかった。

1992年4月16日福岡地裁



全面勝訴の判決のあと


フリーライターとして働いていたAさんに、手記の依頼が寄せられた。


実名で自分の気持ちを書きたいと思ったが、弁護士や支援者から「読者は男性ばかりだから、あなたの痛みは伝わらない」と反対された。


本名である「晴野まゆみ」と「A子」の間で心が揺れ動いた。


苦悩した末、仮名での執筆を決めホテルにこもった。


2年8ヶ月に及ぶ裁判を闘い抜き、身も心もボロボロだった。


15階の部屋から景色を眺めた。


湧き上がったのは

「A子から開放されたい」

という思いだった。



「ここから飛び降りれば楽になれる」

窓を開けたが、


わずかしか開かなかった。




直前に電話をしていた友人が

異変に気づき


駆けつけてくれたおかげで

自死を思いとどまった。




初めて人前で事実を明かしたのは

それから3年が過ぎた95年8月


参加したセミナーで、自分をさらけ出すよう求められた。


「セクハラ裁判の原告は私です」 

思い切って口にした。


ようやく

自分を取り戻せた気がした。


実名を出し、講演で体験を語るうち


「編集長も

男社会の被害者だった」

という思いを強くしていった。


「男として仕事では女に負けられない」

そんな古い価値観にとらわれていたのだと。



「チームふらっと」という会社を設立した。


「誰にでも平等な会社に」

との願いを込めて。








かつてあったものは

これからもあり

かつて起こったことは

これからも起きる


石井監督は、旧約聖書コヘレトの言葉を引用した。





写真は「答えが出ない映画かもしれない」と話す石井裕也監督


相模原で起きた実際の事件の殺害人数は19人。

この数は戦後の日本で発生した殺人事件としては最も多い。

この事件を扱っていることからも分かるように、重い重い映画。


映画のあらすじは次のとおり。

(ネタバレあり)


「元」小説家の堂島洋子(宮沢りえ)は、無職の夫の昌平(オダギリジョー)と質素に暮らしていた。


堂島夫婦には過去に子供がいたが、その子は生まれて直ぐに心臓の手術を受けた結果、脳に障害が発生し言葉を発することなく3歳で亡くなった。

このことを契機に洋子は小説が書けなくなり、また、正平は気力をなくし、仕事もせず、部屋で人形を使った短編映画を作っていた。


そんな中、洋子は重度障害者施設で働き始める。

施設は町からはなれた森の中にあった。

それは、不都合な真実を覆い隠すようでもあった。


施設に暮らす障害者のほとんどは会話をすることができず、職員から暴行を受けたり、閉じ込められたりしていた。

徐々に施設の内情が分かっていく洋子は、小説家志望の坪内(二階堂ふみ)と気のやさしいサトくん(磯村勇斗)と交流を深めていく。


坪内は小説の才能がないことに苦しみ、洋子の小説に対し真実が書かれていないと批判する。


サトくんは会話ができない障害者に紙芝居を作るなど、精一杯仕事に打ち込んでいた。

そんなサトくんが、段々と精神不安定になっていく。


一方、洋子は妊娠。

40代で子供を産むリスクに悩む。

障害を負った子供が             生まれるのではないか。


ある日、洋子はサトくんに何を考えているのか尋ねる。


するとサトくんは障害者を皆殺しにすると告白。

障害者は会話ができず、心がないのだから、人間ではなく無駄な存在であるというのがサトくんの主張であった。


そしてこの考えは、障害を持って生まれる子供なら堕胎した方がいいと考えている洋子と同じ思想だと詰め寄る。



会話ができない者は             意味のない存在なのか。

もちろんそんなことはない。


子どもを殺された母親が         泣きじゃくるシーンがある。

存在そのものが            他人に力を与えることがある。


重度障害者施設を街から遠ざけ、まるで障害者がいないかのような社会にし、その施設を低賃金で維持している現実も変える必要があると、この映画は訴えてくる。


様々なことを考えさせる本作品。


私達は

理不尽極まりない世界を

希望をもって

泳ぎ切っていくしかない。




人間の存在意義を改めて考えてみたい方は、是非ご鑑賞あれ。