平民
へいみん
先日、大学が春休みに入って
帰省したりくに聞いてみた。
「りくの誕生日は、大学はお休みなの?」
「いゃ、普通に行ってるよ。 普通に授業やってるからねぇ。」
「保育園のとき、天皇陛下のお誕生日はお休みなのに自分の誕生日はどうしてお休みじゃないの?って疑問に思ってたみたいだけど、今は思わないの?」
「思わないよ🤭
じぃちゃんに聞いた日のことは、はっきり覚えてるよ。あの辺のカレンダーの前でね、その会話をしたんだ。
その日、保育園を休みたかったってことだと思うよ。
だけど、天皇陛下はひとりだから天皇誕生日だけはお休みなんだっていうようなことを爺ちゃんが言ったから
『俺だって一人しかいないのに』って、そう思ったからそう言ったんだ。
いつ気がついたんだろ?
それは、わからないけど。
うん。俺は平民だからね。
そうだね。
平民だってことに、気がついたんだ。」
「おもしろい子どもだったなと思うよ。ちょっとバカでもあるけどね。」
「つまらない大人になったってことだねぇ。ハハ」
「自己肯定感」についてのエントリが流行しているようだ。おかげで色々と興味深く読ませてもらっている。
……のだれど、どの記事を読んでもなんか違和感。違和感の連鎖。
「自己肯定感」の話なのに、「周囲の人から認められることで自己肯定感を得られる」ということが前提で話が進む記事がほとんど。
それはもちろん否定はしない。人から評価されれば「ああ、私は出来る人間なんだ」っていう分かりやすい自己肯定の指標になるのは間違いないから。
だけど“自己”肯定の話をしているわけです。
自己肯定感。
他者による肯定ではなくて、自分で自分を肯定する感覚の話。
なぜに話の主体が周囲による評価になってしまうのかが、よく分からない。
うーん、自分の考え方は少数派なんでしょうか。
とりあえず「肯定」という二文字がゲシュタルト崩壊し始めた。
風邪で寝込んでいた時、
この本を読んでいた。
『疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)』
「個性ということ」という表題で、興味深いことが書かれていた。
「個性的である」というのは、ある意味で、とてもきついことです。誰からも承認されないし、誰からも尊敬されないし、誰からも愛されない。そのことを覚悟した人間だけが「個性的であること」に賭金を置けるのですから。
つまり他者からの評価によって自己肯定感を得ている限り、個性なんてものは手に入らないってことになる。
では、個性的な人間はどうやって自己肯定してるのか?
自己肯定ではなく、自己同一性・・・「アイデンティティ」であろう。
私なりに分かりやすく解釈すれば「自分で自分の存在理由や意味を理解している状態」がアイデンティティの確立された状態だ。
この「自分で自分の」という部分が非常に重要で、結果としてセルフ自己肯定が強固なものになる。
この「アイデンティティ」という考え方を説いたエリクソンは、発達心理学の分野にてこの言葉を用いた。
「アイデンティティの構築、確立は、青年期の発達課題のひとつだ」といった具合だ。
私の考えとしてはこのアイデンティティがしっかりしているならば、自己肯定感で悩むことなどない。自分自身が常に強力な自己肯定を継続しているからだ。
だから先に挙げた個性の強い人間は周囲から何を言われても関係なしに己の道を突き進む。
他者の評価によって自己肯定を行おうとする人間にはとても耐えられないでしょう。
結局のところ、この「アイデンティティの構築」が完成しないまま青年になってしまう人が増えてきてるんですかね現代、みたいな。
じゃあ「アイデンティティがないから人間関係の中で自己肯定感を得よう」というのはやっぱり甘くて、一時しのぎとしてそれは機能するけど根本的には「アイデンティティを確立する」ことでしか解決しえない問題だと思う。
今いる集団が解散したらあなたの自己肯定感は一気に消失する可能性があるっていうことを忘れちゃいけない。
学生なら卒業後、新しい集団の中で新しい自己肯定のための土壌を模索しなければいけない。
企業に勤めている人だってこのご時世だ、リストラや突如会社が倒産なんて可能性もゼロじゃない。
凄く親しい友人がいる
大切な家族がいる。
そんな人でも、必ず人は死ぬということを忘れてはいないか。
自分が死ぬまで自分とそばにいてくれるのは、自分だけなのだ。その自分が自分を肯定できないでどうする?
・・・そんなこと言ったって自分には何もないんだもん、なんていう人はたくさん居そうだが。
そういう人は本当にアイデンティティを見つけることと向き合うことをしたことあるんですか?と問いたい。
親が進学しろというから進学し、なんとなく就職が決まったから働いて、それで「仕事がつまらない」とかなんとか。
当たり前だ。自分と向き合って決めた生き方ではないのだから。