高野山 四国巡礼満願 御礼参りと家族で居酒屋と山形サクランボ | ほっしのブログ

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7月1日(金曜日)
四国巡礼満願御礼参りに高野山に行って来た^^
弘法大師が都遥かに都を離れ、しかも約1000mの高峰であるこの高野山を発見されたことには古くから伝えられる物語があります。
それは、弘法大師が2カ年の入唐留学を終え、唐の明州の浜より帰国の途につかれようとしていた時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を投げられた。
その三鈷は空中を飛行して現在の壇上伽藍の建つ壇上に落ちていたという。

弘法大師はこの三鈷を求め、今の大和の宇智郡に入られた時そこで異様な姿をした一人の猟師にあった。
手に弓と矢を持ち黒と白の二匹の犬を連れていた。弘法大師はその犬に導かれ、紀の川を渡り嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出会い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中深くに進んでいくと、そこに忽然と幽邃な大地があった。

そして、そこの1本の松の木に明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけこの地こそ真言密教にふさわしい地であると判断しこの山を開くことを決意されました。
 
天空に広がるように存在する聖地「高野山」。
高野山全体を「総本山金剛峯寺」とし、「一山境内地」
 
高野山真言宗(こうやさん しんごんしゅう)
総本山 金剛峰寺(そうほんざん  こんごうぶじ)
 
高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、
開かれた真言密教の聖地です。
「金剛峯寺」という名称は、
お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経
(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』
というお経より名付けられたと伝えられています。
東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。
 
まず最初に、奥之院へ
奥之院(おくのいん)
高野山の信仰の中心であり、弘法大師さまが御入定されている聖地です。正式には一の橋から参拝します。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。

一の橋
ここから約2kmの参道を歩く
 
 
武田信玄墓所
 
大師、腰かけ石
石田三成墓所
 
中の橋
汗かき地蔵
姿見の井戸
 
撮影はここまで
ここから先は撮影禁止
 
御廟橋(ごびょうばし)
燈籠堂(とうろうどう)
堂内には消えずの火として祈親(きしん)上人が献じた祈親燈(きしんとう)、白河上皇が献じた白河燈、祈親上人のすすめで貧しいお照が大切な黒髪を切って献じた貧女の一燈(いっとう)、昭和の時代にある宮様と首相の手によって献じられた昭和燈が燃え続け、その他たくさんの方々の願いが込められた燈籠が奉納されています。
 
弘法大師御廟(こうぼうだいし ごびょう)
大師信仰の中心聖地であり、現在でも肉身をこの世にとどめ、深い禅定に入られており、わたしたちへ救いの手を差し伸べていらっしゃるという入定信仰を持つお大師さまの御廟所
 
帰り参道で見つけた大きなキノコw
 
奥之院  納経
奥之院 御影
 
金剛峰寺(こんごうぶじ)
和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の総本山の寺院。正式には高野山金剛峯寺と号する。 高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの盆地状の平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する日本では他に例を見ない宗教都市である。
「紀伊山地の霊場と参詣道」として熊野三山と吉野・大峯とともに世界文化遺産に登録され、平安時代のはじめに真言宗の宗祖である空海(弘法大師)によって修禅の道場として開かれました。
正門
「金剛峯寺」には寺紋が二つある
一般は1つです。 左が豊臣秀吉拝領の青厳寺の寺紋「五三の桐」、右が高野山の鎮守・丹生都比売(にうつひめ)神社の寺紋「三頭右巴」です。 2つの寺紋が一緒に撮れるこの正門は、「金剛峯寺」の建物の中で一番古いもの
主殿
鐘楼
金剛峰寺内も撮影禁止です。
襖絵(お借りしました)
各殿ごとに様々な襖絵が・・・。
金剛峯寺襖絵
柳の間(やなぎのま)
 
蟠龍庭(ばんりゅうてい)
2,340平方メートルの石庭は、国内で最大級を誇っています。
この石庭では、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守っているように表現されています。
龍を表す石は、お大師さまご誕生の地である四国の花崗岩が、雲海を表す白川砂は京都のものが使われています。
 
中庭
四季折々の風景が眺められる庭園
 
金剛峰寺  納経
金剛峰寺  御影
 
四国別格20霊場で集めた腕輪念珠 ツゲ玉
自分で作り上げました。
 
高野山大師教会
 
平成27年の高野山開創1200年に向け、平成の高野聖(こうやひじり)として「こうやくん」が誕生しました。高野山の広告塔として、日本全国を行脚し、高野山の魅力を多くの人に伝えてまわる。
 
壇上伽藍(だんじょうがらん)
お大師さまが高野山をご開創された折、真っ先に整備へ着手した場所です。お大師さまが実際に土を踏みしめ、密教思想に基づく塔・堂の建立に心血を注がれました。その壇上伽藍は、〈胎蔵曼荼羅〉の世界を表しているといわれています。高野山全体を金剛峯寺という寺院と見たとき、その境内地の核にあたる場所で、古来より大師入定の地である奥之院と並んで信仰の中心として大切にされてきました。
 
中門(ちゅうもん)

金堂の正面手前の一段低い所にある中門。五間二階の楼門で、両脇には持国天(じこくてん)像(東)・増長天(ぞうちょうてん)像(西)がまつられていましたが、天保14年(1843年)に壇上を襲った大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くしました。その後長らく再建はされていませんでしたが、高野山開創1200年記念大法会の記念事業として、平成26年(2014年)に中門を再建、翌27年(2015年)4月2日に落慶法要が執り行われました。なお、再建するにあたって増長天像と広目天像が現代の大仏師・松本明慶により新造され、天保14年に類焼をまぬがれた二天像と共に四天王像が中門を、ひいては伽藍全域を守護しています。

 
金堂(こんどう)
高野山御開創当時、お大師さまの手により御社に次いで最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました。平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。 
の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成しました。梁間23.8メートル、桁行30メートル、高さ23.73メートル、入母屋造りですが、関西近代建築の父といわれる武田五一博士の手によって、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立されました。 内部の壁画は岡倉天心に師事し日本美術院の発展に貢献した木村武山(ぶざん)画伯の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の阿閦如来(薬師如来、秘仏)は、洋彫刻の写実主義に関心をよせ、江戸時代までの木彫技術に写実主義を取り入れて、木彫を近代化することに貢献された、高村光雲仏師によって造立されました。
 
根本大塔(こんぽんだいとう)
お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。
 
大塔の鐘・高野四郎(こうやしろう)
お大師さまが鋳造を発願され、真然大徳の時代にようやく完成したと伝えられています。火災などで度々鐘楼が焼失し、三度ほど改鋳されました。現在の銅鐘は天文16年(1547年)に完成したもので、直径2.12メートルの大鐘で、日本で四番目に大きな鐘であったことから高野四郎と呼ばれるようになりました。現在でも毎日午前4時、午後1時、午後5時(春季彼岸中日より秋季彼岸中日までは午後6時)、午後9時、午後11時の5回に分けて時刻を高野山内に知らせています。
金堂 根本大塔 納経
 
今後は、成満の証をいただきに京都 東寺〔教王護国寺〕へ
参拝だなw
 
先々週、娘夫婦と4人で何時もの居酒屋さんへ
旅行の打ち合わせ^^
お通し
お造り盛り合わせ
マグロ
炙りしめ鯖
牛タタキ
キスの天ぷら
トウモロコシの天ぷら
豆腐サラダ
大根サラダ
大きな鯛のかぶと煮
エビガーリック
てっちゃんとニンニク炒め
豚バラもやし炒め
 
鳴門に決まり、翌日予約完了^^
 
この時期 旬(^^♪
山形の友達からさくらんぼが送られて来ました^^🍒🍒🍒
 
いつもながら、美味い🍒 🍒 🍒
 
またまた長~いブログ^^;
最後まで、ご覧いただきありがとうございましたm(__)m
 
暑い暑い、夏到来ですね。
  熱中症対策と紫外線対策を万全にして、
       お体十分ご自愛下さいませ。
 
感謝の念に堪えません_(._.)_