バブルに沸いた1990年頃、「3高」という言葉が流行した。
女性が結婚相手に求める条件の「高収入」「高学歴」「高身長」を指した。
女性活躍が広がる今
婚活男性に求められる条件はより厳しくなっているようだ。
昨年12月中旬、東京で「お金の価値観」をテーマにした婚活イベントが開かれた。〇〇証券の主催で、結婚の重要な決め手となる金銭感覚について気軽に話題にできるよう、合間にクイズも取り入れられた。
「デートをするなら高級レストランでディナー?それとも居酒屋でしっぽりと?」
司会者が問いかけると、
参加した男女約40人が
一斉に選択肢を書いた札を掲げた。
商社勤務の女性(38)は、「結婚相手の収入は、自分と同じかそれ以上ほしい。働き続けたいから、家事や育児をしてくれる人がいい」と、真剣な表情だ。
会社員の男性(34)は
「いい出会いがない。正直、女性に求めるのは、優しさと自分好みの容姿くらいなんですが」とつぶやいた。
ほにゃらら総合研究所が昨年3月、約7500人に結婚相手に求める条件を聞いたところ
男女ともに「話、価値観が合う」「一緒にいて楽しい」が上位を占めたものの、女性は「収入等経済力」が37.4%と高く男性(21.6%)と開きがあった。
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【まこ編】
男女ともに、「話、価値観が合う」「一緒にいて楽しい」が上位を占めたことに特記すべきことはないものと、この時点では考えたものの
結婚後に出産と育児がひかえていることを前提として婚活している女性が決して少なくないように思われるなかで、
男性に求める条件として「収入等経済力」をあげない女性が過半数を超えているというのが本当であれば、シングルで子育てという偏った経験をした私としてはやや驚きであった。
話が合い、価値観があって一緒にいて楽しいだけなら、友達で十分ではないだろうか。
一方で、結婚したら子どもがほしいと考えて、出産はお任せせざるを得ないもののそのサポートには何らかの形で徹し、共育児は当然という「価値観」をもっている男性が増えたらしい風潮を受けているものなのか、
まだ出会ってもいないが、自分の子を将来的には身ごもる期待を寄せるのであろう結婚相手に共働きを求め、もちろん産まれてもいない子どものために専業主婦をすることにも賛成できないとする男性までネット上には散見されるが、
この記事によれば女性に求める条件として「収入等経済力」をあげた男性が約2割にとどまっていたことは、私個人の社会生活の体感に近いところであった。
育児休暇を取得する男性はいるが、結婚や出産、育児、不妊治療や配偶者の転勤に伴って退職したり、パート勤務を選択する男性は今のところ身近にはいない。
(必要があればそうすればいいとは思う)
ここで記すべきか迷いもあるが、15年前に出産を機に死亡退職となった同世代の知人はいる。
もちろん、女性である。
男性に求める最低年収は「500万円以上600万円未満」が29.3%と最多、女性の6割が500万円以上を求めていた。
ただ、国税庁によると25〜29歳の男性の平均年収は420万円、30〜34歳で485万円だ。
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【まこ編追記】
先述の個別インタビューに応じてくれた37歳女性は、「働き続けたいので家事、育児をしてくれる人がいい、収入は自分と同じかそれ以上がほしい。」と述べている。彼女の年齢は明記したが、いまはとりあえず、同年齢の男性の平均年収には言及はしないようだ。
中央値ではなく平均値を用いているのは、より低額になってしまうことを懸念してのことなのだろうか。
女性の希望とかけ離れている実態を示したいのならば中央値を示し、婚活者の年代まで言及したほうがいいようにも思うが、おそらく記事の主旨としては、そこはまぁとりあえずどうでもいいのだろう。
女性が男性に求める希望年収と隔たりがあることに触れつつ、女性の平均年収には触れないあたりも主旨とは関係ないということなのだと思う。
ほにゃらら総合研究所の実名女性さんは、
年収500万円以上の未婚男性は4人に一人しかいない(のに?←まこ追加)共働きが増えているとはいえ、男性に家計の責任を負ってほしいと考える女性は多いと話す。
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それは当然と私は思う。
責任を負ってほしいと考えていない女性が一部にでもいるのだとしたら、驚きである。
男性であれ女性であれ、仕送りとアルバイトで生計をたてる一人暮らしの大学生であれ、自分の世帯の家計管理は自分で責任を負うものである。
収入の多寡とは関係ない。
低収入などを理由に
婚活市場への
二の足をふむ
立場の弱い
「弱者男性」もいて
男性間での格差も
広がっている。
などとはなにか
弱者とはなにか
社会的弱者(しゃかいてき じゃくしゃ、英: socially vulnerable)とは、一社会集団の成員でありながら、大多数の他者との比較において、著しく不利な、あるいは不利益な境遇に立たされる者(個人あるいは集団)のことである。wikipedia
はじめに
先日、X(旧Twitter)上で
「弱者男性」という言葉についての投稿をしました。それが性別に関わらず多くの方の目に留まり様々なご意見をいただきました。
私自身、この投稿において「弱者男性」と呼ばれる人たちを指差して責めたり批判したりする意図はありませんでした。
◆「弱者男性」という言葉が覆い隠すもの
① 男性による「女性差別」
② 男性社会が抱える問題
◆弱者男性という言葉が意味している「問題」「障がい」「罪」はどこに?
→自分の問題を自分で引き受けずに「仕方ないよね」と言ってもらえることを求めている。
その証拠に私は、『弱者男性』という言葉は卑怯だと書いており、決して「『弱者男性』は卑怯だ」とは書いていません。
しかし、多くの男性たちがそのように誤解をした原因は、私が書いた文章にあったのだと今は振り返っています。
前半:
「弱者男性」という言葉は、男性(社会)が抱える問題の本質を見えなくさせる卑怯な言葉である
後半:
男性たちが抱える問題の本質のひとつとして、男性の私が認識している男性の「弱さ」についてのものである
私自身が仲間と共に行っているメンズリブの活動の記録を読んでいただくと、私が言わんとしていることが、なんとなくわかっていただけるかもしれません。
あらためて
少し丁寧に言葉を紡ぎながら
私が「『弱者男性』という言葉は卑怯だ」と書いた意図をご説明させていただきたいと思います。
◆「弱者男性」という言葉
〜私の認識
まず初めに、「弱者男性」という言葉の意味と意義について、私の今の理解を書かせていただきます。
「弱者男性」とは
能力主義や資本主義、"モテ"などといった
競争原理が強く支配する男性社会における価値観のもと、力をもたないとされる男性たち、男性ヒエラルキーの下位に位置するとされる男性たちを指す言葉であると認識しています。
〈弱者男性とは〉
日本の
インターネットスラング
弱者男性(じゃくしゃだんせい)とは、独身・貧困・障害など弱者になる要素を備えた男性のことである。
この言葉は、マジョリティであり強者であるとされる男性の中にも、恵まれない者や不幸な者がいると論じるときに用いられる。
2010年代からSNSを中心に使用されるようになった。
定義・背景
多くの評論では、「弱者」の定義は曖昧だとしつつ、その構成要素の候補として、労働の非正規性や収入、容姿、コミュニケーション能力、パートナーの有無、発達障害や精神疾患の傾向などが挙げられている。
批評家のベンジャミン・クリッツァーは、そのつらさの内実として、経済的な困窮もありつつも、女性パートナーの不在による孤独感や承認の欠如が大きいと指摘している。
Wikipedia「弱者男性」より
男性の中の一部を「弱者」とする、この言葉の背景には、先に私自身の認識として書かせていただいた能力主義や資本主義"モテ"などといった競争原理が強く支配する男性社会における「強者」⇔「弱者」という価値観があると思っています。
言葉の背景とその意義には、「マジョリティであり強者であるとされる男性」とありました。
フェミニズムの視点に立つとき、社会においては女性がマジョリティで弱者、男性がマジョリティであり強者です。
そのため、男性の中で「弱者」とされる人たちの抱える困難は理解がされにくく、見過ごされがちであるといわれ、そんな男性の困難に焦点・関心が向けられるようにと、この「弱者男性」という言葉が用いられるようになったということです。
「悪用」される 「弱者」という言葉
ただ、実際にはこの言葉を武器にして、
「弱者男性」である自分たちの困難のケアを女性に求めようとする男性たちが現れました。その言説の具体例のひとつが「女性をあてがえ」論といわれるものです。
ここでいわれる「弱者男性」とは、必ずしも社会的弱者やマイノリティとイコールではないだろう。後述するように、もう少し繊細な語り方によってしか取り出しえない実存/制度・構造のはざまの領域があります。
女性や性的少数者よりもマジョリティの男性(の中の弱者)の方がいっそう不幸であり、真の被害者は弱者男性であり、国家や社会からの制度的支援が何もない――というように、弱者男性論は個々人の実存の話から制度の話になっていく。
さらには「制度設計によって弱者男性に女性をあてがえ」論(いわゆる「あてがえ」論)のようなものも出てくる。
そこまで極端ではなくても、勝ち組の強者女性は負け組の弱者男性を積極的にケアすべきだ、という要求なども見られる。
救いがなく、惨めで、ひたすらつらく、光の当たらない人生がある、ということ。
そのことをせめてわかってほしい。
「男性はすべて等しく強者」という乱暴な言葉で塗り潰さないでほしい。
誰々よりマシ、誰々に比べれば優遇されている、という優越や比較で語らないでほしい。
不幸なものは不幸であり、つらいものはつらい。そうしたささやかな願いが根本にはあるのだろう。
あらかじめいえば、私は、そうした根本の声は絶対的に肯定されるべきである、と考える。
ただし、それを
「異性にわかってほしい」という承認論によって解決しようとするべきではない、とも考える。