薔薇の香りに包まれて | 夢の終わりに・・・

夢の終わりに・・・

哀しいほどの切なさとときめきを


真夜中の首都高を疾走する黒のMercedes。
ハンドルを握る手に悔しさが滲む。
間に合わなかった・・・マヤの誕生日。
真澄の左手首に光る時計の針は既に新しい日をカウントしていた。
匿名の紳士としてではなく速水真澄として初めてマヤの誕生日を祝える筈だったのに、無情にも仕事がそれを邪魔した。
マヤには会議の合間の極僅かな時間にどうにも外せない緊急の仕事が入ってしまった旨を伝えた。
マヤは特別残念がることもなく、お仕事を頑張ってねと笑って許してくれた。
予約していた夕食もダメになった。
マヤが喜ぶアントルメをたくさん出してくれるフレンチレストランだったのに。
辛うじてコース料理とは別誂えでオーダーしておいたその店のバースデーケーキだけは、第三秘書に頼んで引き取ってきてもらった。
真澄は助手席にある紙袋にチラッと目線を向けた。
だが、もう日付も変わってしまってはどうしようもない。
何もかもが真澄には色褪せて見えてしまう。
きっとマヤもそうに違いない。
真澄から忸怩たる想いが滲んだ深いため息が溢れた。

真澄から夕食のキャンセルを受けて、マヤは仕事を終えると早々に帰宅していた。
仕事ならば仕方がない。
自分だって過去には仕事で、真澄の誘いに遅れたり、ドタキャンしたこともあった。
お互い様である。
だからマヤは然程今夜の事は気にしていない。
むしろこれが逆の立場で、真澄の誕生日を自分が祝い損ねたことの方がよほど落ち込むだろう。
「速水さんもそうなのかな・・・」
男と女でイベントに対するモチベーションは大きく変わるだろう。
それに真澄は自分よりも一回り近く大人だ。
社会的な地位も責任もある。
今ではグループの本丸である大都株式会社の副社長だ。
近い将来、その頂に立つことを約束された男だ。
いくら恋人とはいえ、そうそうプライベートを優先できる立場にはない。
これからもこんな事は日常茶飯事であろう。
けれど、日付は変わっても真澄はきっと逢いに来てくれる。
期待ではなく確信。
真澄は仕事では鬼と呼ばれるほどクールだが、不誠実な人間ではない。
むしろ誠実で純粋過ぎる内面を持ち合わせている。
きっと今日だって 相当やきもきして仕事をしていたに違いない。
マヤはいつやって来るかわからない真澄を待つ事にした。
それすらも今では幸せな事だ。
近くて遠かった速水真澄の恋人になれた事がマヤはまだ夢の中の出来事のように感じる。

マヤのマンションの地下駐車場に車を停めて、腕時計を確認する。
間も無く午前1時になる。
もうマヤは寝ているかもしれない。
真澄はスペアのカードキーでセキュリティを通って、マヤの部屋に自分で入った。
玄関ホールの明かりは消えていたが、ホールの先にある幾何模様のステンドグラスが嵌まったリビングへ続くドアからは灯が漏れていた。
真澄は静かにそのドアを開いた。
「マヤ・・・」
低く静かな声で彼女の名を呼ぶが、反応はない。
マヤはリビングのソファのクッションにもたれ掛かるようにして、うたた寝をしていた。
部屋の温度は充分に暖かいから風邪をひく事はないが、このままにはしておけない。
真澄はダイニングキッチンのテーブルに持ってきた荷物をとりあえず置いて、再びリビングに戻った。
「マヤ・・・ただいま。」
手でトントンとマヤの肩を優しく叩いて起こす。
よほど疲れていたのか、なかなか起きない。
真澄は仕方なく、スーツの上着を脱いでマヤに掛けると、その頭の隣に腰掛けてしばらくマヤの寝顔を見つめていた。
長い睫毛が白い肌に映える。
真澄の長い指がマヤの髪に触れ、練絹のような艶やかな髪を指が絡んだ。
こんな些細な触れ合いだが、マヤが自分の恋人になったことを強く実感できる。
「俺の・・・マヤ・・・可愛い過ぎて困るな・・・」
マヤが眠っているのをいいことに、普段は照れ臭くて言えない言葉がこぼれ落ちた。
恋人になればもっと安心できると思っていたのに、些か考えが甘かったようだ。
まだ正式に公にはしていないものの、週刊紙にすっぱ抜かれても敢えて否定せずにおいたから、二人の交際は世間で認知されている。
だから、他の男からのマヤへの秋波は幾分かは減った。
だが、「速水真澄を落とした女優」として寧ろ興味を掻き立てられると、隙あらば・・・虎視眈々と狙っている輩の話を耳にすれば、心中穏やかではいられない。
たとえどんな男に言い寄られようと、マヤが自分を裏切る事なんて有り得ないと信じてはいる。
だが、マヤに興味を示す男が自分以外に存在すると思うだけで許せない気持ちになるのだ。
子供っぽい独占欲かもしれないが、自分ではどうすることもできないし、改める気もない。
それに真澄のマヤに対する独占欲は他人に対してだけじゃない。
恋人になって初めて知った感情があった。
そんなことをつらつらと思っていたら、マヤが目を覚ました。
「あ、お帰りなさい・・・寝ちゃってたね、私。」
マヤが髪を手で整えながら笑う。
「マヤ、ごめん・・・誕生日・・・間に合わなかった。」
真澄は本当に申し訳ないと言った顔で謝罪を口にする。
「いいの、こうして逢いに来てくれただけで。
速水さんがどれだけ忙しいか、解ってるつもり。」
我儘を全く言わないマヤが有難くもあり、不憫でもあり、淋しくもある。
「もっと我儘になっていいんだぞ・・・君の誕生日なんだから。」
起き上がったマヤを抱きしめて言った。
ようやくマヤを抱きしめることができて、ほっとする真澄だった。
「一緒に君と誕生日を祝いたかったのに・・・。
24歳最後のマヤにも逢いたかったし、25歳最初のマヤにも逢いたかった。
そして君のためのシャンパンを開けて、美味しいものを鱈腹食べさせて、大好きな甘いもので思い切りマヤに笑って欲しかったんだ。」
初めて二人で迎えるはずだったマヤの誕生日に描いていた真澄の夢は儚くも消えてしまったのだ。
心からガッカリしている真澄に、マヤは小さな驚きを覚えると同時に、喜びを感じた。
これ程に真澄が自分を愛して、大切にしてくれている真澄が心から愛おしい。
「ありがとう・・・」
マヤが真澄を抱き返す。
「そうだ、速水さん!
お仕事で疲れてるでしょ、お風呂とお夜食準備してあるの。」
約束を守れなかったことを怒るどころか、自分のために風呂や食事の支度までしてくれたマヤに真澄は感動を覚えた。
まるで自分がプレゼントを貰ってしまったみたいで、嬉しさと共に申し訳なさが込み上げた。
「ありがとうマヤ・・・。」
真澄はダイニングから持ってきた花束とケーキを渡した。
マヤはとても嬉しそうに紫の薔薇の香りを味わったあとクリスタルの花瓶に差し、ケーキの箱は大切そうにダイニングの冷蔵庫にしまった。
「マヤ、、、一緒に入ろう」

真澄と二人で余裕で浸かれる大きな円形のバスタブは乳白色のパール仕様で、ジャグジーも付いて、高級エステサロンのスパのような造りになっていた。
天然の大理石や石材を惜しみなく使ったバスルームは、真澄がマヤのためにマンション設計時から拘った逸品だ。
そのバスタブにはほのかに薄紫色に色づいた湯が滔々とゆらめいていた。
真澄がひと足先にバスルームに入って待っているところにマヤが恥ずかしそうに入って来た。
「すごい・・・いつの間に?」
真澄が優雅にバスタブに浸かる光景を見てマヤが思わず呟いた。
お湯一面に紫の薔薇の花弁が浮かんでいた。
そして真澄が微笑んで手を差し伸べる。
「早くおいで・・・」
すっぽりと真澄に背中を抱き止められて、薔薇湯に浸かる。
いつものローズオイルに加え、生花のバラの香りが鼻先をくすぐる。
「こんなの初めて・・・」
憧れだった紫の薔薇の人がいつしか恋人になって、誕生日にプレゼントされた紫の薔薇を散らしたお風呂に一緒に入るなんて、夢ですら想像したことはなかった。
それが現実になっているなんて、マヤは気持ちがふわふわしてきて、どうしていいかわからなくなってしまった。
嬉しさ余って、涙も出てきてしまう。
マヤが泣いてることに気づいた真澄は、マヤの背後から彼女の頬に唇を寄せた。
「泣くなよ・・・必死に我慢してるのに抑えが効かなくなる。」
涙を拭った真澄の唇はそのままマヤの唇に重なった。
やがて言葉を失くした二人。
バスルームには湯のちゃぷん・・・という音だけが時折響いた。



ベッドに移っても二人の身体から薔薇の香りは消えず、明け方まで愛を交わして眠りに落ちた二人に朝日が柔らかく降り注いだ。
眠っている間も真澄の腕はマヤを片時も離すことはなかった。
マヤは真澄の温もりに包まれて、幸せな夢を見ている。
夢の中でマヤは、生まれてきて良かったと最愛の母に、そして真澄に笑いかけていた。

Fin