海部堀川を見に行くのだ!の巻 その② | となりのレトロ調査団

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海部堀川を見に行くのだ!の巻 その②

 

1565年、阿波の国の暴れん坊、三好一家により、13代征夷大将軍・足利義輝が殺害されると言うクーデターが起こります。彼らは新たな将軍を担ぎ出し、天下取りを目指しますが、この担ぎ出した14代征夷大将軍・足利義栄が病で死去し、三好一族が最も得意とする身内抗争でいがみ合っている間に、織田信長に擁立された義輝弟・義昭が第15代征夷大将軍に就きます・・・。そんな権力闘争に明け暮れ、もはや幕府としての体を成さなくなっていた、グダグダ状態の室町幕府の末期、とにかく石山本願寺が目障りでならなかった織田信長。生意気な坊主集団をなんとかぶっ潰してやれと、執念を燃やしておりました。約10年間にも及ぶ抗争(石山合戦)に終止符を打つべく、和睦を受け入れた本願寺の顕如と三男の准如らは、1580年、さっさと石山本願寺を明け渡し、和歌山の鷺森別院へ移ります。一方、顕如長男の教如は、「信長だろうが何だろうが、わしら、とことん戦こうたりますで」とばかり、鼻息荒く信長に徹底抗戦の構えを見せ、その後も石山本願寺を占拠するのですが、約五カ月の籠城の末、公家、近衛前久の仲介により、本願寺を明け渡すことになります。一度は顕如がいる鷺森別院へ入った教如でしたが、自分に逆らったことで教如に対し相当頭に来ていた顕如は、結局一度も教如に会おうとせず、ついには教如を絶縁してしまうのです。居場所を失った教如は本願寺を離れ、東海・北陸に居場所を求める流転の生活を余儀なくされます。その最中の1582年6月21日、戦国時代最大のミステリーである“本能寺の変”事件が起きます。信長の死の直後、顕如と教如は後陽成天皇の仲介によって、取り敢えずの和解をし、教如は顕如による義絶を赦免されます。赦免後は、顕如と共に寺に居て、寺務を補佐しておりました。しかし、顕如は内紛の核となった教如を家督の相続者から排除し、三男の准如を嫡子と定めたため、顕如・准如派と教如派との間の溝は益々広がって行きました。

                              石山本願寺の頃の大坂鳥観図

 

室町時代の終わりから信長・秀吉が真の国家統一まであと一歩と迫った安土桃山時代までの間のことを戦国時代と呼びます。「そんなもん、知っとるわ!」とご立腹される方もおられるでしょうけど、歴史的には政権区分と並行する形で、この“戦国時代”と言う呼び方をしています。戦国と言うくらいですから、国中至る所で人と人が戦います。来る日も来る日も、戦と言う大義の下、人をぶった切ります。命が続く限り、ぶった切ります。へとへとになりながらも、今までの秩序とか約束事とか、そんなきれい事はさておいて、とにかくぶった切ります。なぜそうするかって? 人をぶった切ると褒めてもらえて、さらにお金まで貰えちゃうからです。そうしていないと、いつ自分がぶった切られちゃうか判らないからです。すると、争うことに秀でた、腕っぷしの強い奴が民衆の先頭に立ち、権力を手に入れ、世の中を牽引するようになります。こうなるともう、誰に付くか、誰の傘下に入るかで、未来はガラリと変わってしまいます。戦が本望の武士だけでなく、争いごとに縁遠い筈の御公家さんやお坊さんや農家さん、さらには商家さんだって、世の中がこんな時代ですから、同じように闘争心をむき出しに生き残りをかけ、掌返しまくって、生きていかざるを得なくなります。それが戦国時代なのです。いやはや、ノホホ~ンと生きて行くしか能がない、意気地なしには、とてもとても務まりそうもない時代です。「ほんと、生まれて来たのが、今の世の中で良かったにゃ~。へらへらZumbaとかして、遊んでいられるしにゃ~」と思ってしまう人には、生きて行く資格のない、とても厳しい世界なのであります。

 

その後、教如が石山本願寺を明け渡した後に起こった謎の大火で、本願寺は灰と化しますが、秀吉は、その跡地に“三国無双の城”の大坂城を築城します。焼け朽ちた本願寺時代の寺内町を整備し直し、さらにその西の先に商人の町・船場を開発し、大坂の町は、大坂城の城下町としてますます栄えて行きます。一から町を作り上げる公共事業には、並々ならぬお金と技術と時間が必要になります。「それなら一切合切、民間に丸投げじゃ!」と言う手法に味を占めたのか、1585年、秀吉は、現在の天満宮から造幣局辺りまでの場所を直々に検地し、顕如らに広大な土地を与え、この地に本願寺を誘致します。しかしその代償として、本願寺は徹底的に管理下に置かれてしまいます。徐々に人々が住み始め、商店も集まり出します。本願寺を中心にした新しい町が出来上がって行きます。大阪城の北西、大川の向こう岸一帯に本願寺並びに居住地を配置することで、大坂城の北側に外敵からの防衛ラインを構築しようとしたのかどうなのか。何れにせよ、顕如らは時代の変遷に左右され、そして信長や秀吉の思惑に翻弄され、移転を余儀なくされるのですが、天満の地に戻ることで、再び大坂に新たな拠点を作ることができたのです。

 

ところが1589年、ある事件が起きます。羽柴秀吉ご自慢の金ぴか御殿、京都、聚楽第の壁に政道批判の落書きが書かれ、その犯人がなんと、天満町に逃げ込んだと言うのです。結局、その犯人は見つからなかったのですが、頭にきた秀吉は、容疑者隠匿の罪を被せ、65人もの町人、関係者を京都六条河原で磔に処しました。このことをきっかけに、かつての絶大な権力を失った本願寺でしたが、1591年、秀吉は顕如に新しい寺地を与え、本願寺は再び移転せざるを得なくなります。その場所は京都七条堀川。ここは、現在西本願寺がある場所です。顕如は、この新天地での本願寺教団の再興を期しましたが、1592年11月24日、50歳で示寂(じじゃく)します。教如が立派に葬儀の導師を勤めたとの報を聞いた秀吉は、教如にいたく感じ入り、本願寺住職を継職するように勧め、教如が本願寺住職を継ぐことになるのですが、教如は、石山合戦の際、籠城し共に戦った強硬派を重用し、当時顕如らに付いた穏健派を排除し始めます。そのため顕如の妻にして、教如、准如の母である妙春尼は、顕如の遺志を通すべく、准如を跡継ぎにするよう、秀吉に働きかけた結果、10年後に法主の座を弟准如に譲り、教如は退くよう命令が下されるのです。ところが、強硬派が異議を申し立てたため、一発でブチ切れた秀吉は、教如に対して即刻の引退命令を下します。それまでも教如は、本願寺内に御堂と住居を設け、教如派門徒達は本願寺を差し置いて、教如の堂を参詣しており、教如自身は独自に法主としての活動を続けておりましたので、この頃から本願寺内部はすでに分裂していたということになります。同年、教如は西成郡渡辺の地に一寺を建立します。1598年、長年の思いを実現させ、難波の地に念願の御堂を建てるのです。この御堂が、現在の真宗大谷派難波別院。南御堂とも呼ばれています。この渡辺という場所、元々は、天満橋と天神橋の間にあった大川の港、渡辺津が由来で、船場開発時の町割改革により、町名も移されたそうです。実は現在も町名に残っていて、その町名は、「大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺」。4丁目渡辺3には、坐摩(いかすり・ざま)神社があります。宮司さんも渡辺さんと言うそうです。この地は、全国津々浦々に居られる渡辺姓の発祥の地でもあるとのことです。

 

顕如が15歳で結婚した妙春尼と言う人は、実は公家・三条公頼の娘でした。また、顕如は同じく公家の九条家の猶子となり、僧でありながら公家との強い結び付きを持っていました。この繋がりにより、本願寺はますます力を強めて行ったのです。信長との仲介に朝廷が介入したのも、公家との結びつきがなせる業だったのでしょう。本願寺が京都へ移転した後、大坂の門徒たちは天満本願寺があった場所の対岸、天満橋南詰、八軒屋浜(京阪電車天満橋駅付近)に集会所を設けるのですが、こちらも町割改革により、当時“津村郷”と呼ばれていた地に移転することになります。これが“津村御坊”、つまり現在、本願寺津村別院と言われている、北御堂です。この二つの御堂が故に、その前の通りを御堂筋と呼ぶようになりました。江戸時代から御堂筋と呼ばれていたそうです。現在、行政上は、国道176号線の一部と言うことになっているのだそうです。

                  南御堂                   北御堂   

 

教如は、以前より利休に近く、反利休派とも言われていた石田三成らに再三、目を付けられていたようですが、1598年秀吉が没した後は、徳川家康を頼ることも多くなります。1602年、後陽成天皇の勅許を背景に家康より京都七条烏丸に寺領が寄進され、七条堀川の本願寺の一角にあった堂舎を移します。1603年、上野国厩橋(現・群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、寄進を受けたこの地で東本願寺、つまりは真宗大谷派が成立するのです。その場所は、西本願寺から東へ400mほどの場所でした。こうして、本願寺は准如を支持する浄土真宗本願寺派(西本願寺)と教如を支持する真宗大谷派(東本願寺)に事実上の分裂となるのです。かつて、信長に徹底抵抗した教如に対して、家康は西本願寺に匹敵する寺領を与えました。秀吉だって、ブチ切れたとは言え、本願寺そのものを取り壊すことまではしませんでした。そうそう、教如の妻は、信長によって自害に追い込まれた、越前国の戦国大名、朝倉義景の娘、三位殿。その後、朝倉家は滅亡してしまうので、信長に対する恨みつらみは半端なかったことでしょう。この朝倉家に仕えていたのが明智光秀。その後、朝倉家に身を寄せ居ていた足利義明を信長に引き合わせたことで、信長の信頼を得、信長軍の重臣となります。本能寺の変で、嫌疑をかけられた近衛前久は、事件直後、家康を頼り浜松城に身を隠したそうです。もしその時、首謀者とされる明智光秀だけ命が保証され、生きて行動を共にしていたとしたら・・・近い内にやります。これ!

     大坂夏の陣 屏風絵

 

市場の話がどこへ行ってしまったのやら・・・もう少しの辛抱です。秀吉の死後、大坂がどうなったかと言うと、その後も秀吉パパの威光を笠に着て、母淀殿に叱咤激励されながら、なんとか天下人の地位を保持してきた秀頼でしたが、関ケ原の戦い以降、実権を握った家康により、摂津・河内・和泉65万7,000石の一大名に押し込められてしまいました。秀頼のこの15年間を大坂藩と解釈できなくもないのですが、正式には、夏の陣の後、家康の外孫で養子になった松平忠明が、伊勢亀山藩より入封し、大和郡山藩へ移封するまでの4年間(1615~1619)が大坂藩と言うことになります。忠明は、戦で荒れ果てた大坂の都市計画を断行します。京都・伏見町の町人を大坂へ移住させ、寺院や墓地の移転廃合を行い、さらに町割りを施行し、新たに区画整理を行います。京町堀川・江戸堀川・道頓堀川の開削もこの時代に行われます。これらの堀により、西横堀川から西の下船場(西船場)と船場の南・島之内は、劇的な発展を遂げました。忠明が移封した後、大坂藩は廃藩となり、幕府の天領となります。その後も歴代大坂城代の下、阿波堀川・海部堀川・長堀川・立売堀川・薩摩堀川・安治川・堀江川・難波入堀川・高津入堀川などがつぎつぎと開削されて行きます。そして、「大坂三郷」が成立することになります。大坂三郷とは、地域区分で、天満組(天満)、北組(船場の北半)、南組(船場の南半と島之内)を指します。大坂城も秀吉時代の城を埋めて、その上に新しく、徳川家による、徳川家のための新大坂城を再築します。工事は松平忠明転封後の1620年より始められ、1628年頃に完成します。これは江戸城と同様、諸大名に労働力を軍役として徴発する“天下普請”で行われ、秀吉の大坂城のおよそ2倍の規模を目指した、大がかりなものでした。こうした工事が、さらに大坂の市街化に拍車をかけたことは想像に難くありません。

                     今ある堀川、埋められて今はもうない堀川マップ

 

城への重要な通路である北の玄関口・京橋橋詰辺りに、新たに大坂町奉行所の関連施設を建設。さらに京橋から城までの街道を整備しなければならないなどの理由で、本願寺以来ここら辺り一帯(中央区大手前1丁目付近)で商いをしてきた青物市場も撤去を余儀なくされます。やっと、青物市場の話が始まります。一度は代替地の京橋片原町(都島区片町1丁目付近)に移転するのですが、大川を渡った向こう側では、どうにも場所的に不便であったようで、青物市場は一時途絶えます。豊臣家と徳川家の争いにけりが付き、大坂の町が復興に向け動き出した1616年、天満宮の南の堂島川沿い、船輸送にとても便の良い天神橋北詰め辺り(現在、南天満公園)に青物市場は移転することになります。米市場で弾みをつけた淀屋二代目の言當が、この大きな商権を見過ごすはずもなく、淀屋所有の広大な敷地内に青物市場を誘致したのです。その後、新市の開設を求める運動が何度か起こったそうなのですが、力ずくで全て退けられてしまいます。1772年、幕府により株仲間の開設が公認されます。この時も天満市場の問屋独占は強力で、新市を認めないばかりか、市場内の立ち売りの禁止、直売買の禁止も公認されていたそうです。

 

しかし、1798年に近郊26村の市場内の立ち売りが解禁されます。また青物を供給する農村は、大阪城下の南郊に位置する西成郡吉右衛門肝煎地・西高津村・難波村・木津村・今宮村・勝間村・中在家村・今在家村の畑場八ヶ村と呼ばれる村々が中心だったのですが、天満から遠く離れた畑場八ヶ村の生産者にとって、天満の青物市場へ荷を運び込むのには何かと面倒なことが多く、天満青物市場とは諍いが絶えなかったそうなのです。そうした事情もあり、実は1710年頃から難波の大国神社辺りでは、青物を持ち寄り路肩で販売する、非公認の野立売りが始まっていたそうで、1809年には13品目に限って市場の開設が認められ、1810年には時の大坂代官の斡旋により官許されます。それからずっと後、1913年(大正2年)には、難波青物市場と木津魚市場が合併し、木津難波魚青物市場と呼ばれるようになります。これが今も難波で営業している木津卸売市場のルーツです。天満の青物市場は、昭和6年に大阪中央卸売市場に統合されます。では木津の市場も同時期に統合されたのかと言うと、実はそうではなく、本来、“中央卸売市場は一都市一市場が原則”と定められていたので、他の30箇所余りの市場は閉鎖され、中央卸売市場に統合されて行ったのですが、木津市場は頑としてこれを受け入れず、統合を拒否します。国レベルの存続運動を展開した結果、大阪中央市場の木津給配所として生き残ることになります。運営は独自で行うことで決着がついたそうなのです。木津卸売市場は、今でも青物と鮮魚を扱う、国内最大規模の民間卸売市場として営業を続けています。


              木津卸売市場               大阪中央卸売市場  

 

「となりのレトロ調査団」海部堀川を見に行くのだ!の巻は、その③に続きます。