海部堀川を見に行くのだ!の巻 その③ | となりのレトロ調査団

となりのレトロ調査団

関西を中心に、身近にあるレトロな風景を徹底的に調査します。

となりのレトロ調査団

海部堀川を見に行くのだ!の巻 その③

 

さてさて、ここからが本題です。例の“雑喉場市場”のお話しになります。天正年間(1573~92年)以前は、生魚と塩干魚の市場と言うと、天満の鳴尾町辺り(中之島から見て堂島川対岸。現在の北区菅原町界隈)にあったそうで、1598年、堂島川沿いの菅原町から現在扇町公園がある場所まで、天満堀川を開削します。1598年というと秀吉が伏見城で亡くなった年。大坂城が完成した年でもあります。伏見城築城時、巨石転がしで名を上げ、巨椋池の土木工事や淀川の太閤堤事業等で大きな実績を挙げた岡本三郎右衛門こと淀屋常安。意気揚々と京都八幡の淀の津から大坂へ移り、1590年代に十三人町(現在の大阪市中央区北浜四丁目辺り)に材木商、淀屋の暖簾を掲げます。その淀屋が、店から目と鼻の先の天満堀川開削工事に関わっていない訳はなく、恐らくこの事業にも参画していたと思うのですが、魚関連の市場は、秀吉晩年の大普請、大坂城建城とそれに付随する城下町建設プロジェクトの目玉として開発された一大ビジネスタウン、船場へ移転することになります。移転先一帯は旧地にちなんで天満町と名付けられるのですが、この地を訪ねた秀吉は、「十文やすやす~」とか「百文やすやす~」と景気を付ける商人たちの掛け声を聞き、「“やすやす”とは、矢を巣に収めるのに通じる。天下泰平の印だ」と大変喜び、町名を靱(うつぼ:矢の巣の意味)と改めたそうです。そして、町に張り巡らされた堀川のあちらこちらには、その名の通り、全国から届く荷が積み下ろしされる船着き場、つまりは船場ができ、活況を呈して行きます。淀川と安治川、尻無川、木津川に挟まれた、上町台地下の平地に堀を巡らし、物流を確保した町・船場を中心に、その後も商都大坂は飛躍的な発展を遂げて行くことになります。                                                       

 

1615年、船場の生魚商17件が、東横堀川沿いに六筋ほど南下した、上魚屋町に移転します。夏の陣が終わり、大坂の町が落ち着きを取り戻した頃です。ところが船場一帯や上魚屋町では、海から堀を登って来るにも距離が有りすぎ、生魚の集散に不便なこともありました。しかも、真夏には生魚の荷が腐敗する恐れがありましたので、生魚商たちは、1673~81年頃、漁船の便が良い、より海に近い西方へ移った、と言うことになっていますが、実は、当時から、東横堀川に架かる高麗橋、今橋界隈は、両替商や呉服屋などの店が軒を並べ始めていて、船場の中でも最も賑わっていた地区でした。その名残が、今も姿を残している北浜の金融街なのですが、ここで成功した商人達が、やがて大坂を代表する豪商と呼ばれるようになっていきます。そんなハイソで洗練された町並みに、いくら隣のブロックだとしても、辺りに生臭い匂いを漂わせる生鮮業者は、絶対的に大迷惑な存在だったと思うのです。豪商達は、押しの強さと豊富な財力をして、幕府や業者仲間に何らかの圧力を加え、鮮魚商達を河口に近い場所、つまり安治川と木津川が交わり、堂島川と土佐堀川に分岐する西の僻地、今は埋め立てられてありませんが、百間堀川の川岸へと追いやったのではないかと思うのです。船場の中心から離れはしますが、船荷を捌くには、確かに便利なこの地に生鮮魚類の市場が誕生します。これが、雑喉場(ざこば)市場と呼ばれる市場の始まりです。

                             杉さんと雑喉場魚市場跡の石碑

 

魚を扱う業者だからと言って、魚繋がりで、魚業者さん達皆が仲良く商売に勤しんでいたかと言うと、実はそうでもなくて、生魚を扱う業者と塩干魚を扱う業者とでは、まったく別のカテゴリーだったようです。仲もそれほど良くなかったようです。船場に居残った塩干魚商らも船からの荷下ろしについては同様に不便さを感じていましたので、新たな土地を探しておりました。目を付けた場所は、津村葭島と呼ばれる場所でした。東は西横堀川、西は百間堀川。南は阿波堀川、北は京町堀川に囲まれた島でした。1622年、すでに米市場、青物市場を手中に収め、さらに塩干魚業をも営んでいた淀屋二代目の言當らが代表となり、津村葭島の開発を計画し、当時の町奉行・嶋田越前守、久貝因幡守へ願い出て、許可を取り付けました。さらに海上よりの荷物の輸送をより便利にするべく、1624年には、町奉行に津村葭島のド真ん中を横切る運河開削の許可を願い出ます。南の阿波座堀川から開削し、海部堀町の東側で直角に曲がり、西へ進んで百間堀川に流れる堀です。この堀の曲がり角の堀止に荷揚場を設けます。人々はここを永代浜と呼びました。幕府から永代使用許可を受けたが故に、永代浜と名付けられたのです。堀の川底には石畳を敷き詰め、堀の両側も石垣で固めた、それは見事な川岸だったそうです。この開削工事、当然、土木灌漑工事に実績のある淀屋が手掛けていてもおかしくないだろうと思うのですが、資料は残っていないようです。新しく移転した先の町名は、塩干魚商達が商いをしていた旧町名、靭町、天満町から名前を取って、新靭町、新天満町と呼ばれ、この界隈はその後、靭海産物問屋街として発展して行くのです。現在、靭公園になっている辺りです。

                 永代浜の楠木                         永代浜の錦絵

 

当時大坂では、自治都市として栄えていた平野郷(現在の平野区)などで綿花栽培が盛んであったため、肥料として需要が高かった干鰯(ほしか)を始め、塩魚、鰹節、昆布等が靱の問屋で扱う主要商品でした。海産物店舗は、新靭町、新天満町から海部堀町へも広がっていきました。この煽りを受け、海部掘川沿いで商いを行っていた材木商は、居心地が悪くなったのか、立売掘や西横掘方面(堀江)に移転して行きました。堀江の町に今でも家具屋さんが多いのは、その為です。船場から新靭町、新天満町へ移転してきた旧来店達は、海部堀町で新たに商いを始めた新興店達を“浜問屋”と見下げていたそうで、いつの世も古株が新参物を見下げ、頭を押さえつけようとする風習は同じです。ところが、当時は三町以外の地域の海産物業者勢力も台頭して来ており、もはや仲違いなどしている場合ではなく、三町の海産物業者は、新旧のいがみ合いを乗り越えて、団結せざるを得ない状況にあったようです。ついには、1780年には雑喉場生魚問屋と三町海産物問屋との問に訴訟問題が起こります。三町の問屋が、暗黙の了解でこれまで扱ってこなかった生魚の売買を手掛けるようになったため、自分達が独占的に扱ってきた生魚を扱われた雑喉場魚市場がお上に訴えたのです。町奉行の裁定では、三町問屋が永代浜に生魚市場の免許を得たとする確証はなく、先年の問屋株願で差出した口書にも「塩魚・干魚・鰹節等市売いたし」とあって生魚市場のことは触れて無かったため、今後、靭海産物市場においては生魚市を開くことを禁止。同時に生魚問屋においても塩魚を売買してはならないと申渡し、両問屋の営業範囲を確定するに至りました。ところが、こんな問題が発生します。「じゃあ、生節はどっちが扱いまんねん?」、「いかなごは、どっちに入りますねん?」。絶えずこの手の言い争いが続きます。その度に訴訟が起こされても町奉行的には迷惑な話なので、三町問屋が取扱品目を明記し、雑喉場魚市場の承諾を得て録上すべしとの命がでました。こうして1783年5月、三町問屋より上申したものは、以下の22種だそうです。『三町、雑喉場生節争論一件と三町取捌品類書上』より。

 

品類書の覚
1.塩魚類、2.干魚類、3.生干魚類、4.鰹節類、5.生節、6.煎雑喉類、7.塩辛類、8.ごまめ、9.かます、10.ゆでゑび、11.慰斗、12.からすみ、13.身鯨、14.皮鯨、15.煮がら、16.けたいりこ、17.するめ、18.からさけ、19.にしん、20.かずのこ、21.棒だら、22.串貝・煮貝・繋貝

 

この頃、田畑の肥料に使用する干鰯の取引が隆盛を極めるのですが、その仕入れの仕組みが面白いのです。まず縁故を求めて諸国漁場の網元に先に仕入銀を貸与し、新漁場新網株を設定。獲れた鰯を干鰯として加工し、銀主の問屋に送らせる。鰯が獲れる前に金を握らせ、干鰯の仕入れを確約してしまうという方法で、かつて淀屋が米市場に取り入れた先物買いのようなシステムが、ここでも取り入れられていたのです。畿内・播磨・丹波・伊賀・近江・紀伊、阿波などの農家が靱の市場にこぞって参集し、大阪に大きな繁栄をもたらしました。大阪に積登る魚荷船は、スピードを必要とすることから、おおむね小船を使用し、荷物を売捌くや否や、即日即刻に出船します。塩魚船でも3~5日間逗留し、その間に注文品を買い込み、積込みして出船すると言うことを常としておりました。ところが干鰯船は、中船を使用して積登り、荷を下ろした後は、5~10日、或いは半月近く滞留し、その間にあらかじめ注文を受けていた、米・洒・絹布・綿・薬種・神器・仏具・船具等の物品を買い込み、積下っておりました。この商売に目を付け、多数の干鰯仲買人が生れ、同業者が三町の隣接町である油掛町、信濃町、海部町、敷屋町、京町堀3~5丁目にまで拡大して行ったそうです。干鰯市、塩干市、さらに隣に位置する雑喉場市場の賑わいもあって、この地区の繁栄はすさまじかったようです。

住吉大社の鳥居の北隣にある巨大な石燈籠は、1890年、靱の干鰯問屋の寄進によるものだそうです。参詣人には、靱商人の勢いが伝わったことでしょう。その後、昭和6年(1931年)、木津川と安治川を渡ったすぐそこに、大阪市中央卸売市場が開設されるまで、靭の海産物市場はその機能を果たしました。現在、楠永神社が設立されている場所に、樹齢400年とも言われている楠木の大木が今もあります。永代浜が造られたその日も同じ場所に立ち、賑やかに船荷が積み下ろされていた繁栄の時を経て、昭和20年(1945年)3月の空襲によって、辺りは殆ど焼き尽くされてしまいましたが、この木だけは焼け朽ちることはなく、戦後、靱公園が米軍飛行場として接収された時も、そして昭和26年(1951年)海部堀川が埋め立てられた時も、この場所で歴史の全てを眺めておりました。ご神木は今も靭公園の隅っこに毅然とした姿で立っています。いつも思うのですが、堀を埋めずにそのまま残しておけば、町の様子は変わっても、その地形を頼りに当時を偲ぶことができるのではないか。なぜ埋めてしまったのだろうと。確かに、雑喉場市場があった江之子島から靭公園までの町の様子、今ではビルやマンションが立ち並ぶ、何の変哲もない普通の大阪の街並みで、江戸時代の賑わいを彷彿とさせるものなど何一つ残っておりません。でも、それはそれでいいのだと思います。例え、当時の街並みをきれいに再現したとしても、それはあくまでも現代の技術をして昔の形を作り直しただけのこと。当時の生き生きとした、商売人達のスリリングな空気感を今この時代に体現できる訳ではないからです。そういう意味では、海産物市場の繁栄の歴史をご存知なのは、今やこのご神木だけと言うことになります。

                 楠永神社            靭海産物市場後の石碑

 

今回、杉さんの案内で、雑喉場市場跡、靭海産物問屋跡、天満青物市場跡を見に行きました。天満青物市場跡の石碑を見た後、堂島川沿いに西へ少し行くと、北村商店さんと言う会社があって、昔ながらの佇まいの蔵が幾棟も残っていました。かつて天満堀川に面したこの辺りには、海苔、寒天、椎茸などの海産物問屋が軒を連ねていたそうで、今でもそれらしい雰囲気を漂わせていいます。

天満界隈を歩いている時、杉さんが、頭上を通る高速道路を指さして、

「これ、何ですかな?」

突然、質問してきたので、この人、一体何を言っているのだろと思いながらも、

「これは、阪神高速ですよね」

ありのまま、そう答えると、今度は地面を指差して、

「と言うことは?」

一休さんの禅問答のような問い掛けに、ボクも負けてはいられず、

「高速の下には、堀があった!」

浮かんだ答えを素直に伝えると、

「正解! 天満堀川がここを流れていました」

その表情は、正解を言われて悔しいのかと思いきや、なんか嬉しそうでした。

       天満堀川に架かっていた大平橋の親柱             樽屋橋の親柱

 

そうなんです。天満堀川が流れていた場所にボク達は立っていたのです。秀吉が誘致した天満本願寺境内の真ん中辺り、堂島川に架かる公儀橋の難波橋と天神橋の間を堀は北へ向かって分岐していました。当初は今の扇町公園辺りまで堀が続いていたそうです。今は一部が埋め立てられていたり、また堀の深さを使って、東西の通りのアンダーパスになっていたりします。江戸時代、物流の要だったの船に変わり、今は車がひっきりなしに行き交っています。堂島川に面した北村商店さん辺りを離れると、もう街並みは普通の大阪の町並みですが、沿道の建物に掲げられた看板を見て、海産物を扱っている会社があることを発見しました。もしかすると、江戸時代から続いていている老舗? 或いは、明治、大正期になっても、昔の名残で、海産物問屋が集まりやすい地域であったのか。何れにせよ、なんとなく当時の面影を感じることができて、ちょっとだけ嬉しくなってしまいました。それからもう一つ、今思い出しました。大阪・中央区高麗橋に神宗さんというとても有名な佃煮屋さんがあります。この店というか、今は大きな会社になっていますが、天明元年(1781年)に靱で海産物問屋として創業されたそうです。その神宗さんの佃煮の詰め合わせ、以前、知り合いの方から頂いたことがあって、当時のボクは、20数年ぶりに東京から戻って来たばかりで、靭の海産物問屋のことも神宗さんのことも、何にも知識がなく、普段から佃煮なんてそんなに食べないので、家族が食べる分だけを少し残して、ポイポイ人にあげてしまったのです。今思えば、もっとありがたく頂いておけばよかったと、めちゃくちゃ後悔しています。早速、スケジュール帳を確認し、次の休日に店を訪ねる計画を立てています。一番手ごろな佃煮を手に入れて、その足で靭の楠永神社を訪ねてみたいと考えています。

           沿道の海産物問屋                  天満堀川跡

 

今の時代に残っている歴史の断片を過去と繋ぎ合わせてみることで、ボクのイマジネーションは無限に広がって行きます。時に空虚感に苛まれる日常にちょっとした楽しさを与えてくれます。そしてボクに心の余裕という素敵なプレゼントをくれるのです。誰も知ることのない、未知なことだらけの明日に立ち向かわなければならないボクの背中を優しくグイっと押し出してくれるのは、このちょっとした心のゆとり、遊び心だったりします。本当は気弱なボクが、みんなと同じように前へ進んで行けるよう、明日への希望という掛け替えのない力を与えてくれているような気がするのです。過去と今と未来を繋ぐ歴史のヒントは、街のあちらこちらに潜んでいて、ふとしたことでその存在に気付いたボクに向かって、通りの向こうから手招きをして、素敵な歴史の話を語りかけてくれます。ボクのすぐ隣りに潜んでいる、レトロを探す街歩きは、まだまだ続きそうです。

                 かつて天満堀川が分岐していた場所から難波橋を眺める

 

以上が、大阪の米市場、青物市場、海産物市場、雑喉場市場の歴史であります。魚関係で言うと、京橋辺りには、川魚専門の市場もあったそうです。機会があれば、調べてみたいと思います。これにて、「となりのレトロ調査団」~海部堀川を見に行くのだ!の巻、終了です。今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!サラっと流す予定が、約17,000字を越えてしまいました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。感謝。感謝。