南海平野線の街を行くの巻 その③ | となりのレトロ調査団

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関西を中心に、身近にあるレトロな風景を徹底的に調査します。

となりのレトロ調査団~南海平野線の街を行くの巻 その③

 

 

今池停留所は、路面電車の割に、地上かなり高い場所にホームが作られています。スーパー玉出のド派手な黄色の看板の後ろに隠れてしまい、ホームはかなり見えにくくなっています。ホームへ上がる階段の場所も、ちょっと判り難いです。まあ、一日の利用者が50人の停留所ですから、それも仕方のないことです。駅の下、商店街の入り口に通じる高架のすぐ脇に呑み屋さんがあって、昼っ間から焼き鳥を焼く煙を西成の街に大放出しています。煙と共に運ばれる鶏肉の焼き上がった匂い、焦げたタレの香りがこの街を包み込みます。魔性の煙に誘われて、老いも若きも。男も女もそのどちらでもない人達も。様々な呑兵衛さん達が集い、この店は常に賑わっていますから、酔客に今池の停留所に行く方法を尋ねてみるのもいいかも知れません。西成ビギナーの方々には、なかなかハードルが高い筈ですが、なんたってこの界隈は街が一つのアミューズメントのようなもので、大阪エンターテイメントの神髄のような場所ですから、“ちょっとややこしそうな酔っぱらいのおっちゃん”と絡んでいただくことは、ネズミ帝国でネズミ王の支配下にいる犬やらアヒルやらと抱き合ったり、手を振り合ったりするのとさほど違いのないことなので、異文化交流の一端として、ぜひとも勇気を持って挑んでいただきたいアトラクションでもあるのですが、この街にいつも“危ないおっちゃん”が出没しているとは限らないので、ほんまもんがいない時のために、市の観光局が老舗劇団のベテラン役者さんにでも依頼して、“危ないおっちゃん”キャラを仕込んでいたりしていたらおもろいなぁ、なんてことを考えながら、今でもここに来れば、“エキサイティングでスリリングな西成”の風景に出会えることが、西成ファンのボク達には救いでした。

 

 

今池の停留所から軌道はなだらかに下り、今堀停留所がある交差点の手前で、二手に分かれます。直進する軌道は、住吉、浜寺駅前方面へ。東方向に分かれた軌道は、ゆっくりと左にカーブして、次の停留所、飛田へ進みます。ここからの軌道はすでに無くなっております。どこに飛田の停留所があったのか、知りたくなりましたので、早速調査開始です。フェンスで囲まれた場所を見つけました。中では、食用の植物がたくさん植えられておりました。家庭菜園のような場所です。フェンスの中で作業をしていた男性がいたので、何かご存知だったらいいなと、声を掛けてみました。

 

ボク「こんにちは! この場所のことでお尋ねしたいんですが、よろしいですか?」

男A「・・・それは、あかん」

 

会話は終了してしまいました。はて? もう一人、フェンスの中、少し離れた場所でじっとしゃがんでいる方がおられたので、声を掛けてみました。

 

ボク「お忙しいところ、すみません。ここって・・・」

男B「・・・・・・」

 

おもむろに立ち上がり、無言のまま背を向け、小屋の中に消えて行きました。ボク達の背後に立ち並ぶスナックの軒先、井戸端会議に夢中のママさんらしきご婦人達に声を掛けてみました。

 

ボク「すみませ~ん。平野線の飛田停留所ってわかります?」

ママ「何なに? もしかして、あれ? となりの人間国宝さん? 円さん、いてはんの?」

ボク「いえ、判らなければ、結構です。失礼しま~す」

 

昔も今もこの界隈には、秘密めいた、ヤバそうな事案が渦巻いています。ボク達のような素人の想像が及びもつかないほど、奇想天外なトラップがいたるところに仕掛けられています。街中をピカピカに磨き上げ、日本中、世界中からたくさんの観光客をこの街を招き入れようとも、ここには今も尚、ここでしか生きて行けない、或いは、ここでこそ生きて行ける人々が肩を寄せ合うコミュニティーが有って、よそ者が憧れや興味本位で立ち入るにしても、侵してはならない一線、暗黙のルールみたいなものをちゃんと心得ていないと、大きなトラブルを引き起こしてしまいかねない緊張感がここにはあるのです。ボク達のほんの些細な疑問である、『飛田停留所がどこにあったのか』に関しては、結局誰も教えてくれないので、辺りをウロウロして、自力で調査してみることにしました。正に、エジプトの民の支援を得ずして、ピラミッドの謎に挑むようなものです。ちょっと言い過ぎか・・・。フェンスで覆われたこのサンクチュアリ(聖域)の形状、そして道をはさんだ向かいに立つマンションの敷地の形状が、左に弧を描いて大通りに向かっているので、杉さんと協議の結果、「ここが飛田停留所跡に間違いない!」と、いとも簡単に答えを導き出すことができました。早速、となりのレトロ調査団として認定させていただくため、念のためネットで調べてみたところ、「この畑辺りが、飛田停留所があった場所だよ~ん!」と書かれた記事が一杯あって、実は有名な話なんだってさー。チャンチャン♪

 

そして、せっかくここまで来たので、あの場所へ行かない手はない。大学を卒業後、同期の奴らより一年間遅れで会社と言うところに就職し、同時に学生時代からの恋愛に終止符を打たれてしまった若かりし頃のボクが、何かのきっかけでこの場所を知り、興味本位でうろついていたあの頃から、どれくらいの時が経ったのだろう。ああ、もう数十年か・・・。時間の経過の速さに今さらながら愕然としてしまうのですが、あの頃から飛田新地の景色は変わっているのかな。今も昔の風情を残したまま、賑わっているのかな。或は、もう寂れてしまって閑散としているのかな。行かない訳にはいかないよね。いや、今さら行かなくても良いさ。自問自答を繰り返し、そして、ボクは途方に暮れる。テーブルの上もそのままに・・・。しばらくの沈黙の後、長塚京三さん風にそっと呟くのです

 

ボ ク「そうだ。飛田、行こう」

杉さん「あのね~、それ、“京都、行こう”ちゃいまんの?」

ボ ク「まあ、そうですけど・・・」

杉さん「なんか、挿入の小ネタで、年代がバレバレでんな」

ボ ク「・・・痛いとこ突きますね。せっかくなので、飛田新地、観て行きましょう」

杉さん「私、大阪はあちこち行ってますねんけど、飛田新地は行った事ありませんねん」

ボ ク「ではでは、ご案内させていただきます」

杉さん「それやったら、飛田新地と上町台地との境の崖もぜひ観たいな」

ボ ク「“嘆きの壁”と呼ばれている崖ですね・・・」

 

普通ならば、ジャンジャン横丁の前から通りを渡り、飛田本通り商店街のアーケードを歩いて、大門の柱が残る角を曲がると、もうその辺りから飛田新地になるのですが、今回は、杉さんのリクエストにお応えするため、飛田停留所跡からそのまま阿倍野斎場の交差点方向へ向かい、なだらかな坂道を上って行くことにします。次第に左側の飛田新地一帯が谷底のように、全体を眼下に見下ろせる高さに自分が立っていることに気付きます。ざっと見渡すその敷地は、かなり広いです。日本全国的に広さを確認する基準は東京ドームなので、ボクもそのしきたりに従い、家に帰ってネットで調べてみたら、飛田新地22,600坪、東京ドーム14,242坪とありましたから、飛田新地は東京ドーム約1個半の大きさになるようです。やはり広いです。坂道を登って行くと、頭の上を阪神高速松原14号線の高架が並行して続きます。その下を歩いていると、2車線道路の南側の道端に錆びついた鉄柱が等間隔で並んでいるのに気が付きます。どうみても普通の電信柱とは形が違っていたので、これも後で調べてみたら、やはり平野線時代のものでした。車が行き交う喧噪の風景の中、チンチン電車の送電線を支えていた鉄柱が、人知れずこんな場所に残っていました。そして阿倍野斎場の交差点の手前で道を左に折れると、上ってきた分だけが、北方向へ下り坂になっていて、その道の西側斜面が、杉さんの言う上町台地の崖になります。大阪は大昔、この上町台地のすぐ西まで大きな湾になっていて、河川が運ぶ土砂の堆積により、徐々に海岸線が西へ西へ押しやられ、今の大阪の地形が形成されたと言われています。因みに元々石山本願寺があった場所に作られた大阪城は、上町台地の約8キロ先の北端に位置しております。そして杉さんが見たがっていた上町台地の崖は、100万年前の地殻変動によって隆起した阿倍野側との境界線になっていて、飛田新地側から見ると、外の世界と新地を隔絶する断崖絶壁。新地で働く女性達にとって、正に“嘆きの壁”と言われる崖であったのです。

 

 

飛田新地を杉さんとぐるっと回ってみました。今も百数十軒の“ちょんの間”と呼ばれる飲食店が営業しているそうです。夜な夜な、店も関知しない、客と仲居さんとの自由恋愛が、ここで繰り広げられていると言うことなのですが、ボク達が訪れたのは、まだ15時頃。ところが、碁盤の目の通りのあちらこちらには、着飾った女の子とやり手婆さんの2ショットを鮮やかにライトアップする店が結構ありました。今は観光客を見込んで、午後の早い時間から営業を始めているのかも知れません。一通り見て回り、飛田新地を後にしました。飛田本通り商店街を歩いていると、スーツケースを引っ張った、恐らく日本人であろう女性グループや家族連れの外国人観光客の姿を結構目にします。この光景は、さすがに、ボクが長年抱いてきた西成のイメージとはほど遠く、確かに、行く川の流れは絶えないのは承知しているし、諸行無常の響きも聞こえない訳じゃないのだけど、今さらながらに、世の中、変われば変わるものだな~と感じ入ってしまいます。10数年前、ボクがまだ東京にいた時、友人が、「彼女と大阪行くんですよ」と話してくれたのは、「鶴橋で韓国料理食べて、新世界で串カツ食べて。新今宮の安いホテルに泊まります。結構ディープな大阪ツアーです!」と言うもので、京都や奈良や神戸のよくある観光スポットではない、“ちょっと怖いけど、一度は行ってみたいホンマもんの大阪”が注目され始めた頃でした。そして今も全国から、世界中から人々が流れ込んで来ています。商店街でお昼をいただいた洋食屋さんにも英語版のメニューがしっかり用意されていましたし、片言でやり取りするのもへっちゃらみたいな、そんなお店の雰囲気も感じました。今や飛田新地は、大阪遊びの裏メニュー的な場所として、世界中で有名なスポットになっているのかもしれません。しかし、未来永劫、ずっと今の形のままで残り続けられるのか言うと、とてもそんな風には思えなくて、遅かれ早かれ、この地にも外部からの大資本が入って来て、中華街とか、コリアタウンとか、或いはアウトレットパークとか、そう言った大型のアミューズメントになる日はそう遠くないのかも知れません。飛田新地の一切合切を更地にして、再開発を受け入れる日がいずれやって来て、その時は、飛田新地という名に、歴史の全ての汚名をおっ被せ、何事も無かったかのようにきれいさっぱり生まれ変わっちゃうのかも知れません。ボクはこの飛田の街、決して嫌いではないです。西成と言う土地が持っている、何処に行っても味わうことのできない、この街特有の猥雑さは、むしろ大好きです。事の良し悪しの全てをひっくるめて、これもまた一つの大阪の文化なのかなと思っています。だからこそ、“今の内に自分の目に焼き留めておくべき風景”だと思っています。そんなことを考えていたら、昔大阪にあった遊郭のことを思い出したので、杉さんに尋ねてみました。

 

ボ ク「杉さん、大阪に新町って、あったんですよね?」

杉さん「ありましたよ。大阪で唯一の幕府公認の遊郭ですわ」

ボ ク「公認ですか。時代ですね・・・」

杉さん「大坂夏の陣の翌年、伏見町の浪人、木村又次郎が幕府に願い出たんですな」

ボ ク「幕府の許可が下りた・・・んですね?」

杉さん「もちろん下ります。当時、幕府公認の遊郭は他にもありましたから」

ボ ク「他と言うと?」

杉さん「江戸の吉原、京都の島原ですわ。知ってますやろ?」 

ボ ク「行ったことないですけど、知ってます」

杉さん「難波村の住人を道頓堀川の南へ移住させて、新町遊郭をこしらえたんです」

ボ ク「松平忠明さんが道頓堀川と命名した頃ですね」

杉さん「その頃になりますかな」

ボ ク「跡地って、なんか昔の名残とか、何か残ってるんですかね」

杉さん「碑がいくつか立っているくらいです」

ボ ク「・・・・・・・」

杉さん「その辺りにオリックス劇場、建ってますねんけど、見に行きますか?」

ボ ク「オリックス劇場、見てもね・・・」

杉さん「今も大阪には、規模の違いはあれど、営業している新地が5箇所ありますで」

ボ ク「今もそんなに、ですか?」

杉さん「松島、今里、信太山、滝井、そして飛田ですわ。見に行きますか?」

ボ ク「いえいえ。今日はもう、お腹、一杯です」

 

その後、飛田本通り商店街を抜け、ジャンジャン横丁を潜り抜けて、新世界にやって来ました。通天閣の真下、大阪で一番安いうどん屋さんがあります。ボクが学生だった頃から、多分値段はそう変わってないのでは…と思うほど、安いです。そして、同じように通天閣の足元にある喫茶店ドレミ。外観は昔からちっとも変わっていません。変わったのは、店内の客層。この日も観光客で満席でした。たまたま横並びで座るカップル席みたいなテーブルが空いたのですが、おっさん二人で、カップル席でもないので、ドレミの珈琲は諦めました。さらに新世界国際劇場があります。昭和5年にオープンして以来、今もなお映画館として営業しております。その昔は、南陽演舞場と言われていた建物です。外観を見る限り、昔のまんま。しかし、「内部も見てみたい!」と言う気持ちをぐっと押さえ、それは諦めました。その辺の諸事情は、ネット等で“新世界国際劇場”と検索すれば、ご理解いただけるものかと・・・。

 

 

明治36年、天王寺と堺で開催された、第5回内国勧業博覧の後、会場の東側2/3は天王寺公園になり、西側の1/3は新世界として、ルナパークを中心にした子供から大人までも楽しめる、健全な歓楽街としての営業を開始し、一大ブームを巻き起こすのですが、南海電鉄が中心となって千日前に“楽天地”を作ってからは、人々の足は遠のき、大正12年にルナパークは閉鎖されてしまいます。実はその当時のことでこんな話があって、ルナパーク全盛時から、新世界の飲食街ではすでに花街化が進んでいたそうなのです。元々、新世界の飲食店と通りを隔てた飛田新地とは持ちつ持たれつの関係があったようで、“新世界で飯でも食って、飛田新地でひと遊び”だったり、“新地で遊んで、新世界で一杯”みたいな相互関係は強かったそうなので、いずれ新世界に妓楼、娼家ができるのも時間の問題だったようです。ルナパークが閉鎖されて以降、新世界はますます大人の街の色を濃くして行くことになります。そう言った経緯がこの街の今の諸事情につながっているのかな、なんて思います。それから忘れてはいけないのが、我がとなりのレトロ調査団、金融・○くざ映画評論担当顧問のS枝氏によると、新世界には、映画ファンが泣いて喜ぶ、フィルム上映館が一軒だけ残っているそうです。新世界東映がその映画館です。フィルムにはディジタルには無い味があるのだそうです。因みに、今これを書いている時点での、上映作品は、『草の実』と『日本女俠伝 激斗ひめゆり岬』。どうやら、場所柄というか東映と言う映画会社の都合上、任侠系の作品を多く上映しているようです。

 

南海平野線が繋いでいた恵美須町・天王寺と平野。新今宮、新世界、ジャンジャン横丁、飛田の街。そして平野郷の町並み。今回も、となりのレトロが満載でした。世の中の流れがちょっと変わると、町の様子はガラッと変わってしまいますから、今の内に自分の目に焼き付けておこう。記憶に留めておこう。その気持ちが、ボクをとなりのレトロを探す調査の旅へ後押ししてくれます。さて、次はどこへ行くかな。そして、どんなことを書こうかな。まだまだ見つけたいものはたくさんあります。書きたいこともたくさんあります。となりのレトロ調査団~南海平野線の街を行くの巻、全編の終了です。稚拙な文章にも拘わらず、今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。