令和5年1月15日(日) 

長男は、すでに就職し 
次男りくも、今では大学2年生



昨年の今頃、私は
未子である次男りくの
共通テスト当日に、思いを馳せて

あの日 私は、なぜ泣いたのか。

考えてみたけれど
いまも、よくわかってはいない。

それでも、なんとなく



これから共通テストを受け
国立二次試験に挑むところの

すべてが
「これから」 の受験生次男を
自家用車の後部座席にのせながら

私は、ひとり
「これまで」を思い



子育てを終えた感覚満載の
寂しさと充実感を
早々に先走って味わいながら

「ここまで」
18歳の受験生になるまで


私のもとで育ってくれたことへの
感謝の気持ちを、噛み締めていた。

 ように思う。


育ててもらって当たり前ではない
受験できることが当たり前ではない

子どもの立場の人たちに
向けられることの多い
それらの言葉は

私の場合、親の立場の自分自身へのものとして、受け取り感じとることが多い。


その感じ方は、過去 
親権を巡る、母親としての
いろんな苦悩を味わった経験と
無関係ではないように思う。




自ら産んだ子供を
自らの手で

18歳まで、育てることができた。


私自身の両親や姉妹をはじめ
地域や近所、学校関係等の

たくさんの方たちへの感謝は
表現し尽くせないほどのものであるが

それでもなにより、私は今日も
我が子に一番、感謝をしている。


産まれてきてくれることが
当たり前ではなく

育てさせてもらえることが
当たり前ではなく

将来を生きる意思に支えられて
受験に挑む息子の背中に
エールを送り

合格したら
学費を支払い、仕送りをする。

そんなふうに
親としてつとめさせてもらえることは

私にとっては、
当たり前に手に入れた時間ではない。


    
人として産まれてきたのは運命で
人がいつか、死ぬのは必然

しかしながら

人として、どう生きるかは
  本人の意思 


弘田さんが
そう言ったわけではないけれど

20歳の頃にきいた話は
当時の彼の年齢を超えた今 

思い起こすと、
そういうことであるように
私は勝手に思う。


それが、教育というものなのだろう。
 

教育とは決して先走りの自己採点を
してあげることではない。
したことさえも、忘れていたけれど🤭


受験生は読んでいないけど

共通テスト
お疲れ様でした😄