南海平野線の街を行くの巻 その② | となりのレトロ調査団

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となりのレトロ調査団~南海平野線の街を行くの巻 その②

 

今回も杉さんの案内で、平野へ行って参しました。集合は、天王寺です。平野へ行く方法は、いくつかありまして、天王寺から関西本線に乗って二つ目の駅が平野駅。ただし、平野区は北部では生野区、東大阪市と隣接し、南部は大和川を越えた所(大和川が大阪市と堺市の境界線と思っていたら、東住吉区と平野区に限っては、川の対岸は堺市ではないのです)までと南北に長いので、関西本線の平野駅を利用するのは、平野区の北部に住む人に限られてしまいます。2019年に新大阪駅~放出駅~久宝寺駅の営業が開始されたJRおおさか東線で平野に行くとなると、おおさか東線はJR片町線(学園都市線)の放出駅、近鉄奈良線の河内永和駅、近鉄大阪線の俊徳道駅と連絡していて、それらの駅でおおさか東線に乗り換えると、新加美駅を使うことができます。でも、何と言っても便利なのは、大阪メトロ谷町線で、天王寺駅から阿倍野駅~文の里駅~田辺駅~駒川中野駅の次、5つ目が平野駅です。この谷町線は、阪神高速14号線松原線にほぼ沿った形で、駒川中野駅から真横に平野区内に入り、平野駅を過ぎると、進路を90度南にして、平野区の西部を南北に縦断。喜連瓜破駅で再び真東に進み、中央環状線と交差すると、再度90度方向を変え、中央環状線に沿った形で南下。途中、再び進路を東に向け、終点の八尾南駅となります。つまり、平野区を西から東へ、4度、90度の方向転換を繰り返し、クランク状に敷かれた路線は、平野区内の西部から南部のエリアを網羅していることが判ります。

 

谷町線平野駅に到着して、最初に連れて行ってもらったのが、今は背戸口公園となっている場所です。地面には線路跡を模ったタイルのデザインが施されていて、平野線の路線図のレリーフが設置されていました。杉さんによると、ここは西平野停留所があった場所だそうです。内環状線を越え、再びプロムナード平野と呼ばれる遊歩道が続きます。遊歩道には、信号機型の街灯、八角形の屋根を持つベンチ、昔の踏切に使われていたのであろう、古めかしい木製の柵など、当時の様子を今に伝える痕跡が街中のあちらこちらにきちんと遺されておりました。そして、遊歩道が終る辺りには、当時のレールを使って作られた藤棚がありました。そこに平野停留所があったそうなのです。停留所に接する通りは、今も商店街として何軒もの商店が建ち並んでいました。商店街の看板には、『平野南海商店街(平野モール)』とありました。南海平野線が無くなった今も、その名を変えることなく、商店街は存続しているのです。平野線の停留所を記すと、今池~飛田~阿倍野(斎場前)~苗代田~文ノ里~股ヶ池~田辺~駒川町~中野~西平野~平野。大阪メトロ谷町線の駅と見比べてみると良く判るのですが、地下鉄の経路は平野線とほぼ同じ場所を通っているのです。
 

 

河内の国の玄関口として、交通の要所を担ってきた平野郷。のどかなこの農村地帯に大正3年4月26日、南海平野線が開業して以来、平野は“通勤、通学が便利な住みやすい町”として変貌を遂げて行きます。昭和20年3月13日から8月14日までの米軍による8回にもわたる大阪大空襲の際は、軍需工場が建ち並ぶ湾岸エリアや市街地のように大量の爆弾がばら撒かれることはなかったので、平野は空襲による損害を最小限度に抑えることが出来ました。戦後、昭和25年に5万9千人だった人口は、平成12年には20万人を越えました。2021年のデータでも19万人と、常に大阪市内24区中トップの座にいます。平野線が廃止されたのが、1985年(昭和60年)の11月28日。谷町線の天王寺~八尾南の営業開始が同年11月27日。大阪メトロ谷町線が八尾南までの延伸開業を果たしたその翌日に、平野線は66年の歴史に幕を降ろします。新たに営業を開始した谷町線。先ほど触れましたが、平野区内ではジグザグ状に西から東へ敷設されていて、この経路を見てみると、平野区民に配慮した路線計画であったことが判ります。

 

 

今回、南海平野線の跡地を見に来て得た正直な感想としては、ボクの心の中に感傷的な想いは湧いて来ませんでした。そういう意味では、心は躍りませんでした。あちこちの場所へ出向いて、歴史の痕跡探しをしていると、大抵はその切なさゆえに、胸がキュ~っとなって、「ああ、この風景、心に沁みるわ~」と感傷的な気分になるのですが、今回訪ねた平野線跡や平野に残る平野郷時代の町並みを見ていても、そういう感情が全く湧いて来なかったのです。「ん・・・なんでだろ」と、あれこれ考えて判ったのは、今も町中に数多く残る歴史の痕跡は、“役目を終えたにもかかわらず、今も尚、昔の姿のまま、道端に放置されている”と言うような代物ではなくて、後世の人達に平野線や平野郷のことを伝える役割を担うために、ちゃんと整備、保存されている歴史の証人達でした。廃線が決定した後、確かにチンチン電車は、パッと世の中から姿を消してはしまいましたが、その代役を担うべく登場した大阪メトロ谷町線はきっちりと仕事をこなし、そのレスポンスを十分に証明して見せちゃったものだから、平野の住民達にとっては、平野線が廃線になってしまったこと自体は、案外悲しくは無かったのかも知れないのです。「長年実直に勤務してきて、部下からも信頼の厚い部長でしたが、この度定年年齢を向かえるのを機に退職を決意しました。部下たちにしてみたら、共に仕事をしてきた部長とのお別れはちょっぴり悲しいけれど、後任の部長がなかなかのやり手で、社内の評判も上々ときたら、社内は新任部長と新たに切り拓く、次世代への期待感に満ち溢れ、お別れの寂しさにしんみり浸っている暇など無いよー」。よそ者がしたり顔で言えることでもないのですが、恐らくそんな感じかなと思います。さらに、その後もしっかりとした足取りで町の発展をブーストしているのだから、ますます平野は住みやすい町になって行く訳で、そういう意味もあって、今回の「となりのレトロ調査団~南海平野線を行くの巻」に悲哀と言う言葉は似合わないのであります。平野の町は、まったくもって哀愁の町ではありませんので、悲しみの霧など1㎜も降らないのであります。

 

 

杉さんとの平野散策を終え、「本日のとなりのレトロ調査団、無事に終了。お疲れさまでした~」と、南海商店街に入る角にあるマルヨ精肉店の揚げたてコロッケを頬張りながら、互いの労をねぎらっている時、ふとあることが頭を過りました。「平野線のこっち側を観に来たのなら、恵美須町、天王寺方面も観ておかないと、あっち側の血の気の多い住人達に後で何を言われるや判らん。表敬訪問しておかなければいかんのではないかね・・・」と新たな使命感がふつふつと湧いて来たので、杉さんにその辺りのボクの正直な気持ちを伝えたところ、杉さんも、「ほたら、まだ日も高いし、今からそっち方面、行きまひょか!」と、峠越えを決心して次の宿場へと急ぐ、江戸時代の旅人のようなことを言うので、グッと笑いを押さえ、次なるミッションのため、我々は再び谷町線に乗り、天王寺へ戻ることにしました。天王寺で今度は、大阪メトロ御堂筋線に乗り換え、動物園前駅へ。「一つ目の駅が、動物園前。そこで下車だかんね」。それだけを考えて、駅名の表示も見ずに降りた、久しぶりの動物園前駅。「え! ここ、どこの駅? 動物園前ですよね?」。杉さんもボクも、自分達が今どこにいるのか一瞬判らなくなってしまうくらい、駅の構内は隅々まで見事に改修が施されておりました。温かみのある赤みがかった照明に照らされた壁の動物イラスト。ボク達の脳裏にある“御堂筋線・動物園前駅”のイメージは、どぶネズミ色の壁に囲まれた地下の異空間で、どこから漏れて来たか判らない地下水のシミがコンクリート壁一面に広がっていて、地下ならではのひんやりとした空気。ホームに立ち降りた時に漂う、独特な動物園前駅臭。これら全てのネガティブな要因を一蹴して、動物園前駅は見事に生まれ変わっていたのです。さらにこの流れで記しておくと、ボクの記憶の中にあるJR新今宮駅のホームから見た景色と言えば、本来一等地である筈の駅前の土地が、長きにわたって空き地として放置されていて、その向こうに立ち並ぶビルの屋上には、日払いアパートの格安料金を訴求する看板群。道端のあちらこちらに人が転がるように伏していて、通り過ぎる人は誰一人として、気にも留めない。いや、気に留め、目に入ったからこそ、この街で起こる“ややこしい出来事”に関わりたくない一心で足早に立ち去ろうとする。そんなことが日常の街でしたから、決して治安の良い場所ではありませんでした。ほんの数十年前までは、大人のボクでさえも、この辺りを歩く時にはちょっと勇気が要りました。しかし、駅前にスパワールドが出来、ドンキが出来、トドメの星野リゾートがやって来てからというもの、劇的に美化が進み、治安はめちゃくちゃ良くなった気がします。国内だけでなく、外国からの観光客で溢れかえる新世界、ジャンジャン横丁、新今宮の町を眺めていると、昔を知る者としては、喜ばしいことではあるのですが、ちょっぴり寂しい気分でもあります。複雑な心境です。

 

すっかりきれいになった街の景色を眺め、色々なことを考えながら、平野線の起点である、恵美須町停留所と天王寺停留所を見に行きます。阪堺線側は、恵美須町を出て、新今宮の次、今池の停留所を過ぎたところで線路は東方面へ分岐します。分かれた先にある最初の停留所が飛田停留所。そしてさらに線路は東へ向かって行きます。一方、上町線側は、天王寺駅前を出て、一つ目の阿倍野(斎場)停留所がある阿倍野筋の交差点で、電車は直進せず、軌道は東に分かれます。ここで阪堺線から分岐した、飛田停留所からの軌道と合流する訳です。恵美須町停留所、天王寺駅前停留所は、共に今も阪堺線と上町線の起点停留所として存在しております。但し、恵美須町の停留所は、ここ数年前に恵美須町の交差点に面して建っていた、それなりに立派な駅舎が無くなり、今は少し南の位置に移動しておりました。交差点の角の跡地にはスポーツセンターらしき建物が建っておりました。新駅舎は、以前に比べ、かなりこぢんまりしていて、狭い空間に追いやられた感は否めませんが、それも仕方のないこと。この線を残していただけているだけでも良しとしなければならない、置かれている今の立場を象徴しているかのようでした。そして、もう一方の上町線は、天王寺駅前停留所が起点となっておりますが、明治~大正の頃は、さらに北に四天王寺西門~茶臼山と2つの停留所があったそうで、大正10年に四天王寺西門~天王寺駅前の区間が大阪市へ譲渡され、今のように天王寺停留所が起点となったそうなのです。この2線が、現在も立派に運行されていること自体、本当に奇跡と言っても良いくらいです。2023年12月の一日乗降客数は、上町線が約19,750人、阪堺線は約13,548人と大健闘しています。但し、停留所単位の利用者数を見ると、天王寺駅前は9,000人を超えておりますが、恵美須町371人、新今宮554人。今池に至ってはなんと50人。えーッ、50人! こういう数字を見てしまうと、もうたまらんです。ワクワクしてしまいます。小躍りしてしまいます。今池停留所、見て参りました。そのご報告は、その③で。ふふふ。

 

 

 

となりのレトロ調査団~南海平野線を行くの巻 その③へ続く。