春を告げる花 | 夢の終わりに・・・

夢の終わりに・・・

哀しいほどの切なさとときめきを


「真澄様、もう危機は脱し、鷹宮との提携解消の峠も越えたのですから、今夜こそご自宅にお帰りになって下さい。」
時計の針が午後七時を回る頃、帰り支度を済ませた秘書の水城が真澄に声をかけに来た。
もうひと月近く真澄はまともに帰宅していない。
大都本社の取締役専用フロアーにある社長室の隣には、セミダブルのベッドとビルトインクローゼットを備えた仮眠室とシャワーまで備えたサニタリールームが併設されていた。
都心ホテルのデラックスルームくらいの広さと機能性を持っているため、贅沢を言わなければ充分生活は出来る。
現に真澄は今ここで生活をしていると言っても過言ではない。
クローゼットには何着ものスーツやその他必要なアイテムも揃っていた。
「ああ、心配をかけてすまない。
俺のことは大丈夫だから、君も早く帰宅したまえ。」
真澄はディスプレイから一瞬目を離して、水城の方を見遣った。

一人になったオフィスで黙々と仕事をする。
仕事をしていれば少しは気が晴れる。
意に染まない縁談が進んでいた頃は、季節でいえば厳冬・・・まるで永久凍土に埋もれて、まともに息もできないような苦しかった日々だ。
あの状況から見れば今はよほどましな状況と言えようが、真澄にとっての春はまだまだ遠い。
そもそも自分に春など永遠に訪れはしないと諦めているふしもある。
手を伸ばして手折った瞬間に枯れてしまう花・・・真澄にとってマヤはそんな存在だった。
だから、永遠に失うくらいなら、最初から諦めて遠くから見つめているほうがいい。
我ながらあまりの意気地のなさに、自分で自分を嘲笑ってしまう。
諦める潔さもなければ、思いを遂げる強さもない。
後ろにも前にも行けない臆病な自分。
「全くどうしたいんだろうな、、、俺は。」
そんなふうに悶々とした日々を送る真澄だったが、ある日思いもよらない事態に陥った。
それがよもや己の運命を大きく動かすことになるとも知らずに・・・。

真澄は数日前から原因不明の吐き気や腹痛に悩まされていた。
今は多忙な時期であったし、過去にも多忙事には時々胃が痛くなる事もあり、今回も同様の症状だと思い、市販の胃腸薬を飲みながら誤魔化し仕事を優先していた。
だが、自覚症状が出始めて五日目の夕方、社会会議を終えて執務室に戻った直後に、これまでに経験したことのない腹部の激痛が真澄を襲った。
膝から崩れ落ちるように床に疼くまり、両手で腹部を押さえて、悲鳴にも近い呻き声を上げた。
真澄に追随してきた水城は一瞬何が起きたのか分からず、その場で硬直したが、すぐさま日頃の冷静さを取り戻し、迷う事なく救急車を手配し、大都と懇意にしている広尾にある東都大学病院の救命救急に連絡を入れた。
幸い真澄と水城が最も信頼している救命医は勤務中とのことだった。
そして水城は要らぬ混乱を避けるため、秘書課の信頼のおける部下に密かに指示を出し、救急隊を本社ビルの地下駐車場から貨物用エレベーターで密かにこのフロアに誘導させるようにした。
一通りの電話連絡や指示を終えると、水城は蹲る真澄をどうにかソファに移動させた。
意識も脈もしっかりしているが、かなり危機的な状況であることは間違いない。
最近あまり調子は良くなさそうであったが、無理にでも医者にかからせるべきだったか。
だが今はそんな後悔など何の役にも立たない。
痛みのあまり、青ざめて脂汗をかいている真澄の顔や首元をタオルで拭いてやる。
あまりに強い痛みで真澄は何度も嘔吐を繰り返すが、ここ数日ほとんど何も口にしていないのか、吐瀉物はほとんどない。
水城は口元に別のタオルをあてがい、真澄の背中を摩ってやりながら救急隊の到着を待つしかなかった。

水城の機転でスムーズに病院搬送された真澄を東都救命センターのエースである新藤が待ち構えていた。
実はこの新藤は真澄の大学時代の先輩で、数少ない友人の一人でもあった。
彼もまた日本の最高学府の医学部を首席で出たエリートだが、卒業後は単身アメリカに渡り、ERの本場で叩き上げのスキルを身につけて、同国の専門ライセンスを最短で取得した。
あくまでも現場と臨床にこだわり、旧態然とした母校から誘いを断わり続けた新藤が東都医大に移籍したのは、学閥にとらわれず、ER部門のイノベーションを遂行したいという、東都医大学長の強いラブコールを受けだからだ。
その学長もまた東都にとっては外様で、その事実で東都の本気度を確信しての事だった。
そんな新藤が救命救急センターの入り口で逞しい腕を組んで仁王立ちになって真澄の到着を待っていた。
190センチ高い身長とがっしりとした体躯を誇り、アメフトの選手と言われても納得してしまいそうなスタイルだ。
綺麗な杏型の目と程よく形の整った鼻梁で、いわゆるイケメンに分類されるタイプだ。
しかし残念な事に、本人は自身の容姿には全く興味もなく頓着もせず、髪型も院内の理髪店で10分で済ませるスポーツ狩りで、口元も無精髭に覆われていた。

やがて救急車がサイレンを鳴らしてセンターの搬送口に滑り込んでくると、新藤はストレッチャーが降ろされると同時に、真澄の腹部に手を当てて触診した。
「っ、、、結構いい感じにヤバいな、、、」
ストレッチャーと共に自分も小走りで、独り言を呟くが早いか、チームの看護師や他の医師たちにすぐさま指示を出す。
処置室に着いたその瞬間からラインの確保、採血、腹部エコー、X線検査がほぼ同時に進行していく。
だが新藤はその検査の結果を待つまでもなく、もう一つの重大な指示を出した。
「緊急オペだ、直ぐにオペ室に連絡を。
執刀は俺がすると伝えてくれ。」
新藤が真澄の方を軽く叩く。
「速水、わかるか?」
真澄は苦しそうに頷く。
真澄の周りを慌ただしくスタッフが処置室の中を行き交う。
「先生、結果出ました!」
看護師から血液検査の結果の用紙を受け取る。
そして目下に横たわる真澄に声をかける。
「CRP25、、、なかなかにイカした数値叩き出してるなぁ・・・速水、お前いつから我慢してた?
お前の病名は急性虫垂炎だ・・・いわゆる盲腸だ。」
新藤の存在に安心したのか、痛みに慣れてきたのか分からなかったが、真澄はなんとか言葉発することができるようになった。
「・・・なんだ・・・盲・・・腸です・・・か。」
「馬鹿者、お前、たかが盲腸とナメめちゃいかんぞ。
お前の盲腸はパンクして、腹膜炎を起こしてる。
一刻も早くオペしないと生命に関わるんだ。」
時折意識が遠のく真澄は、上手く回らない思考で新藤の言葉を何とか受け止める。
「・・・新藤さん、俺・・・死ぬ・・・んですか・・・死ぬ・・・なら・・・その前に・・・」
「それだけ喋れる元気があるなら上等だ。
大丈夫だ速水、お前は運がいい。
俺のところに来た以上は絶対に死なせやしねえよ。
それよりなんだお前、死ぬ前に会いたい女がいたのか?
それなら先輩のよしみで特別にお前が逢いたい奴を呼んでやるから感謝しろ、、、誰だ?」
新藤は真澄の意識が保たれるよう、わざと軽口を叩いていた。
そしてオペ室の準備ができたとの連絡で、ひと足先に真澄がオペ室に移動した。
その後水城が新藤から呼ばれ、真澄の病状説明がされた。
ひと通りの病状とリスクの説明をしたのち、新藤が言った。
「水城さん、もし彼奴に恋人がいるなら連れてきてやってくれませんか。」
一瞬、それほどまでに真澄に生命の危機が迫っているのかと水城が絶句する。
「あ、すまない、俺の言葉が足りないな。
速水は確かにヤバい状態ではあるけど、この後直ぐにオペをするから大丈夫だ。
これは医師としてというより彼奴の先輩としての発言と思ってもらいたい。
俺は詳しいことはよく知らないんだが、彼奴が長年何かに思い詰めている事は感じていた。
人間、土壇場崖っぷちに立たされると、本音が出るというか、素直になるというか、彼奴、涙を流してた・・・そして一言、マヤって。」
新藤もその一言で全てを悟ったのだ。
真澄が長年孤独に抱えてきた苦悩に。
今回の事もその苦悩からの逃避で自身の体調すら顧みることのなかった結果なのだろうと。
「彼奴の身体は俺が治してやれるが、心までは無理だ。
でも俺は彼奴の心も救ってやりたいんだ。
じゃなければ、彼奴はまた無茶をする。
まるで死に急ぐ人間のように。」
「わかりました、その件は私にお任せください。」
どちらかといえば孤高な真澄に、心を寄せてくれるこんな先輩がいた事に感銘を受けた水城は微かに笑みを浮かべ、新藤の頼みを請負った。
直後、看護師からオペの開始時間を告げられた新藤は、自身も急いで準備に入るべく、足早にその場を去った。

通常の虫垂炎の手術では半身麻酔が使われるが、腹膜炎を併発した真澄は全身麻酔を使って手術が行われた。
故に病室に戻ってきてもまだ真澄の意識は朦朧としており、真澄が自身の状況を把握できるレベルで覚醒したのは翌日の未明の事だった。
真澄の視界に最初に入ってきたものは、病室の白い天井と点滴だった。
真澄はゆっくりと瞬きを繰り返して、これまでの出来事を思い出す。
救急車で運ばれて、大学時代の先輩である新藤から病状を聞いたものの、激痛のあまりはっきりと内容は理解していなくて、よく思い出せない。
だが、「結構ヤバいぞ」という新藤の言葉だけが鮮明に残っていて、自分は死ぬのかもしれないと思った。
そしたら急に言いようのない哀しみに襲われたのだ。
それはあの七転八倒する激痛さえ霞んでしまう程の哀しみだった。
あの哀しみの正体は後悔・・・こんな事になるなら、せめてあの子にこの胸の想いを伝えれば良かったという忸怩たる未練だ。
こんな愚かで馬鹿な男だったけれど、誰よりも北島マヤを愛した奴がいたんだと記憶の片隅にでも留めておいて欲しかった。
そして何より、死ぬ前にもう一度マヤに逢いたいと思った。
「マヤに逢いたい・・・」
あの時自分は確かにそう言った。
いつもいつも思っていた・・・でも、言葉にしたのは初めてだったかもしれない。
そして麻酔で薄れゆく意識の中、無影灯の強くて白い光の先に自分が見たものは、無邪気な彼女の笑顔だった。
〜・・・助かったんだな・・・俺は・・・何だよ・・・先輩・・・〜
死ぬかもしれないと思って、心の命ずるままに言葉を紡いだのが、今となっては恥ずかしい。
まさにどさくさに紛れて、とんでも無い事を口にしてしまった気がするが、あの緊迫した中で、新藤がその言葉をちゃんと聞いていたかは疑わしいし、新藤には何のことか分からなかっただろう。
だから、もう気にするのはよそうと、真澄は再び巡ってきた眠気に静かに身を任せた。

二回目の目覚めは、よりはっきりと真澄に生命の覚醒を感じさせた。
完全に麻酔が切れた肉体には、手術の後の痛みと喉元の息苦しさがあった。
「・・・ぅぅっ・・・」
痰が絡んだ喉が息苦しく、痰を切ろうと腹部に力を入れようとしたが、それが失敗だった。
腹の傷が酷く痛んだ。
「・・・大丈夫ですか?」
ベッドから少し離れたところで誰かの声がした。
看護師だろうか・・・真澄は声がした方向に首を動かした。
そして思わず目を見開く。
〜俺はまだ麻酔から覚めてないのか?〜
病室の窓際に置かれたソファのところに立っていたのは紛れもなく北島マヤであった。
「痛みますか?」
マヤが足早にベッドの脇まで近づいて、心配そうに見下ろしている。
「・・・どうして・・・君が・・・」
声が掠れて思うように話せないし、切れない痰が不快で眉を顰める真澄の様子にマヤが勘違いをする。
「・・・ごめんなさい・・・私なんかがここにいては、速水さんにはご迷惑ですよね・・・」
水城から呼ばれて、訳もわからずにこの病室に連れてこられたマヤが謝ることでもないが、最近真澄の前では何かと気後れしているマヤは反射的にそういう態度に出てしまう。
だが、真澄はすぐに首を横に振った。
マヤがほんの少し笑みを浮かべた。
なんとかマヤに迷惑なんかじゃないと伝えられたようで、安堵する。
「そうじゃ・・・ない・・・」
上手く言葉が発せられない真澄の様子に、代わりにマヤが言葉をつなぐ。
「私・・・迷惑ではありませんか?」
真澄は何度も首肯して応える。
気不味くなりかけた空気が少し和らいだ。
そしてこのやり取りのおかげで、マヤが本当に目の前にいることを信じることができた。
まさかマヤがここにいるとは思わなかった。
その驚きが落ち着いてくると、真澄の心にじわりじわりと嬉しさが込み上げてきた。
マヤにこうして会うのは本当に久しぶりだった。
しかも今は二人きりだ。
その余韻にもっと浸っていたいと思うのに、無情にもそこに邪魔が入った。
軽いノックの音と共に病室の扉がスライドする。
「おっ、目が覚めたか、速水。どれどれ・・・」
明朗闊達な口調と態度の新藤が真澄の様子を見にきた。
点滴は看護師に任せているからか、軽い目視程度で確認して、ベッドの下部に吊るされたハルンの状態を見て異常が無いことを確認すると、白いカバーを掛けられた布団を捲った。
前開き仕様の病院の寝巻きの紐を解き、腹帯を手早く剥がしていく。
傷口に当てられたガーゼを剥がして中の様子を確認する。
「傷の状態も良いな、綺麗だ。
まあ、婿入り前の大事な身体だからな、特別丹念に処置しておいた。」
ニヤニヤ笑って冗談を交えてくる新藤に、真澄は顔を顰める。
「誰が婿入りするんです・・・」
「そう突っかかるなよ、後輩。
今回は盲腸が手遅れで破裂して、膿が腹ん中に散っちまったからな、普通の虫垂炎より傷口は大きい。
オペで腹腔内の洗浄はしたが、膿がまだ残ってる可能性もあるので、更に腹に小さな穴を開けてドレーンが通してある。
そこから残った膿が出てくるんだ。
ガーゼは毎日看護師が替えてくれるからな。
膿が出なくなったら抜いてやる。
それと、もう動いても大丈夫だから、下のカテーテルも抜くぞ。
これからは自分でお手洗いには行ってくれ。
一番最初は危ないから看護師に付き添ってもらえ、いいな。」
しれっと重要な事を言う新藤に真澄が焦った。
「い、今ですか?」
今ここでカテーテルを抜かれようものなら、マヤに情け無い姿を晒す事になってしまう。
病気以前に羞恥と情けなさで軽く死ねそうだ。
「んな、デリカシーのないことを俺がするかよ。」
「いや、デリカシーある大人だったら、今ここでこんな会話になってないでしょう。」
二人のやり取りをしばらく見守っていたマヤだが、やがて恐る恐る新藤に声をかける。
「あ、あの、、、」
「はい、なんでしょう?」
新藤が優しく笑ってマヤに応える。
真澄はその変わり身の速さに面食らった。
普段の新藤は優しい先生で通っているのかもしれない。
「速水さん、もう大丈夫なんですよね?
死んじゃったりしませんよね?
水城さんから、危篤だって言われて私、、、、」
新藤は水城の心情を慮る・・・おそらく真澄のそばで、一番焦ったい思いをさせられてきたのは間違いなく水城だろう。
彼女もまた、今回の事を千載一遇のチャンスと思っているに違いない。
そうであるなら、新藤も乗り掛かった船と、ちょっとお節介を焼いてやろうじゃないかと調子に乗る。
「大丈夫ですよ、こいつはね、そんな簡単にくたばるような柔な男じゃないんで。
まあでも、今だから言いますが、あと半日搬送されてくるのが遅かったらヤバかったのは事実です。
我慢強い人にありがちなんですが、腹膜炎は本当に危険なんです。
なのでこういう奴のそばにはちゃんと見守って、ブレーキをかけてくれる人が必要ですね。
何よりこいつの精神安定剤になる"伴侶"がね。
自分で言うのも何だが、俺はこう見えて名医でね。
その辺りの処方も完璧にやるんですよ。」
新藤がマヤに悪戯小僧のようにニッと笑いかけて、マヤにウィンクしてみせた。
「はぁ・・・」
新藤の言葉の最後の意味を今ひとつ理解できていないマヤだった。
そんな新藤に少しムッとした真澄が嫌味を言う。
「名医ではなく迷医の間違いじゃないんですか、、、」
「うるさいね、お前は。
その憎まれ口もついでに縫ってやれば良かったなあ、、、」
どうやらマヤはまだ自分が何故ここに呼ばれたのか、理解していないようだ。
それを悟った新藤がその性格に物言わせて一気にたたみ込んできた。
「北島さん、貴女に来ていただいたのは、私が秘書の水城さんにお願いしたからです。
人間の肉体というのは、メンタルと深く結びついていましてね。
この速水真澄という患者さんには、貴女が何よりの特効薬なんです。
まあ、その理由については俺が説明してもいいんですが、流石にそれではこいつの立つ瀬がないと思うので、直接聞いてやって下さい。
では、また後からカテーテルの処置に看護師と共にきますね。」
新藤は言いたい事を言いたいだけ言って、真澄にじゃあなと悪戯な笑みを見せて病室を去っていった。
これには流石の真澄も焦った。
新藤の言いたい放題、やり逃げ的な状況を一体どう収めればいいのか。
「マヤ・・・あの・・・」
何と切り出せばいいのか分からないまま、傷の痛みも忘れてしまいそうなくらい、真澄は焦っていた。
だが、そんな真澄とは正反対に、新藤が去って緊張がなくなったのか、新藤に感化されたのか、マヤは案外飄々としていた。
「どうして私が速水さんの特効薬なんですかね、、、新藤先生、何か勘違いをしてるのかしら。」
天然・・・と言ってしまえばそれまでだが、マヤの発言にこれはこれで真澄としては辛いものがあった。
察しのいい人間なら、新藤の前フリだけで気づいてくれそうなものだが、それをマヤに要求するのは無理ということなのだろう。
全部自分の口から説明しなければならないようだ。
そんな逡巡を繰り返している内に、マヤが先に真澄に声をかけた。
「速水さん、もっと自分の身体気遣わないとダメですよ。
お仕事も大切なのはわかりますけど、命あっての物種って言うじゃないですか。」
マヤからこんな尤もな説教をされるとは思わなかった。
「心配してくれたのか?」
「当たり前じゃないですか。」
「俺は君に恨まれてるし、嫌われてるからな・・・死んだら清々するとか言われるかと思った。」
これまでの少し戯けた空気が消え去り、マヤの顔から一瞬にして笑みが消えた。
「・・・それ本気で言ってるなら、怒りますよ。」
マヤの声が一段低くなった。
苦し紛れの卑屈な冗談が過ぎたらしいことを真澄も悟った。
「すまない・・・冗談だよ・・・でも、君が心配して来てくれるとは思わなかったんだ。
だからさっき、君の姿を見て驚いたし・・・でも、・・・嬉しかったよ。」
反省の意味も込めて、少しだけ素直な気持ちを口にしてみた。
その直後である。
急にマヤの瞳から大粒の涙がポタポタと零れ落ちた。
「マ、マヤ・・・?」
焦る真澄・・・また自分は間違えてしまったのだろうかと。
「速水さんの・・・バカ・・・こんなに心配させて・・・私がどんな思いでここまで来たと思ってるんですかっ・・・水城さんから連絡もらった時、私、心臓が止まるかと思った・・・速水さんが死んじゃったらどうしようって・・・不安で、怖くて・・・」
マヤがこんなにも泣くほどに自分の事を心配してくれていたなんて・・・。
目の前の光景を信じていいのだろうか?
自惚れてもいいのだろうか?
「もし俺がいなくなっても、君のことは大都がちゃんと守る・・・北島マヤも紅天女も・・・」
それでもまだ真澄の中の臆病な気持ちはなくならない。
「・・・そんな事・・・どうでもいい・・・速水さんがいなくなったら・・・私もう二度と・・・阿古夜なんて演りませんから・・・」
マヤの言葉に真澄の胸が高鳴り始める。
「・・・まるで俺のために阿古夜をやっているように聞こえるぞ・・・」
「・・・そうですよ・・・速水さん・・・本当に気づいてないんですね・・・紫の薔薇の正体に私が気づいていた事・・・貴方に紫の薔薇をもらう事が何より嬉しかった・・・誰よりも応援してるってメッセージをもらうことが・・・その為に頑張っていたのよ。」
驚愕のあまり、思わず真澄が起きあがろうとした。
「ぃっ!」
「何してるんです、ダメですよ動いちゃ。」
マヤが慌てて、真澄の両肩を手で抑えようと覆いかぶさった。
二人の顔がこれまでにない程近い。
互いの瞳の奥まで見つめ合った。
マヤが慕っていたのは紫の薔薇?それとも自分?
もうどちらでもいい・・・マヤの心を手に入れられるなら。
胸の鼓動が激しくなるのをどうにか押さえつけながら、真澄は誘われるように右手でマヤの左頬に触れた。
「・・・君はそれで良かったのか・・・紫の薔薇の正体が俺で・・・がっかりしたりはなかった?」
「・・・がっかりなんて・・・しなかった・・・物凄くびっくりはしたけど・・・逆に嬉しかったよ・・・」
「・・・許して・・・くれるのか?
こんな俺を・・・君は・・・許して・・・愛してくれるのか?」
真澄の手が微かに震えていた。
もう引き返せない・・・どんなに恐ろしくても、マヤの答えを聞かなければならない。
だがその前に、マヤが言葉を発する前に真澄がこれまで何度も押さえつけて飲み込んできた思いが溢れて出てきてしまった。
「・・・愛して欲しい・・・君に・・・愛されたい・・・」
手術前のあの時よりも更に切羽詰まった心情が真澄を突き動かしていた。
今言わなければもう二度と言えない。
「ずっと・・・君が好きだった・・・君を愛してる・・・」
言葉にしたら堪らなくなった。
真澄の瞳から涙が溢れ出す。
視界が滲んで、マヤの顔がよく見えなくなってしまった。
だが真澄は直ぐに気づいた。
マヤの頬に触れた手も温かく濡れていることに。
「・・・マヤ・・・マヤ?」
もう片方の手は点滴が刺さっているからあまり自由には動かせない。
それでもその手は、真澄の肩に伸びたマヤの腕をしっかりと掴んだ。
もう離せない・・・絶対に離すものか・・・。
真澄の強い意思が伝わってくる。
マヤは指先で真澄の涙をそっと拭った。
「・・・たとえ貴方が鬼でも悪魔だったとしても・・・好きです・・・大好き・・・」
マヤが更に身体を近づけて、真澄を抱きしめる。
重なった互いの頬は涙で濡れていた・・・。

「どうやら俺が用意した特効薬が効いたみたいだな。」
真澄の着替えを用意する為にマヤが一旦病院を出た間に新藤が処置のために病室にやってきた。
してやったりの得意顔が憎たらしくもあるが、この人には敵わないと思った。
「・・・ありがとうございました・・・先輩・・・」
「おっ、珍しく素直だね、、、恋ってのはお前のような偏屈な男さえ変えちまうんだなぁ。」
最初はちょっと茶化した感じで話してた新藤が、真顔で真澄を見遣った。
「・・・もっと楽に生きていいんだ、速水。
お前は昔からいつも我慢ばかりしている。
自分で自分を責め続けて生きていたが、もう大丈夫だな?
あの子ならありのままのお前をちゃんと受け止めてくれるよ。」
「・・・そうですね。
マヤのような人は他に世界のどこを探してもいないでしょう。」
「ああ、そうだな。
だから絶対に離すなよ、、、何があっても。」
「分かってますよ・・・、それよりマヤに惚れないで下さいよ。
まあ、仮にそうなっても貴方に勝ち目はないですけど。」
妙に勝ち誇った笑みを浮かべる後輩の様子を見て、新藤が豪快に笑う。
「心配するな、俺はもっとglamorousな女が好みだ。お前のようなロリータ趣味はねえ。」
「ロ、って、失礼な人ですね、相変わらず。
あの子のことよくも知らないで、、、」
まるで学生時代に戻ったような売り言葉に買い言葉のくだらないやり取りが続いた。
「じゃあ、お前の大事なお姫様が戻ってくる前にカテ抜いてやるよ。
これがあっちゃ、お前も困るだろうしな。
とはいえ、ここは病院だからな、自重しろよ、傷口開いちまうと厄介だからな。」
そう言って新藤はニヤニヤしながら真澄の寝具と衣類をはだけた。
しかし手技には一点の迷いも狂いもない。
「な、何言ってるんですかっ、頭おかしいんじゃないですか?
貴方も忙し過ぎて、頭のネジが飛んでますよ。
早く誰かに診てもらった方がいいです。
医者の無養生は怖いですしね。」
真澄が反論してるうちに、あっという間に真澄の体内からカテーテルが抜かれた。
「これで、自由に動けるから、少しずつ動き始めてくれ、動いた方が腸の働きが良くなるからな。
分かってると思うが、ガスが出ないことには、飯も食えないから。」
最後は医師らしい事を言って、新藤は病室を出て行った。

その後真澄は順調な回復を見せて、ほぼ予定通りの日数で退院の日を迎えた。
その日は朝から水城と共にマヤも真澄の病室を訪ねた。
水城は病室内の事はマヤに任せて、退院手続きのためひと足先に一階に降りて行った。
「速水さん、これに着替えて。」
マヤが持ってきたのは、生成りの柔らかなコットン製のニットのインナーとオフホワイトのボトムスに優しいブルーグレイのジャケットだった。
足元はダークブラウンのローファーだ。
真澄にはどれも初めて目にするものだった。
「これ、君が?」
「そう、私からの退院のお祝い♡」
真澄は面はゆいながらも、差し出された衣服に着替え始めた。
マヤはそれを満足そうに眺めている。
ニットに着替えるときに、真澄の胴部分が露わになった。
入っていたドレーンも抜かれて、抜糸も済んでいるが、その傷痕は痛々しい。
マヤがそっと手を伸ばして、傷痕近くに触れる。
「・・・まだ痛い?」
「もう大丈夫だよ、、、」
真澄はそう言うが、きっとまだ痛むに違いない。
「もうこれからは無茶しないでね。」
「ああ、分かってる。」
心配そうに自分を見上げるマヤの肩を、真澄が軽く抱き寄せ、ぽんぽんと手のひらであやす。
そして手続きを終えた水城と合流し、病院の正面の車寄に停められた社用車に向かう途中、新藤が見送りのためにわざわざ出てきてくれた。
「新藤先生!この度は本当にありがとうございました。」
マヤが深々と頭を下げる。
「北島さん、速水を頼みますね。
拗らせ系の面倒臭い男ですが、本当はいい奴だから。」
「ハイっ、任せてください。」
「ははっ、頼もしいな。
速水、大人しく彼女の尻に敷かれておけよ、じゃあ元気でな。」
二人にとって今回の事は、まさに春の嵐のような出来事だったが、その嵐の目となった多忙な救命医は近づいてきた救急車のサイレンを聴いて、直ぐに駆け出して行った。
「ほんと、慌ただしい人だな、、、」
真澄がやれやれと言った表情で新藤の背中を見送った。
「でも、本当にいい先生でしたね。」
マヤがしみじみと言った。
「さあ、お二人とも、参りましょう。」
水城の号令で車に乗り込んだ二人は、そのまま真澄のマンションに向かった。

久しぶりに戻った部屋だが、部屋の空気はそれを感じさせないほど澄んでいた。
予めマヤが真澄の帰宅の為に準備を整えておいたからだ。
退院はしたが、今週いっぱいは自宅療養ときつく水城から言われていた。
「マヤちゃん、真澄様がおイタしないように、ちゃんと監視をお願いね。」
水城は二人をマンションに送り届けると、さっさと社に戻ってしまった。
リビングに二人きりになった真澄とマヤだが、改めてこうなると、なんだがとても気恥ずかしい。
真澄は何かきっかけはないかと部屋を見渡す。
そしてふと、リビングのテーブルに飾られたフラワーアレンジメントに目を止めた。
それに気づいたマヤが、ちょっと照れくさそうに話す。
「今は病室に生花を持っていかない方がいいと聞いたから。
昨日、ここに来る前にお花屋さんで作ってもらったの。」



春の花であるミモザの黄色い小花が優しく咲いている。

南フランスやイタリアでは春を告げる花として親しまれているその花の花言葉は「秘密の恋」。

ずっと長い時間、それぞれの胸に秘めてきた恋がようやく花を咲かせた。

冷たくて暗い真澄の冬は終わったのだ。

恋のキューピットと呼ぶにはあまりにゴツくて口が悪いが、それでも先輩・友人としてあまりある情をかけてくれた新藤やいかなる時でも真澄の味方になってくれる水城のおかげだ。

そして何より、こんな自分をずっと思い続けてくれたマヤに真澄は心から感謝したいと思った。

「マヤ・・・本当にありがとう。」

「速水さん・・・」

真澄は両手でマヤを抱き寄せ、そっとマヤの唇にキスをした。

「春に逃げられずに済んだ・・・君のこと、もう離さないから・・・死ぬまで、いや、死んでも一緒にいてくれ。」

「私、絶対、速水さんから離れません。

速水さんこそ覚悟してくださいね。」

「望む所だ・・・」

片眉を上げてちょっと意地悪な笑みを浮かべて、再びマヤの唇を奪う。

それは優しいだけじゃない、熱くて狂おしい大人の接吻だった。


〜Fin〜