ジェンダーをテーマにした新聞の特集の一部に、【言葉がけ影響】というタイトルがあった。


 

「男の子なんだから泣くな。ぐっと、我慢しろ」団体職員の女性(44)は、会社員の夫(44)が小学3年生の長男にこんな言葉をかけるたびに違和感を感じる。


長男はこの言葉を聞くと


「わかった」と素直に応じ、涙をこらえようとする。



「そんな言い方はしないでほしい。」と夫に言うと「だってそうだろ」という返事。




夫にとっては

自然な感覚なのでしょう


と女性は言う。




「長男には

いろいろな考え方があることを

伝えていきたい」 




丸い卵も切りようで四角! 

物も言いようでカドがたつ!



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小さなことでイライラするのは人生全体の方向が間違っているから

~ 加藤諦三 ~




 

幼少期に偏った価値観を植え付けないよう、言葉がけに気を配る親もいるが、子どもたちは自然と影響を受けていくようだ。



ジェンダー平等を授業に取り入れる動きは、男子校で広がっている。


高校1年生の授業で生理をとりあげ、テレビドラマを通じて、その仕組みや大変さ、女性特有の病気なども学んだ。


教諭の黒木さんは20年前から自身の育児体験などを交えて保健の授業をしてきたが、共働き家庭が増え家庭環境も変化していると感じ、テレビドラマを題材にして女性の働き方や結婚観などを考えさせる授業を展開している。


「任せる」時代から

「一緒に考える」時代へ




男も女性のことを理解する必要がある。

男らしさのアップデートです。


授業後、男子生徒は「パートナーをいたわれるようになりたい」と話した。


女子大と男子校が、ともに学ぶ取り組みもある。


男子生徒は、「稼ぎ頭は男であるべきという偏見があった。当たり前に思うことに立ち止まり、疑問を持つ大切さを知った。」と話し、女子生徒は「男性に養ってもらおう。デート代は男性が多く払うもの」という、無意識の偏見に気づく効果があったという。


教育ジャーナリストのおおたとしまささんは、「格差や差別をなくすことが課題。競争に勝てる人間ではなく、競争しなくてもいい社会をつくれる人間」を育てるのが学校の役目だ。少年期から日々の授業のなかで、ジェンダー平等を染み込ませる教育が必要だと強調した。



〇〇らしさのアップデート


競争に勝てる人間ではなく

競争しなくてもいい社会を

つくれる人間


〇〇らしさとは

アップデート

できるものなのか?

すべきものなのか?


競争を

しなくても

いい

社会とは??





スパゲティをゆでる時

時計の針は


必ず

中途半端なところにある。


きりのいいところから

何かを始めようとする人は、


永遠に始めることができない。


~ 中谷彰宏 ~






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人類を束ねて二つに割って、その二群がどう違うかという話は、本当はあまりしないほうがいい。


なぜなら、たとえば


男が女よりも空間把握能力が高いという統計を教えると


あの女よりもおれのほうが偉い


そう考えて喜ぶ馬鹿がかならずいるからである。


それは、まったくの間違いである。



男には男の能力

があり

女には女の能力

がある。


そんなことは、わかりきったことである。


それと同時に、


個性の幅がある。  個性の幅は、しばしば男女の統計的な差を超える。


そういう性質については、じつは統計的に男女差があったとしても、それを論じる意味はあまりない。


社会の中でわれわれが出会うのは、それぞれの個人


であって


一般的な男女ではないからである。


こうしたすべては、ただの常識であろう。


だから現代人は


ほとんど社会の論理、すなわち人工物の論理しか使っていない。


この人工物論理は、ものごとをきれいに割り切る。


しかし、その論理をそのまま自然にあてはめると、しばしば使いものにならない。


自然はじつは割り切れない。


だから、男女の差も、生死と同様、絶対的なものではないのである。


 

こうしてはじまる「自然を割り切らない」養老孟司講義は、気づきと洞察に充ちている。





「男女の違い」においても

そこに<自然を排除する>思考がある。


それとはまたべつの

しかし密接に関連する大きなトピックとしてあることを書いておきたい。


 


男女の身体的な違いを説明してゆくなかで、上述の


「自然は割り切れる」という偏見に加え、男性中心主義による偏見、さらには「機能中心主義」という偏見を、養老孟司はあぶりだしている。


挙げられる例は「骨盤」のトピックで、多くの教科書が男性の骨盤を基準として捉え、また「女の骨盤をお産に適合した形」と書く。 


その「はたらき」(機能)を重視するからである。








しかし、形を考えるときに、はたらきばかり考えると、わかりはいいのだが、しばしば誤解を生じる。


「なんのために」という説明は、人間が作ったものについては、よく当てはまる


なぜなら、


人間は、ものをある目的で作り出すからである。しかし、


自然の存在については、そう簡単に「目的」がわかるとはかぎらない。そんな目的など、まったくないかもしれないのである。

一養老孟司・長谷川眞理子

『男の見方 女の見方』PHP文庫




人間が「脳化社会」にすっぽりと入り込んでしまうときに陥ってしまいがちな


思考の癖や偏見

「自然」を置いてみることで、相対化している。


「思考の道具箱」に入れておきたい視点であると、ぼくは思う。