南海平野線の街を行くの巻 その① | となりのレトロ調査団

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となりのレトロ調査団~南海平野線の街を行くの巻 その①

 

今回のテーマは、「南海平野線」であります。前回の「南海汐見橋線」に続き、今回も鉄道がテーマであります。この場を借りてはっきり申し上げておきたいのですが、ボクは、鉄道オタクでもなんでもありません。ただ何故なのか判りませんが、子供の頃から鉄道に関する話題には、自然に身体が反応してしまう習性があるようで、つい最近も、“乗り鉄”で“撮り鉄”で“呑み鉄”である友人のF井さんと話している時に、「沙魚川くん、ほんまは鉄ちゃんなんやろ?」と、“そろそろ認めたらどうや”的な圧を掛けて来たので、「いやいや。ボクは、となりのレトロに当てはまるような明治、大正、昭和初期の重工業の遺物が好きなだけで、そういう類のものって、得てして鉄道系とオーバーラップすることが多いんです。たまたまですよー。ハハハ」。なんか必死で身の潔白を証明している自分が可笑しく、さらに加えて、「子供の頃は、クリーム色と赤色のツートンカラー、いわゆる“国鉄特急色”でカラーリングされたキハ81系、82系が大好きで、特にブルドッグ型のボンネットを持ったキハ81系が牽引する「はつかり」、「くろしお」に夢中でした。月刊誌『鉄道ファン』で写真を見つけては、スクラップ帳にペタペタ貼ったりして。それに、ヨーロッパの寝台列車を意識した深い青色にクリーム色のラインを施した、『あさかぜ』の丸みを帯びた20系客車のフォルムも好きだったし、ブルートレイン大ブームの時、寝台特急『富士』、『はやぶさ』などを牽引し、東京~九州を疾走したEF66系とか、たまらなくカッコ良かったですよね~。その程度のものですよ・・・」と伝えたら、「それで、十分や」とのことで、F井さん認定の“鉄道オタク”の称号をボクに与えるので、ぜひ受け取って欲しいとのことでしたが、そんなものもらったとしても、ボクにしてみたら、昔、ココナツサブレのパッケージに印刷されていた“モンドセレクション受賞”の表示を見た時の「・・・はて?」くらいの意味しかないし(本当はものすごく権威のある賞なのでしょうけど)、知っていると言っても所詮はキハ80系とかEF66くらいのものですので、お気持ちだけ頂いて、称号の授与は丁重にお断りさせていただきました。そんなことはどうでもよくて、今回のテーマは、「南海平野線」であります。

 

南海平野線と言うのは、恵美須町・天王寺駅前から平野までを繋いていた路面電車で、すでに廃線になっておりますから、今はその姿を見ることはできません。南海汐見橋線は、路線の必要性という点から見て、社会的な期待感が薄れてしまい、“いつ無くなってもおかしくない”存在として今に至っていますが、それでも、まだまだしっかりと生き残ってくれていますので、観に行こうと思えば、乗りに行こうと思えば、今日だって、明日だって、1時間に2本の間隔でちゃんと運行されています。南海平野線は、1980年(昭和55年)に廃線になってしまいました。全盛期、通学や通勤や買い物やその他、野暮用でもなんでも、沿線に暮らす人々の様々な日常や様々な思いを乗せ、5.9㎞の区間の停留所から停留所を疾走するその姿、乗客達の息遣いなどは、もはや知る由もありません。今も昔の施設の一部が思い出の欠片として、街のあちらこちらにポツンポツンと残っているそうなので、目を凝らし、心のアンテナを広げていれば、きっと当時の雰囲気を感じ取ることができるのではないかと思うのです。個人的には、今まで生きて来たボクの人生と平野と言う場所との間に、重なるものが全くなく、土地勘もないので、新たな出会いへの期待感で心はワクワクしておりました。平野へ出かける数日前、友人とのLineで、

 

ボ ク「今度の休み、となりのレトロで大阪平野へ行くんよ😊」

友人M「それはまた、広いとこ、行くんやなー」

ボ ク「え? 広ないよ。狭い町やと思うよ。猫の額くらいやで」

友人M「そんな馬鹿でかい猫、おるわけないやん!」

ボ ク「なんか勘違いしてる? 大阪のヒラノやで」

友人M「ヒラノか! なんや、大阪ヘイヤかと思ったわ」

ボ ク「そんなまさか。ヒラノや。ヒラノ。フラノと違うで」

友人M「判っとるわ! フラノ言うんは、イタリアにある町や」

ボ ク「アホか。それは、ミラノじゃ」

 

友人と関西独特の軽妙で、かつ他所の地域の人に言わせると、「これだから、関西人は面倒臭い」と思われがちなLineをしていて感じたのは、「こんな会話になるのも無理ないよな」と思ってしまうほどに、今は至って控え目な町なのですよ。平野は。同じ大阪に住む人でも、例えば、北摂と言われる大阪北部地区に住んでいる人からしてみたら、結構知らない人も多いかも知れません。「名前は知ってんねんけど・・・ヒラノ、ヒラノ? どこやったけ? あっ! あれやろ、総武線で亀戸の次の駅やろ?」。それ、ヒライやん。それにしても、なんで平井、知ってんねん。平井を知っていて、平野の場所を知らないと言うのも、不思議な話ですが、まあ、面倒くさい民族なのです。関西人って・・・。

 

ボクが“平野”の歴史を知るきっかけになったのは、織田信長と堺の関係を調べていた時で、堺と同じように自治都市として栄えていた町が河内の国にあることを知りました。室町幕府の後半、それはもうズタボロ状態で、足利氏の権威はますます失墜。大名達が好き勝手に各地を統治し始めていた戦国時代のこと。あちらこちらで熾烈な陣取り合戦が繰り広げられている中、住民による自治を死守しようと懸命に頑張っていたのが堺と平野郷。どちらもすぐれた経済力と自治組織を持ち、戦国の世で武士に支配されない、独立を目指した商業都市でした。町の周囲には濠と土塁が巡らされておりました。今ではそういった形態の町を環濠都市と呼んでいますが、平野の場合は、その周囲に13箇所の門が設置されていて、その門毎に門番屋敷、地蔵堂が建てられていました。郷への出入りはこれらの門からのみに制限されており、この門前から外に向かって放射線上に街道がつながっていたのです。

 

 

平野郷がどういう成り立ちをしてきたのかと言うことについて触れてみたいと思います。元々、難波京と斑鳩、平安京を結んでいた渋川街道(後に竜田越え奈良街道)の通り道でした。その頃から交通の要所であったことは間違いなく、早い時代から人々の暮らしが根付いていたのでしょうが、歴史的にこの地に初めてスポットライトが当てられたのは、平安時代のこと。蝦夷征伐で名を馳せた平安時代初期の我らがスーパーヒーローと言えば(いや、それほど親近感はないか)、坂上田村麻呂ですが、その次男に廣野麿と言う人がおりました。廣野麿が朝廷から荘園として授与されたのがこの地。なぜこの地だったのか、その理由は判りませんが、廣野麿は、嵯峨天皇、淳和天皇の二帝に仕え、やがてこの地に永住することになります。828年に亡くなった後も、坂上家が代々この地を領有することになります。彼の名前の“廣野”が転じて“平野”と呼ばれるようになったと言うのが通説になっています。862年に廣野麿の子、坂上当道(まさみち)が八坂神社を勧請し、杭全神社が創建されています。1127年には大念仏寺が開基され、門前町が形成され、大きく発展したと言われています。その後も坂上家の影響は強く、坂上家の子孫がそれぞれ権力を有する七つの町が形成されるようになります。それぞれの町を差配する七つの家系を平野七名家と呼び、自治都市・平野郷の基盤となります。特に戦国時代には、七名家の筆頭を誇った末吉家が牽引して南蛮貿易が盛んに行われ、大きな富を築きました。平野も堺と同じように南蛮貿易でしこたま富を得ていたのです。そのために、時の権力者の欲する地となり、幾度となく戦乱に巻き込まれる運命を歩むことになるのですが、“尾張の大うつけ者”こと織田信長の軍勢がこの地に伸し掛かります。堺の会合衆から共闘の協力要請がありましたが、飛ぶ鳥を落とす勢いの尾張軍の前に抗う事も出来ず、敢え無く屈してしまいます。こうして、自治都市の時代に幕が下ろされることになり、平野郷は信長支配地となります。

 

大坂の役の時、末吉家率いる平野郷の衆は徳川方に協力し、この地に二代目将軍、秀忠軍の陣が張られました。そのために、豊臣側からは敵方と目され、町は焼き討ちに合いますが、徳川方への功により、後に平野郷は幕府直轄の天領となり、荒廃した平野の町は今に残る碁盤目状の町並として復興を果たします。末広氏はこの天領平野郷の代官にも任命されています。南蛮貿易はその後の鎖国政策によって終止符を打たれますが、水運・街道の整備を行ったことで、河内木綿の集散地として物流の要所となります。毎日、綿市が立てられ、商都・平野郷はますます繁栄します。その後、江戸時代中期から幕末までは、庄内藩の管理地となるのです。

 

平野郷の七名家の中に、安成氏という名前を見つけました。豊臣時代、大坂は船場を南に下った島之内の外れに、堀の開削許可を得、私財を投じてこの事業を進めた人がおります。安成道頓と言う人です。平野郷・安成家の方です。長く、安井道頓と言われておりましたが、1965年から1976年にかけて争われた、道頓堀の所有権を争う「道頓堀裁判」にて、安井氏ではなく、安成氏が正しい名であることが明らかになりました。ところが道頓さん、1615年の大坂夏の陣において戦死してしまいます。志し半ばの水路の掘削事業は、安井九兵衛(道卜)や平野次郎兵衛らに受け継がれて完成します。当時の大坂藩主松平忠明が道頓の死を悼んで、この堀を道頓堀川と命名します。徳川家と平野郷との間の密な関係が窺える逸話です。

 

 

そして、この平野の町に南海平野線が開通するのが、1914年 (大正3年)4月26日のことです。今池~平野間、距離にして5.9km。阪堺電気軌道の平野支線として開業します。翌1915年には南海鉄道と合併し、南海電気鉄道の南海平野線となります。すでに恵美須町~浜寺公園間の営業を開始していた阪堺線。(宿院~大浜海岸間の大浜支線は阪堺線に属していました)そして、天王寺~住吉間の上町線。上町線は、南海線住吉公園駅に隣接する住吉公園停留所を新たに開業し、さらに延伸しております。ほんの僅かの距離ですがね。そして、平野線。これら3線を総称して、南海大阪軌道線と呼んでおりました。因みに、この住吉公園停留所。当時の駅舎が遺されています。今はその建物の中で居酒屋さんが営業を続けています。住吉大社前から阪堺線を横切って住吉公園停留所へ向かう軌道の跡は、今は駐車場になっていて、その敷地が少し左にカーブする形になっているので、この場所に線路が敷かれていたというのが良く判ります。阪堺線の停留所には、他にも、天神の森停留所、姫松停留所の待合室、神ノ木停留所など、当時のままのレトロな建屋がたくさん残っています。これらは、貴重な街の財産だよ!と本気で思っている、鉄道オタクでもなんでもないこのボクでさえ、「もったいない。もったいない」とお念仏を唱えるように唄い、舞い、この辺りを常々徘徊しています。あ~もったいない♪ もったいない♪ もったいないったら、ありゃしない♪ ジャンジャカ♪ ジャカジャカ♪ ジャンジャカジャン♪ さ、皆さまもご一緒に!

 

となりのレトロ調査団~南海平野線を行くの巻 その②へ続く。