あぁ、汐見橋線の巻 その① | となりのレトロ調査団

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となりのレトロ調査団~あぁ、汐見橋線の巻 その①

 

あれからどれくらいの月日が経ったのか。今となっては、もうずっとずっと昔の話。時代が平成になる前、昭和の終わりの頃のことですから、西暦で言うと、1980年代の半ば。当時のボクは、無事に大学を4年で卒業したのはいいけれど、相変わらず中学生の頃から続けていた音楽の夢を捨てきれず、と言って積極的に何か行動を起こす訳でもなく、就職もせずに毎日ブラブラ。そんな自堕落な日々を送っておりました。自分で言うのもなんですが、根っから終生の放蕩者になれる程、肝っ玉の据わった器でもないので、「何か仕事を始めなきゃ・・・」という焦りはそれなりに感じていて、当時、グラフィックデザイナーとしてバリバリ仕事をしていた姉の影響も強かったのでしょう。街で目にする様々な広告・宣伝に興味を持ち始めていて、「宣伝文句をちょちょいと作って、大儲けできる『コピーライター』ちゅう仕事、おいしいな」と、かなり歪んだイメージを抱きながら、この短絡的で、浅はか極まりないミーハー青年は、姉の薦めもあって、宣伝会議のコピーライター養成講座なるところへ通うことになります。その頃の出来事と言うと、大阪のマンションの一室で起こった豊田商事の血生臭い事件。520人もの乗客が亡くなり、日本の航空機事故では史上最悪の大惨事となった日本航空123便墜落事故。ワイドショーでは、ロス疑惑とかなんとかで、三浦なんとかさんが連日登場。そして何よりも何よりも我が阪神タイガース(当時は“我が”だった)が、球団創立初の日本一に輝き、世の暗いニュースとは裏腹に、大阪の街ときたら、そりゃもう祝優勝の浮かれ気分のまま年の瀬に突入。ご多分に漏れず、アルコールにてんで弱いミーハー青年のこのボクも世間の皆さまに便乗して、連日お祭り騒ぎの大阪の街で羽目を外させていただいた一人であったのです。

 

その頃の友人にH本君と言う人がいて、どんな経緯で友達になったのか、今でははっきりと覚えていないのですが、当時ボクは、コピーライター養成講座に通いながら、すでにY新聞社系の広告会社でアルバイトを始めていて、ボクの放蕩時代は敢え無く数カ月間で幕を下すことになるのですが、その広告会社でデザインの仕事をしていたのが、H本君だったと記憶しています。ところが彼に言わせると、「デザイナーと言うのはね、世を忍ぶ仮の姿で、あくまでも食い扶持を得るための手段に過ぎないのだよ。フフフ」と不敵な笑みを浮かべ、実は舞台役者が本業だと言うのです。ボク自身、今思うと何故か判らないのだけど、高校生の頃から文学座や俳優座などメジャー劇団のいわゆる新劇なるお芝居を時折観に行っていて、そして大学に入ってからは映画作りにも参加し、カメラ前でお芝居することも経験していたので、舞台の芝居にはとても興味がありました。音楽と芝居。何かを人前で表現すると言う意味では相通ずる部分も多く、当時、人生の袋小路に迷い込んでいたボクにとっては、H本君が話してくれる演劇論や劇団、小劇場の裏話は、とにかく新鮮で、今までのボクの人生には全く縁のない、様々な話に耳を傾けていても飽きることはありませんでした。当時唯一の情報誌であったプレイガイドジャーナル誌を手に、一人、島内小劇場や阪急ファイズ・オレンジルームなどへ出向いて、芝居に浸っていた時間がとても心地良かったのです。『満開座』、『南河内万歳一座』、『そとばこまち』、『劇団☆新幹線』、『第三劇場』等々。仁王門大五郎さん、つみつくろう(辰巳琢郎)さん、筧利夫さん、生瀬勝久さん、わたなべいっけいさん、紅満子さん、趙方豪さん・・・。そんな方々が夢中に芝居を作り上げていた時代。ボクのような人間でさえも虜になってしまうくらい、当時の関西演劇シーンの熱量は半端なかったのです。

 

H本君とは結構呑みに行った記憶があって、ボクは今もそうなのですが、当時もそんなにアルコールが強くなくて、と言うか全く呑めない体質で、正直言うと呑みに誘われること自体、苦痛に感じる人種だったんですけど、H本君の回りに漂う役者オーラと言うか、演劇ムードを身近に感じていられることで、自分も何か特別な才能を身に付けたような気分を味わせてくれることが本当に楽しくて、朝方までアメ村界隈のプールバーでウダウダして、そしてH本君のマンションに泊めてもらうと言うのがルーティンでした。彼の住まいは道頓堀沿いを西に歩いて、桜川を過ぎた大正橋の手前、木津川べり。ミナミの繁華街からは大よそ2キロくらいの所で、千鳥足で歩いても30分もあれば辿り着く距離でしたから、いつもブラブラ歩いて帰っていました。その途中にポツンと建っていたのが、南海高野線、汐見橋駅でした。

 

ボク「これって南海の駅なん? なんで? 難波駅方面から歩いて来たのに・・・」

H本「行けども行けどもまた難波駅に戻ってしまう。これが不条理の世界や」

ボク「不条理はエエとして、これ難波駅なん? 駅がかなりコンパクトになってますけど」

H本「これこそまさに世の中の不条理。そう言う運命もあるちゅうこっちゃ」

ボク「いや、ないやろ、そんなん・・・」

 

                      「南海鉄道発達史」(1938年)より

                       1935年頃の駅舎と貨物ホーム

 

こんな訳の判らん、素面ではとても語れない、関西地方で言うところのいわゆる“しょ~もない話”を酒の勢いに任せて、がなりながら歩いた道頓堀沿いの電信柱に染みついた夜。ボクの青春の欠片は、こんな道端にも転がっていました。そして、そのH本君が言うところの、“不条理の成りの果ての駅舎”が、今回のテーマである、『汐見橋駅』であります。その後今日に至るまで、H本君とは全く縁が切れてしまい、今どこで何をしているのやら、この世に存在するのやら。電話番号も住所も写真もフルネームすらも何一つ記録が残っていない、ボクの記憶の中だけに存在する友人H本君ですが、会わなくなってしばらくしてから人伝てに聞いた話では、ボクに話してくれていた話しのほとんどが創作だったようで、どうやら芝居の世界とはまったく関係のない人だったそうなのであります。今思うと、これも全て、彼が迷い込んでしまった不条理の世界の由縁だったのかな。世の切なさを知った、青春のほのかな記憶の断片なのであります。

 

汐見橋とその向こうに京セラドーム

 

さて、久し振りの“となりのレトロ”です。相変わらず序文が長くてすみません。今回のテーマは、『南海高野線』です。とは言っても、橋本駅や極楽橋駅、高野山駅と言ったあっちの方の話ではなく、もっとこっち、大阪・浪速区の汐見橋駅から西成区・岸里玉出駅までの4.6㎞の区間のお話です。ですから、『汐見橋線』と言った方が良いのかもしれません。大阪市内でも超ローカル路線として、知っている人は知っている路線で、はっきり言ってしまうと、もういつ無くなってもおかしくない、今の内にぜひ写真に収めておいほしい路線なのであります。しかし十数年前、大阪市内を南北に貫き、関西新空港までを30分でつなぐ新路線計画の一環として、“なにわ筋線”構想が発表された時は、難波駅から汐見橋駅を経由する内容が盛り込まれていたので、汐見橋線が久しぶりに世間の注目を浴びることになり、「さすがは南海はん。この時のために汐見橋線を残してこられた訳やね~」と、華やかに生まれ変わる汐見橋線の未来が垣間見え、南海はんの評価も鰻登りでしたが、大阪市内の人の流れや建設予算などを検討した結果、接続駅が汐見橋駅ではなく、新今宮駅に計画変更されてしまったことで、再び人々の興味を失い、以前にも増して、“都会のひなびたローカル線”色が濃くなってしまいました。相変わらず一日の平均乗降客数が700人にも満たない路線として、“いつ廃線になってもおかしくない”感を十二分に漂わせております。しかし、天王寺・恵美須町~浜寺公園をつなぐ阪堺線が、今や“市民の足”としての地位を揺るぎないものにしているように、汐見橋線もなんとかその存在意義を確かなものにして欲しいのでありますが・・・何か良いアイディアはないものでしょうか。

 

南海汐見橋線の歴史を簡単にまとめておきます。時代は1896年に遡ります。堺の街と霊峰高野山とを繋ぐ鉄道建設を目的に設立された高野鉄道株式会社。1898年には、大小路駅(現在の堺東駅)と長野駅(現在の河内長野駅)にまで距離を延ばします。当初の計画では、大小路駅からそのまま西へ延伸し、南海鉄道の堺駅に接続させる予定でしたが、住吉大社、我孫子観音への参詣客が見込めそうだと言う目論見から、路線方針が変更されます。大小路駅から南海鉄道の東側を北上し、岸ノ里付近で交錯する案に許可が下り、現在の形になったと言うことなのです。1900年には、道頓堀駅(現在の汐見橋駅)まで延ばし、自力で大阪市内への乗り入れを実現します。高野杉や吉野杉を水運の拠点だった木津川口まで輸送するため、木津川駅、汐見橋駅の貨物対応力を充実させますが、経営的には厳しい状況に陥り、日清戦争後の不況も相まって、事業は高野登山鉄道に継承されることになります。高野登山鉄道は、1915年に汐見橋駅~橋本駅間を開通させ、社名を大阪高野鉄道と変更。その後、高野大師鉄道を設立。1922年に高野登山鉄道・高野大師鉄道はともに南海鉄道と合併することになります。1944年から一時期、近畿日本鉄道(近鉄)となりますが、1947年、路線譲渡により、再び南海電気鉄道となり、現在に至っています。  

あぁ、汐見橋線の巻 その②に続く