「堺の謎を解明するのだ!」の巻 その⑤ | となりのレトロ調査団

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となりのレトロ~「堺の謎を解明するのだ!」の巻 その⑤~

 

ここ数カ月間、堺に何度も足を運び、堺在住の人に会い、資料を漁り、自分なりに感じたこと、知ったことを書き綴ってきましたが、その他にも、「えー!こんなこともあったんか!」というような、初めて知ってひっくり返ってしまうような飛びきりのネタ。ひっくり返る程ではないけど、それを知ってちょっと楽しくなってしまう、そこそこのネタ。初めて聞くけど、まあ想定内くらいの並みネタ、等々。堺のトピックスを見つけましたので、最後の章でご紹介してみたいと思います。

 

 

“堺”気になるネタその①:堺に幕府があったらしい?!

 

堺の南宗寺を訪れた際に、ガイドの方に教えていたのですが、「堺に幕府が設立されたことがあるんです」と。「えー! マジっすか!」と。そんなこと、多分ほとんどの人が知らないと思うのですが(もちろん、ご存知の方もおられるとは思いますが)、室町時代後期のこと、1527年、応仁の乱以降の混乱が続く畿内で、将軍・足利義晴と管領・細川高国の軍勢を京都から追い払ったのは、義晴の弟・足利義維と高国の義理の甥・細川晴元。そして阿波の武将・三好元長。阿波から海路、堺に入り、この地に拠点を置きます。幕府同様に公文書を発給していたそうなので、堺公方とか堺大樹と呼ばれ、事実上の幕府が成立しておりました。1527年~1532年の5年間のことです。この間、追い出された義晴さんも近江の国に亡命していて、江州大樹と呼ばれていたそうです。真の意味での幕府として機能していいたかどうかは疑問ですが、歴史的には一応、短期間とは言え、幕府が存在していた、ということになっています。さてその堺幕府、一体どこにあったのかと言うと、堺の街は、度重なる火災や戦災に見舞われていて、さらに所在地を記した記録などはほとんど残っていないため、はっきりと“ここ!”とは確定できないとのことなのですが、顕本寺が、堺幕府の地とされる説が有力だそうです。顕本寺は、現在は、堺市堺区宿院町東にありますが、大坂夏の陣で街全体が焼けた後、現在の場所に移転して来たそうで、室町時代には開口神社(同区甲斐町東)の付近にあったと伝わっていて、神社境内の片隅には、元長が自害した跡であることを示す石碑「三好元長戦死跡」も立っているので、どうやら、ここ!ではないかとのことです。

 

 

“堺”気になるネタその②:江戸の平和な時代でも、堺の鉄砲産業は廃れてなかった!

 

国友村、根来と共に戦国時代に火縄銃を作りまくり、売りまくった堺ですが、江戸時代になって、戦が無くなったことで、鉄砲製造産業は徐々に下火となり、ついに幕末になって大量に流入した西洋銃が国産銃に取って代わることになりました。と言うのが、実は一般的な認識なのですが、近年、空襲で焼け残った市内北旅籠町の屋敷母屋や蔵から膨大な資料が発見され、その辺りのことが覆ってしまうのです。そのお宅は、江戸時代に鉄砲鍛冶として栄えた井上関右衛門家の屋敷で、「鉄砲注文状」、「鉄炮屋仲間覚帳」、「諸家様出入先々名前帳」などの帳面がきれいに保管されておりました。明治29年(1896年)まで鉄砲弾薬商として、堺で唯一鉄砲鍛冶を続けた、第12代井上関右衛門が後世に残した物です。この資料によって鉄砲の納品実態が判明するのです。天保11年(1840年)、296挺だった鉄砲納品数は、安政6年(1859年)には371挺、第15代将軍慶喜が大政奉還をした1867年の前年、慶応2年には469挺という数を記録しているとのことなのです。その大半が口径の小さな鉄砲であることから、オーダーメードの時代から大量生産の時代へとトレンドが変わって行ったことが判ります。ミニエー銃やスペンサー銃と言った舶来輸入銃が大量に流入してはきましたが、堺は江戸時代を通じて、ずっと鉄砲生産を続けていたことになります。その後、明治になって施工された銃砲取締規制により、銃の携帯が厳しくなったことで、狩猟以外の所有は認められなくなり、需要はさらに少なくなりました。つまりは、産業としては期待できない時代となります。1543年、種子島に火縄銃が伝わり、戦国時代の末期には、国内に50万挺以上の銃が存在していたと言われています。世界でも類を見ない銃国家だったそうです。秀吉の刀狩令が出されるまでは、武士だけではなく、戦に駆り出される農民も普通に所有していたほど(火縄銃の場合、銃そのものや弾があっても火薬が無ければ危険ではない)、火縄銃が製造され、供給されていたのですから、国友村、根来と並んで、堺の町だけでも相当な生産量があったのでしょう。江戸時代になると、幕府の直轄地・天領として、銃産業は厳しく管理される時代になります。現在、国内に銃を製造する会社は4社あるとされていますが、その内の1社、狩猟用銃のメーカーでミロク製作所という会社があります。こちらの会社は、土佐藩の鉄砲鍛冶の流れを汲んでいるとのことなのですが、堺の井上関右衛門家は、明治の時代に廃業されていますから、この時に堺は鉄砲製造業から完全に撤退したことになります。

 

 

“堺”気になるネタその③:堺の刃物は本当に有名なのか?

 

鉄砲と同時にポルトガルから伝わったものに煙草があります。この煙草の葉を刻む専用包丁の切れ味の良さが評判になり、人気に火が付いた堺の煙草包丁に幕府は堺生産の証しとして、「堺極(さかいきわみ)」の印をつけ品質を保証したため、堺=刃物のイメージが全国に広まったのだそうです。たばこの生産が機械化され、たばこ包丁の需要は減ってきましたが、職人たちは伝統的な技術を生かして、料理用の包丁などを製作するようになります。堺で造られる堺打(さかいうち)刃物の特徴は、丈夫さと切れ味を両立するために、地金(軟らかい鉄)と刃金(鋼)の2種類の異なる材料を合わせて作られるそうです。鉄板をくり抜いて刃の部分を削るものではなく、二つの鉄を打ちながら包丁などの形に仕上げて行くのだそうで、硬度が高く、抜群の切れ味が長く続くがゆえに、料理人達から憧れの包丁として、90%のシェアを誇っているのだそうです。「えー? ほんまにか?」と疑い深いボクは、早速、知り合いの料理人さん、調理師さん数人にこの辺りのことを尋ねてみたところ、特に和食の人にとっては、製作者の銘が入った片刃包丁は、やはり憧れの包丁だそうです。ケースや布で包まれ、手入れが行き届いた包丁セットを実際に見せていただきました。これ、事実でした。但し、90%のシェアが有るかどうかは、調査していませんので、不明です^^

 

 

“堺”気になるネタその④:螺子(ねじ)と自転車の関係とは?

 

銃製造時に頭を痛めた“螺子”(ねじ)。実は、それまでこの国には、ネジなるものが存在していなかったのです。1543年、種子島にポルトガル商人が乗船する明の船が漂着した際、種子島の島主で大名の種子島時尭は、2挺の火縄銃を手に入れます。銃の製造を美濃国関の刀鍛冶の八板金兵衛に託し、火薬の研究を家臣・篠川小四郞に命じます。金兵衛は製造法を学ぶため、島に移住し、自分の娘である若狭をポルトガル人に嫁がせてまで修得したと言い、2年後の1545年国内初の国産鉄砲製造に成功しているのですが、研究、製造過程で難しかったとされているのが、鉄砲の後部、銃身を塞ぐ部品に使われているおねじ(ボルト)とめねじ(ナット)。この時、八板金兵衛清定が複製したねじが、日本におけるねじ製造の始まりであるとされています。そして、ここから堺の話になるのですが、戦国時代に鉄砲の一大産地となった堺。江戸後期まで鉄砲製造は続けておりましたが、製造や所持が規制されるようになる明治の時代に、鉄砲製造を廃業せざるを得なくなった鉄砲鍛冶達の技術が活かされたのは、実は自転車部品製造でした。金属を加工し、ねじなどの精密部品を軽量かつ頑丈に組み立てると言う意味では、鉄砲づくりと自転車づくりは似ていました。さらに複数の部品を分業で造り、組み立て上げるという工程だけでなく、町ぐるみで切磋琢磨し、技術を競い合ったと言う点からも両者に共通点が多かったようなのです。

 

 

“堺”気になるネタその⑤:かつて堺は、堺県だった?

 

鳥羽・伏見の戦い後の明治元年1月に征大討将軍の仁和寺宮嘉彰親王が大坂城へ入城すると、明治新政府によって大阪鎮台が発足し、後に大阪裁判所と改称されます。堺では、堺奉行所跡に大阪裁判所の出張所が設置され、こちらは、4月に堺役所と改称されます。5月に大阪裁判所が大阪府へと改称される際に、堺役所は、和泉国の旧幕府領を管轄するようになり、大阪府から堺役所を分割し、この時、堺県が発足します。堺役所がそのまま堺県庁となり、堺役所判事だった小河一敏が、初代堺県知事となります。しかし、中央の統制を越えて積極的な地方行政を押し進めようとした結果、明治政府と対立。明治3年(1870年)に早々と免官になってしまいます。第2代知事・税所篤は就任すると、明治9年(1876年)の第2次府県統合により奈良県を編入し、県師範学校、医学校、病院、女学校、堺版教科書の発行などの教育行政、堺灯台の建造など港湾改修、紡績所・レンガ工場の建設、堺博覧会など商工業振興のほか、浜寺公園、大浜公園、奈良公園の開設などを積極的に進めます。しかし、明治14年(1881年)、廃藩置県後の県の整理見直しが行われます。当時、大阪府はその領域が極めて狭く、さらに徳川時代以来商いで使われてきた銀目の廃止令が出されたことで、大坂の豪商と呼ばれてきた両替商が相次いで倒産します。莫大な金額に膨れ上がった大名貸の不良債権化による経済の大打撃も重なり、地盤沈下に直面していた大阪府。その救済のために、府としての規模にふさわしい府域に拡大する必要性が高まり、堺県は大阪府へ編入され、廃止され、堺市となります。ですから14年間、堺県というものが存在していたということになります。

 

 

 “堺”気になるネタその⑥:明治の頃、大浜公園辺りが賑わっていた?

 

1903年(明治36年)、堺の大浜は、大阪・天王寺で開催された第五回内国勧業博覧会の第二会場となります。内国勧業博覧会というのは、1回目から3回目までを東京の上野公園で催された、今で言う万博のような催しで、国内産業を活性化させるために欧州の産業を国内に紹介してきた産業博覧会です。4回目の京都に次いで、大阪の経済界が一丸となって誘致に成功しました。大阪会場は、今宮から天王寺駅にかけての広大な土地に様々なパビリオンが建ち並びました。閉会後は、東の2/3が天王寺公園、西の1/3が新世界として再活用され今に至っています。堺会場の園内には、水族館、噴水など数々の施設が揃い、周辺には大浜潮湯という温泉場、公会堂では大浜少女歌劇団による少女歌劇も催されました。阪堺電気軌道が宿院停留所から大浜公園停留所まで延長し、アクセスも良くなりました。この時からさらに遡る事27年前。1876年(明治9年)、南宗寺で堺博覧会なるイベントが催されていたそうなのです。どんなものを展示していたのかとても興味があるのですが、その内容については確認できておりません。前の章で、現在の南宗寺がお墓のデパートのように堺にまつわる人物、一族のお墓が整然と配置されていると書きましたが、もしかするとこうした博覧会に向けて整備されたものだったのか。その辺りは定かではありません。何れにせよ、明治の時代に入ってからも堺の商工会は廃れることなく、大健闘しております。内国勧業博覧会時、堺会場の水族館前噴水に飾られていた龍女神像は、博覧会後、大浜公園に移設され、今でもその姿を観ることができます。さらに、今は堺区出島海岸通に湊潮湯という銭湯が営業していますので、潮湯体験してみるのも良いかも知れません。2014年、吉本興業のサポートで大浜少女歌劇団を彷彿とさせる堺少女歌劇団が設立されています。

 

 

“堺”気になるネタその⑦:堺にプロ野球のホームスタジアムがあった?

 

1934年(昭和9年)7月、南海大浜支線大浜公園駅の南西に大浜球場が出来ました。1939年、プロ野球の南海軍が1シーズンのみ本拠地として使用し、4月22日の大阪タイガースとの試合が当球場で初めて開催されたプロ野球公式戦と記録されています。但し、プロ野球の公式戦としては、南海軍、タイガース、名古屋軍、イーグルスの主催試合が1試合ずつ、計4試合しか行われていません。同じ場所に現在は、大浜だいしんスタジアム(大浜公園野球場)があり、堺市が管理運営を行っています。尚、大浜支線は廃止されたため、現在の最寄駅は南海本線堺駅となります。さらに、以前、難波駅のすぐ横にあった大阪球場の閉鎖に伴い、大浜球場が一時期ホークスの新本拠地として名前が挙がったこともありましたが、1989年に福岡市へ本拠地を移転した為、この計画は実現されませんでした。大浜球場で行われたプロ野球の試合は以下の4試合です。

 

◇1939年(昭和14年)4月22日 大阪タイガース 3-1 南海軍、イーグルス 5-0 名古屋軍

第1試合と第2試合で対戦カードが変わる変則ダブルヘッダー。またこの2試合は大阪府で初めて開催されたプロ野球公式戦でもあります。

 

◇1939年(昭和14年)4月23日 名古屋軍 1-0 南海軍、南海軍 1-3 名古屋軍

2試合の対戦カードは同じだが、第1試合と第2試合でホームとビジターが入れ替わる変則ダブルヘッダーにて開催されました。

 

因みに、このイーグルスとは、後楽園球場をフランチャイズとする後楽園イーグルスで、東北楽天ゴールデンイーグルスとは関係ありません。

 

 

“堺”気になるネタその⑧:堺の南北の移動は快適。でも東西は?

 

堺市内には、西から南海本線、阪堺線、南海高野線、JR阪和線と4本の線路が敷かれています。さらに高野線の中百舌鳥駅からは、泉北高速が伸びています。大阪市内との行き来には全く支障なく、和歌山方面へ抜けるのも楽ちんであります。ところがです。では東西への移動は?となると、これがかなり面倒臭いのであります。東西に移動する鉄道、軌道線が無いのであります。計画されては立ち消えて行く、この東西新交通システム計画。今までにも、1960年の東西鉄道計画や2004年のLRT(Light Rail Transit)による新線計画が発表されるも、市長選挙の度に新市長の公約も関係して、なかなか具体化しませんでした。堺市内の中心部については、南海本線・堺駅、阪堺線・大小路駅、阪和線・堺駅、南海高野線・堺東駅の4駅を直線的に、或いはループ状に繋ぐと言う交通手段は、確かに魅力があるような気がします。例えば、南海高野線・初芝在住の、我がとなりのレトロ調査団・アパレル&中国貿易部門担当顧問のK上氏が、ふと、阪堺線・寺地町にあるゲコ亭にお昼ご飯を食べに行こう!と思い立ったとしたら、「一番の行きやすいんは、やっぱり車やな?」ということになりますが、「いやいや、牡蠣フライでも食いながら、ビールは呑みたいしな・・・」となると、これはもう車は諦めざるを得なくなり、電車で行くしか方法は無い訳です。となると、南海高野線で新今宮まで出ます。そこでふと、「一人で行くのも何やし、あいつも誘うか」と、南海本線に乗り換え、住ノ江駅まで行って、S枝氏の家に寄ります。「車で行く?」とそれとなく尋ねてはみますが、「俺かて、呑みたいやん!」とS枝氏の予想通りの返事に、二人、電車で向かうことになります。「安立町から阪堺線乗ってもええけど、えらい時間かかるしな」と言うことになって、南海本線で、堺駅まで向かいます。「ビールの分、腹空かさなあかんし、ゲコ亭までやったら、わけないで!」と歩き始めるも、案の定、体力は宿院の停留所までしか持たず、阪堺線に一駅間だけお世話になって、やっと寺地町のゲコ亭に辿り着くのであります。もし、東西を繋ぐ移動手段があれば、K上氏は、初芝駅から南海高野線で堺東駅まで行き、そこでLRTなる新交通システムに乗り換え、阪堺線の大小路駅で下車。寺地町の停留所まで歩くか一駅間、阪堺線を使うかは、もうその時の気分次第で、S氏とは、店の前で待ち合わせることができるのであります。やはりLRT、劇的に便利です。ここまで書いて、堺の友人に「大変ですね~東西の移動には手間取りますね~」とLineを送ったら、「堺東からシャトルバス出てるで~」との返事。そうやったんです。一応、バス便は運行されてるんですね。それも踏まえて、要検討ということですね。ところで、ゲコ亭。ずっと閉まっていましたが、どうやら再開したみたいです。昔の道路沿いの店で、パック販売になった?らしく、そこにはイートスペースもあるようです。

 

 

“堺”気になるネタその⑨:堺は本当に廃れたのか?

 

「室町から江戸の初めの頃まで、外国との商売で隆盛を極めたSacayブランドは、時の流れと共にその価値を失い、同時に堺の町自体も、かつての勢いを無くし、失速を続けた挙句、錐もみ状態で落ちて行った」。白状しますが、ボクは、このブログを書くまで、本気でそう思っていました。確かに、夏の陣の時の焼き討ちによる打撃は大きかったですし、それより前の1575年にも天正の大火に見舞われ、大きな被害を受けています。町中が焼け野原になったと言えば、軍需工場が集中する堺は、尼崎、大阪市内とともに米軍の標的になり、昭和20年7月10日の大空襲で壊滅状態に陥っています。しかし、度重なる大火によって町中が焼け落ちた後でも、その都度、見事に復興してきた歴史が堺にはありますので、大火ごときで廃れたとは考えにくいのです。それでは何が原因かと言うと、やはり幕府の鎖国政策によって、国際貿易という、堺の商人が最も得意とした商権を失ったことが最大の原因だと思うのです。活況極めた頃の繁盛たるや半端ない規模であり、豪商と呼ばれる商人がうじゃうじゃしていた、そんな時代が終りを告げたわけですが、では堺の商人達は指を咥えて、ただただオロオロしていただけなのかと言うとそんなことは決してなく、堺は海外貿易都市から物づくり都市へ見事に方向転換を果たしたのです。例えば、明治3年、戎島に日本で2番目の機械紡績工場・堺紡績所(薩摩藩営の鹿児島紡績所の分工場。その時の営業担当は、五代友厚)、そして同年日本初の官営煉瓦工場・堺煉瓦製造所が操業を開始しています。そしてその明治の時、堺を再び国際貿易港として開くよう欧州列国からの要望があったそうなのですが、近くに位置する古墳群が踏み荒らされることを嫌った明治政府は、その機能を神戸に担わせたと言います。大正、昭和の時代を経て、堺のアイデンティティはハッキリと工業の町として確立していき、その結果が堺泉北臨海工業地帯に象徴される“大工業地帯、堺”として結実したのです。そして平成、令和と時代が移り、今の堺のアイデンティティ、少し判り難くなっているかもしれません。

 

 

“堺”気になるネタその⑩:堺人は、大阪人なのか?

 

大阪市内でも南部の人達は総じて、堺の町を“ひょいッと大和川の橋を渡ったすぐそこのイオンがある隣町”くらいの親近感を持っていると思うのですが、実はこの二つの市の間を流れる大和川の存在感は結構大きくて、“摂津と和泉の境界線が、堺の大小路”という時代から、江戸中期、大和川の付け替え工事が終わった頃から現代に至るまで、“大和川が大阪と堺の境界線”という意識ははっきりしていて、二つの政令指定都市の間には川幅以上の距離感があるような気がします。特に大阪市側の人は、「あくまでも自分達が1番で、堺は2番だから」的なちょっと見下し感を持って堺を見ているかもしれません。逆に堺市民でも、大阪へのアクセスだけを考えて堺に居を構えた人にとっては、大阪に隣接するとても便利な町。「手続き諸々は堺市役所へ出向かなあかんけど、大和川渡って家賃も少し安すなるし、市内への通勤・通学、めちゃ楽な場所!」。住所は堺市でも生活の場は、大阪市。ただ寝に堺に帰るだけで、感覚的にはほぼ大阪人と言うことになります。ところが、堺で生まれ育った生粋の堺っ子にしてみたら、自分達が大阪人と呼ばれることに、人それぞれに違いはあれども、抵抗感や多少の違和感があるかもしれません。明治の時代、堺が大阪府に組み込まれることになって、初めて大阪という冠の付くグループに放り込まれた堺の人達は相当困惑したことだろうと思うのです。飛鳥の時代から戦国時代、江戸時代を通じて、堺はあくまでも堺であって、大坂と一緒に括られることは一度も無かったと思うので、その当時から堺人は大坂人ではないし、堺商人も大坂商人とは、全く別の気質を持った商人として捉えられていたと思うのです。秀吉の大坂城築城以降に開発、発展した大坂・船場。その船場を拠点に大坂商人が活躍し始めたもっともっと前の時代から、国際貿易都市堺の繁栄を支えて来た堺商人ですから、「いやいや、ぽっと出の船場辺りの商人さんとは、一緒にせんといてや~」くらいの気高さがあった筈で、それは、綿花の栽培で大きな利を得て、堺と同じように自治都市を築き上げた平野も同様。平野郷は平野郷であって、大坂の平野郷ではなかった筈なのです。いつから変わったのかと言うと、明治以降、大坂が大阪になり、大阪市域が江戸時代の大坂三郷と呼ばれていたエリアからさらに広がり、同時に大阪府域も拡大されたため、府域一帯を大阪と呼ぶようになったため、堺も平野もその他周辺の町も全て、大阪と呼ばれるようになってしまっただけの話。元々堺は堺であって大坂ではなく、堺人は堺人あって大阪人ではなかった筈なのです。ところが、堺が大阪に取り込まれて以来、かつて諸外国から注目された堺独自のSacayブランドはいつしか影を潜め、今や完全に大阪の影に隠れてしまっているような気がします。例えば、大阪が東京に追いつけ追い越せと挑み続けてきた歴史をそろそろ見直して、ナンバー1でしかもオンリー1でもある最強都市・東京と対等の立場になるためには、ナンバー2の大阪が、宿敵・東京のことなど意にも介さず、大阪にしかできない独自の都市づくりを追求した時に初めて、大阪は東京なんかには真似できない、オンリー1の存在になれるような気がするのです。それと同じように、大阪府下でナンバー1として絶対的な存在である大阪市と対等な存在になるためには、ナンバー2の堺は大阪市のことなど気にも留めず、かつての堺がそうであったように、堺らしさ満載のオンリー1を目指す町づくりを手掛け、大阪離れを実践できた時に、堺が今以上に光り輝ける時代が訪れるかもしれないのです。先人達の歩みや知恵をもう一回見直してみると、歴史が何かを教えてくれるかもしれません。例えば、市役所の1階ロビーの壁に描かれている「住吉祭の堺渡御」絵巻の街並みを今の堺の町で体験することができる「堺南蛮タウン」があったら面白いな。大仙陵古墳を社会科の教科書に載っていた写真の形そのままに、五稜郭タワーのような「御陵タワー」の展望台から眺めることができたなら古墳を実感できるのになあ。戦国時代を血なまぐさい戦からだけで語るのではなくて、堺商人や戦国大名とやり取りした商いの視点から戦国の世を紹介する「戦国堺商人ミュージアム」があったらめちゃ笑えるのに、とか。きっと経済的にだったり、宮内庁的にだったりする諸事情がてんこ盛りで、なかなかい実現させるのは難しいんだろうな~とは思いますが、例えば、伊勢神宮内宮の周辺は、おかげ横丁でもの凄い賑わいを見せているので、他の町から学ぶべきことも多いのかもしれません。

 

 

予てからの懸案事項であった住ノ江の加賀谷新田会所跡見学をやっと実現することができ、十分に満喫した後、一人、大和川の土手上をテクテクと歩いていると、突然、ボクの目の前を疎らなお客さんを乗せたチンチン電車が横切って行きました。少しよろめきながら鉄錆び色に変色した大和川の鉄橋を渡って行くその姿は、なかなかいい風景です。「と言うことは、この線路が阪堺線で、我孫子道の停留所はこの土手を下った辺りか・・・」。入り組んだ路地を何度もぐるぐる回りながら、何とか我孫子道の停留所に辿り着き、家路に着きました。ボクは、この阪堺線が大好きで、堺、住ノ江、住吉への行き帰りは、多少目的地が離れていてもできるだけ阪堺線を使うようにしています。と言うのも、この路面電車が今も尚天王寺・恵美須町と浜寺公園とつなぐ普通の公共交通機関として現存していること自体が、奇跡に近いと思っているからです。明治36年、現在の西区九条新道交差点横にあった花園町の停留所から西の先、天保山近くの築港桟橋までの営業を開始して以後、市内の交通網を築いて来た大阪市電は、昭和44年い全線が廃止されました。また、大阪市浪速区にあった芦原橋駅と堺市、湊の浜駅とを結んでいた大阪市電阪堺線(三宝線)も昭和19年に開業し、翌年の大空襲で一部区間が運行できなくはなりましたが、その後も営業は続けたのですが、昭和43年に全営業を終えています。こうした様々な歴史の流れの中で、阪堺線が、今も普通に市民の足として営業していて、その車両に普通に乗って堺に行くことが、ボクは嬉しく仕方がありません。8ミリのフィルムカメラを回して、皆で夢中になって映画作りをしていた学生時代の仲間の一人、H本君が、「雨に煙る住吉大社鳥居前。石畳に打ち付ける雨。その溜まりを左右に払い飛ばし、左にカーブを切りながら画面奥から鳥居前に走り寄って来る阪堺線。この風景、ええと思わんか!」。鳥居の前を通り過ぎる時、巻き舌で捲し立てるH本君を思い出しては、ちょっと笑けてしまうボクがいます。実際にこの場で、雨の日の風景を見たことがないので、雨降りの日だったら、今乗っている車両を降りて一本やり過ごしてでも、H本君が話していたその景色を観るのになあ、なんていつも思っています。

 

時代の遺物は、時の移り変わりと共に、ササッと新しいものに入れ替えられたり、ひっそりとボク達の目の前から消え去っていたりします。しかし時に、人の目に届かない街の片隅で、ひっそりと生き残り続けている歴史もあります。そのほとんどは消えて行った物達の残骸の一部で、たいして値打ちのないようなものですから、もはや誰も気にかけたりもしません。そんな世の中から見向きもされなくなった物達だからこそ、ボクがその存在に気付いて、彼らにまつわる昔話にボクが今夢中になっていることを伝えると、とても嬉しそうにしてくれて、誰も知らない秘密を囁いてくれたりします。そして、いつ消え去っても悔いが残らないよう、最後の雄姿を見せてくれたりします。そんな儚くも切ない、でも嬉しさに溢れる“となりのレトロ”を見つけるボクの旅は、まだまだ続きそうです。

 

今回も最後まで稚拙な文書を読んでいただき、ありがとうございます。心から感謝いたします。本文中、歴史の解釈、認識に誤りが多々あるかもしれません。あくまでも個人的な想いを綴ったものとして、どうかご理解、お許しいただけますようお願いいたします。以上、「堺の謎を解明するのだ!」、全編の終了です。