早いもので、立春も過ぎた如月の頃。
大都芸能の社長の室で何やら難しい顔をして考え込んでいるのは、この部屋の主である速水真澄だった。
「真澄様、眉間!」
清楚ながら女性らしく彩られた爪を持つ美しい人差し指が真澄の目前に突きつけられた。
秘書の水城に厳しく指摘されてようやく我に返る。
ここ数年の彼はこの季節がやってくるとやたらと不機嫌になっていた。
だが、今年はそんな必要はないはずだ。
にもかかわらず、またこの男は無駄に感情を拗らせているのだろうと、水城は半ば呆れて、軽い溜息をついた。
「そんなに心配なさらなくても大丈夫ですわ。
"今年は"ちゃんと届きますから。」
「お、俺は何も心配なぞしておらん。」
心中を見透かされて恥ずかしいのか、真澄はぶっきらぼうに応えた。
だが、何日経っても肝心の想い人からの連絡が一向に来ない。
もう明日はバレンタインデー当日だというのに。
彼女のスケジュールは確認済みだ。
仕事的には問題はない。
何かサプライズでも仕掛けてくるのだろうか?
はたまた連絡を忘れているのか、、、そそっかしい彼女だからさもありなん。
しかし、真澄の脳裏を占めるのは最悪の推測、、、完全にこのイベント自体が忘れられているのではないかと。
「いや、普通ないだろう。
去年までだって、義理とはいえ貰ってたんだ。
晴れて付き合い始めたんだから、今年は何某ら特別な事があって当然だよな。」
仕事も適当に、ブツブツ一人で呟いている真澄。
少し離れた秘書用のデスクからそれを水城が見ていた。
〜もう真澄様ったら、心の声がダダ漏れじゃないのっ!〜
バレンタインごときで、あの様子。
本当にあそこにいるのは速水真澄その人だろうか。
水城は世も末と言いたげな呆れた視線を向けた。
そして、とうとうバレンタインの当日。
結局、マヤからの連絡はなかったようだ。
朝から大都芸能社長室を爆弾低気圧が襲った。
この日の会議はいつも以上の緊張感が走った。
真澄の資料を見つめる視線が異様なまでに厳しいので、プレゼンをする社員はいつも以上に冷や汗をかきながら説明をしている。
全くもって気の毒なことである。
流石に理不尽な裁定をする事はなかったが、事情を知らないとはいえ社員にとっては迷惑も甚だしい。
「真澄様、今日の予定はこれで終了でございます。
会議も予定通りに終わりましたので、今日の夜はごゆるりと。」
水城は八つ当たりを受けた社員の仇を討つべく、嫌味たらしく真澄を送り出した。
真澄は真っ直ぐ自宅に帰るのも嫌で、とりあえず憂さ晴らしに銀座に向かった。
今夜はもうマヤから連絡は来ないだろう。
やけ酒のひとつも呑まなければやってられない気分だった。
ちょうど先日の接待で、世話になった店に礼かたがた行く事にした。
この前は緊急で同席できなくなった真澄は、店のママに得意先のもてなしを頼んで席を立ったのだ。
幸い取引先のお偉い方はそれはご機嫌で、その後と取引も想像以上に上手くいったのだった。
今夜はバレンタインデーだから店も混むはずだ。
だがまだ夕方過ぎで、ホステス達は挙って太客と同伴してくるだろうから、この早い時間なら然程に店も混んではいないだろう。
重厚なマホガニーの扉を開けると、数名の黒服の男達が恭しく客を迎える。
そしてフロアの中央でこの店の主人である磨智子ママがにこやかに真澄を出迎えた。
「いらっしゃい、速水さん。
お珍しいですわね。こんな日に貴方がいらっしゃるなんて。」
「いや、この前、ママにはお世話になったからね。
これ、大したものではないけど。」
真澄は持参した京都の老舗和菓子屋の生菓子が入った手提げ袋を手渡す。
「あら、おおきに。」
実は磨智子ママは京都生まれで、祇園の置屋の娘だ。
実家の商売は姉が継いでいるらしい。
「最近、うちの会社の近くに直営店ができたんだ。
夕方だったけど、売り切れてなくて良かったよ。
ママ、最近帰ってないだろう?」
「ええ、この年末年始も何だかんだと忙しくて帰れなかったから、嬉しいわ。」
懐かしい故郷の味を運んでくれた真澄を磨智子はフロア最奥のVIP用ボックスに案内する。
真澄がこの店にプライベートでくる事は滅多にないが、来た時にはこうして磨智子が相手をしてくれる。
真澄は接待以外では他のホステスを必要としなかった。
磨智子が空かない時など、男性のマネージャーを相手に独りで飲んでいるような、店にとっては手のかからない有難い客だった。
それもあってか、本人は頓着してないが、ホステスからの人気は高い。
皆、真澄の席に付きたがるのだ。
ただ金と地位があるだけの客ならば、この店の客は殆どがそういう客だ。
にもかかわらず皆が真澄に興味を持つのは、その孤高な佇まいなのかもしれない。
磨智子は手慣れた手つきで、いつも通り、真澄にウイスキーのロックを作って差し出す。
真澄はグラスを受け取ると一気に飲み干した。
「あらあら、穏やかじゃないわね。」
いつも通りでないのは真澄だった。
そしてその理由もなんとなく察する事はできる。
磨智子は笑って二杯目を用意する。
「こんな日にこんなところで独りでお酒飲んで、ひょっとして貴方、マヤさんにふられちゃった?」
悪戯な笑みで覗き込んでくる磨智子を真澄は胡乱な目で睨みつけた。
「誰がふられるって?
そんな事あるはずないだろう・・・。
どんな思いで俺たちがここまで来たと思っている。」
笑えない冗談など面白くもないと真澄は吐き捨てた。
どうやら予感は当たった。
今日のバレンタイン、マヤとデートができずに落ち込んでいるようだ。
〜あらあら、こんな速水さん他の女の子達には見せられないわね。〜
磨智子は何処か水城に似ている。
敵か味方かと言ったら絶対的に味方なのだが、マヤの事になると時折こうして真澄の心の柔らかいところをチクチクと突いてくるような物言いをする。
どうやら水城も磨智子もマヤに肩入れしているようだ。
「だったら今日はもうお帰りなさいな。
今日はご来店のお客様には皆さんにチョコレートお渡ししているのだけど、貴方にはあげない。」
磨智子がクスッと笑う。
「マヤさんがやきもち焼いちゃ困るでしょ。」
「・・・焼いてくれるのかな、、、あの子。」
ボソっと呟いた真澄の横顔に磨智子は驚く。
この男のこんな顔を見た事など一度もない。
不安そうな、寂しそうな、、、一瞬ではあったが、子供のようにさえ見えてしまった。
「俺ばかりが好きで、、、でもあの子はそれ程には俺のこと、、、。
今日だってなんの連絡もないし、、、」
「あら嫌だ。貴方たった二杯で酔っちゃったの?
何弱気な事言ってるのよ、、、いつも傲慢なまでに自信満々のくせして。
そんなに好きなら、素直に甘えればいいじゃない。今日だって、カッコつけて痩せ我慢しないで、バレンタイン楽しみにしてるからって、言葉にすればいいのに。
ほんと、面倒臭いわねぇ。」
面倒臭いは酷いだろうと恨めしげに磨智子を見遣った。
京女は一見淑やかだが芯は強い。
花街育ちの女であれば尚更だ。
「女(マヤさん)の本気、舐めてもらっちゃ困るわよ。」
ずっと茶化されていた感じだったが、この一言だけは、妙にリアルな重みを感じた。
昔もよくこんな風に励ましてもらった真澄だった。
まだマヤに告白出来ず、ぐるぐると迷路に嵌っていた頃だ。
磨智子は実際に手を出すわけではないが、こうした叱咤激励の言葉を並べて、真澄の背中をドンと叩いて前に押し出してくれる。
「さあ、マヤさんのところにお帰りなさい。
今日はバレンタインで、うちもそれなりには騒がしくなるから。
今度はマヤさんと一緒にいらして。
私も彼女とゆっくりお話ししたいわ。」
店には小一時間いただけで、とっとと追い出されてしまった真澄は仕方なしにタクシーにのって自宅に戻る事にした。
南青山にあるプライベートのマンション。
マヤと付き合い始めるのと同時に買った物件だった。
マヤと二人きりで過ごせる場所が欲しかったからだ。
今夜も二人でこの部屋に帰ってこれると思っていたのに。
思い足取りでノーブルなエントランスをくぐり抜け、ペントハウス専用エレベーターで一気に最上階まで上がった。
大都グループの不動産部門が提供する高級分譲マンションの最上階を真澄は独りで占有していた。
都心の大型タワーマンションとは異なり、大地震の影響も考え階数も然程に高くない。
それは都心の一等地では逆に贅沢と言える事だった。
それもこれも全部マヤとの生活の為。
ここには真澄の夢がいっぱい詰まっているはずだったのに。
がっくりと肩の力が抜けたまま、玄関のドアを開いて真っ暗なリビングに入る。
だがその暗闇の中に普段にはない光景が浮かんでいた。
リビングテーブルの上に小さなランプの灯りの元にひっそりと置かれた贈り物。
ヘレンド製の陶器のボンボニエールの中には柔らかな和紙に抱かれたトリュフが五個。
更にその横にはネクタイと思われる細長い箱がシックなラッピングで置かれていた。
そしてその上に置かれていたメッセージカード。
大好きな真澄さんへ♡
私が初めて好きな人のために作ったチョコレートです。
甘いものが好きじゃないって言っていたけど、ひと口でもいいから食べてもらえたら幸せです。
手渡ししたかったけど、恥ずかしくて死にそうだから置いていきます。
留守にお邪魔してごめんなさい。
速水真澄さんを心から愛してます。
北島マヤ
真澄は改めてボンボニエールを手で持ち上げた。
そしてチョコを一粒口に含んだ。
カカオの苦味とブランデーの香りが口いっぱいに広がる。
殆ど甘味を感じないそれは、街で売られているものとは明らかに違う。
マヤが真澄のためだけに作ったものである事は明らかだった。
甘くない大人の苦味のチョコレート。
なのに、、、
「・・・甘いよ・・・ものすごく・・・でも美味い・・・君は何を入れた?」
真澄は独りで呟いた。
誰もいない安心感からか素直な言葉がこぼれ落ちる。
「君の思いが・・・たまらなく・・・甘い・・・」
そして思わず込み上げる涙。
ちゃんと愛されてる、自分は彼女にちゃんと愛されてる。
「俺はこんなにも簡単な男だったのか・・・でも嫌じゃない・・・君がこんな俺でも愛してくれるなら・・・。」
そしてもう一つのマヤからの贈り物を開ける。
落ち着いたシルバーグレーと紫苑色のストライプ。
差し色に細く赤紫色も入っていた。
「何でも買えて、何でも持っている速水さんにプレゼントを探すのは難しいの。」
と、いつかマヤがこぼしていたのを思い出す。
きっとこのネクタイも迷って悩んで、選んでくれたものに違いない。
その間、マヤの頭の中は自分の事で締められていて、マヤの想像の中の自分はどうだったのだろうと、真澄は思いを巡らせた。
それだけで言いようのない幸せに包まれることを知った。
「君に逢いたい・・・」
気がつけば真澄はマンションを飛び出していた。
飲んでいるから自分の車は出せない。
大通に出てタクシーを拾う。
マヤのマンションまでほんの10分程度だ。
ふと息をついて己の右手を見て微笑う。
プレゼントのネクタイを握りしめていたからだ。
真澄は締めていたネクタイを外し、マヤから貰ったネクタイに替えた。
幸い今日の濃紺のスーツと白いワイシャツに良く映えた。
元のネクタイは自分で買ったものだったから、タクシーを降りるときに、運賃と共に運転手に貰ってもらった。
「いいんですか、これアルマーニって書いてあります、高価なブランドで、運賃より高いですよ?」
驚いて恐縮する運転手に真澄は笑って言った。
「まだ殆ど使ってないやつだから、使ってくれたまえ。
幸せのお裾分けだ、今日はバレンタインだからね。
あ、釣りも要らんよ✨」
と、無駄にキラキラオーラを発して、真澄は軽やかにタクシーを降りて駆け出した。
マヤのマンションのエントランスでインターフォンを鳴らす。
だが、応えはなかった。
留守なのだろうか、、、心の昂りが冷水をかけられたようにシュン・・・となる。
「速水さん?」
そんな真澄の背中に声がかかった。
真澄は振り向きざまに声の主に駆け寄って抱きしめた。
「マヤ・・・」
マヤは大人しく真澄に抱きしめられていたが、しばらくして真澄の名をもう一度呼んだ。
「バレンタインのプレゼント、ありがとう。」
真澄は体を離し、まずはマヤに礼を言った。
「ごめんなさい、直接渡さなくて、、、私恥ずかしくて。」
「とんだサプライズだったけど、嬉しかったよ。」
真澄は優しく微笑んだ。
マヤに促されて、とりあえず二人で部屋に入った。
すると真澄は、マヤを再び抱きしめた。
「マヤにとって初めてのバレンタインなら、俺にとっても初めてのバレンタインだった。
嬉しかったよ、、、でもプレゼントだけが嬉しかったんじゃない。
マヤの気持ちが形になって俺の前に現れたことが何より嬉しかったし、安心した。
マヤに愛されてるって思えたから。」
真澄の言葉にマヤは驚いた。
いつでも自信に満ち溢れた男が漏らした本音に、マヤの心は締め付けられた。
「大好きっ、、、速水さん。
ずっとずっと私の恋人でいてください。」
「ああ、俺はマヤだけのものだよ。
だから君もずっと俺だけのものでいてくれ。」
真澄がマヤにそっとキスをした。
唇を離したとき、マヤが真澄のネクタイに気づいた。
「・・・似合ってる。」
マヤが嬉しそうに笑う。
「マヤ・・・男が好きな女にドレスを贈るのは、それを脱がすためだって知ってる?」
急に真澄が魅惑的な笑みを浮かべてマヤを見つめた。
「なんか聞いた事あるわ・・・。
あっ、、、私、別に、そんな意味で、、、」
急にマヤが真っ赤になってあたふたし始めた。
もちろんマヤにそんな下心などありはしないことは百も承知の真澄だった。
「可愛いね、、、そんな君も愛おしいけど、、、」
真澄の手がマヤの手を自分の首元に誘う。
「今夜は・・・君の手で俺を好きにして欲しい・・・」
魅惑的に悪戯っぽく笑った男の目に一瞬、切ない思いが滲んだ。
日頃の独占欲の裏返し、、、男だって好きな女から心を縛られて安心したい時がある。
そんな男の純情を理解したマヤは、その小さな身体で真澄を抱きしめた。
恋人になって初めてのバレンタイン。
不器用で純情な二人の相変わらずのすれ違いも今では甘酸っぱい恋のスパイス。
二人は何度も互いの思いを確かめながら、真冬の夜中に熱く甘く溶けていった。