海部堀川を見に行くのだ!の巻 その① | となりのレトロ調査団

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海部堀川を見に行くのだ!の巻 その①


以前このブログで「淀屋さん」を書かせていただいたことがありました。ボク達がいつも何気なく通り過ぎている、大阪地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅は、その上を流れる土佐堀川に架かる橋、淀屋橋がその名前の由来と言われていますから、「この辺りに、淀屋さんちゅうのが、あったらしいねんて」と言うのが、一般的な大阪人の淀屋に関する認識だと思うのですが、「淀屋さんて、何をした人達なん?」と尋ねられても、はて? ボク達は、この淀屋について、実はな~んにも知らないことに気付くのです。例え知らなかったとしても、日常生活に何か支障が生じる、と言う訳でもないので、よほど大阪の歴史に興味がある人以外には、正直、“淀屋の真実”なんてどうでもいいことなのですが、同じ江戸時代に生業を起こし、やがて大店として成長した鴻池や住友、そして加島屋などは、現代にも名家としてその名を残しておられます。にもかかわらず、淀屋はと言うと、橋の名に屋号が残っているくらいのもので、何故これだけの差ができちゃったんだろ、そこはむちゃくちゃ気になってしまうのです。その答えを求めるとなると、やはり“淀屋の真実”に手を付けざるを得ない。江戸時代のある時期、忽然と姿を消した淀屋。考えれば考えるほど、淀屋に取り憑かれてしまい、頭の中は朝から晩まで淀屋で一杯になってしまう。

「Kちゃんって、ほんまに単細胞なんやから!」。

「そんな、人をアメーバみたいに・・・」

大昔、同じクラスの女子に言われた言葉をふと思い出した。そう言えば、そんなフレーズ、あったあった。なんか懐かしいなと、一人ニヤニヤしていたら、ふとあることが頭を過った。ちっと待った。これってもしかすると、ボクの先祖が淀屋に金の都合を付けてもらい、その後期日になっても返済の目途が立たず、夜逃げ同然にバックれてしまった、寛永二十年の“あの出来事”の祟りなんじゃないだろうか、と。これはもう疑う余地もなく、我が先祖の粗相と言えど、時空を遡れるものなら300年の時を超え、淀屋の貸付窓口へ出向いて、元金にきっちり当時の利子を乗せて、横柄極まりない淀屋の番頭の目の前に一文残らず叩き付けてやれば、この悪夢からもきっと解放されるだろう。しかし、後悔と言うものはいつだって先には立たず、なんと300年のタイムラグを経て、子孫のボクに伸し掛かってきたわけです。これも何かの因縁なのでしょうか。なんとかダンブルドアに会って、ハーマイオニーに貸した逆転時計をボクにも貸してもらうとか、マーティが草むらに隠したままのデロリアンを見つけ出すとか、理科の実験室でラベンダーの香りにフラフラ~っとなるとか・・・我が人生で知る限りのタイムトラベルの方法を試してみようにも、さて? ダンブルドアはどこにいるのやら、デロリアンの隠し場所も見当がつかず、トイレに入った時に芳香剤のラベンダー臭にムッとなるのが関の山で、もはやどうにもならない。ならば、新型淀屋ウイルス感染症熱にうなされながら、どっぷり“淀屋な”日々を過ごしてやれ!と、開きに開き直って、思いつく疑問やそそられる興味をボクなりの視点で、あれこれとブログに書かせていただいたのでありますが、いろいろ調べている過程で、「これ、淀屋の仕事の筈なのになんで屋号が表に出てないんだろ!」と思うことが度々ありました。淀屋は、江戸時代初期に革新的な商売の手法や仕組み、そして多くの功績を残しました。にもかかわらず、これはボクだけが感じることなのかもしれませんが、実績を紹介する資料の中で、何故か歯切れの悪さを感じてしまうことがあるのです。淀屋の名前が表立って紹介されるのは、“米市場”を紹介する時ぐらい。それ以外の功績に関しては上手にフィルターがかけられている気がしてならないのです。その理由が何かと言うと、やはり“闕所”が影響していると思うのです。つまり、「ことの経緯はさておき、度を超えた贅沢三昧の罪を咎められ、時の政権・徳川幕府から闕所と言う処分を命じられた以上、淀屋一族は犯罪者集団である」と。お咎めを受けたのは確かに事実であり、あの時から三百数十年の時が経ようとも、過去に犯した罪は消えることはなく、どれほど淀屋が江戸初期の大坂の町で輝かしい実績を残そうとも、今も尚、“闕所処分を受けた”という事実が淀屋の歴史に暗い影を落としていることは明白なのです。その陰の部分が、常に陽の当たる道を歩んで来た、鴻池家や住友家、三井家、加島屋家などとの大きな違いで、もしかすると、淀屋だけが、全ての負の部分、罪を背負わされてしまったのではないかと勘繰ってしまいたくなります。

 

以前書かせていただいた淀屋の記事の中で、「淀屋は、大坂で三つの市場を差配していた」と言うことを書きました。その三つの市場とは、「“米市場”、“青物市場”、そして“雑喉場(ざこば)市場”である」と。ところが、この“雑喉場市場”と言うのが、どうも間違いであったようなのです。淀屋が関わっていたのは雑喉場市場ではなく、別の市場であったようなのです。「そんな細かい事、どーでもエエやん。誰もこんなブログ、読んでへんで!」と悪態をつく自分と、「いやいや、文章として残る以上、ちゃんと訂正しておかないとダメでしょう」と正論を述べる自分との葛藤がありました。思案の末、淀屋さん関連の追記も兼ね、その間違いを改めさせていただきながら、さらに淀屋に縁の深い“海部堀川”、そして海産物問屋の発祥の地でもある“天満堀川”を紹介しようと思うに至りました。実は、この後も「となりのレトロ調査団~大阪の街を行く!」では、まだまだ書きたいことがたくさんありまして、ボクの前に立ちはだかるこのモヤモヤとした“淀屋問題”をクリアしないことには、どうにもこうにも前に進むことができないので、今回はこの間違いを訂正しながら、サラっと手短に淀屋さんが大坂で関わった三つの市場をご紹介して行きたいと思います。

 

大坂夏の陣の際、淀屋常安、言當親子は、徳川方に陣屋や食料を提供するなどの便宜を図りました。さらに淀屋親子は、戦が終わり、荒廃した大坂の復興に努めた、初代にして最後の大阪藩主・松平忠明に対し、町中に放置された武具や死体の処理を買って出ます。武具の回収でそれなりの利益を手にした淀屋は、当時まだ大川の中洲に過ぎなかった中之島の開発許可を得て、淀屋の拠点を造り上げます。やがて土佐堀川に面した店先の浜で米市を開くようになります。以降、米市場は淀屋の独壇場となります。1620年代、全国の米の収穫高は約2,700万石有り、その内500万石が市場で取引されておりました。なんとその4割の200万石が大坂で取引されていたと言われています。1石=10斗=100升=1000合。1合は約180gなので、1石は約180㎏。現在の米1㎏の平均価格を360円とすると、1石は約64,800円、200万石は1,296億円、約1,300億円ということになります。これだけの市場を淀屋が仕切っていたのなら、そこから発生する手数料収入だけでも、相当な金額が淀屋に落ちて行った筈なのです。市に集まる米を貯蔵するため、諸藩や米商人の蔵屋敷が中之島には135棟も立ち並んでいたそうです。中之島は、元々、淀屋が造成から開発したビジネスパーク。上物の請負い、地代賃料なども合わせると、とてつもない収益が淀屋に集中したのは間違いありません。1600年代の後半には、淀屋は米市場から上がる利益を元に、様々な商いに手を伸ばし、空前の発展を遂げます。こうして大坂有数の大店へと成長し、名実ともに豪商としての地位を得ることになります。言當亡き後、淀屋を牽引していたであろう、言當の娘にして、三代目箇斎の妻であり、四代目重當の母、妙恵が1697年にこの世を去ります。追いかけるようにして重當も亡くなってしまいます。重當の息子、廣當が若干18歳で五代目として家督を継ぐのがその5年後の1702年なのですが、祖母妙恵と父重當が亡くなった1697年、偶然かどうか判りませんが、米市場は淀屋の店先の土佐堀川の浜(現在の淀屋橋南詰め)から淀屋橋、大江橋を渡った川向う、堂島川沿い(現在のANAクラウンプラザホテル辺り)に移されることになります。廣當が家督を継ぐまでのこの空白の期間、淀屋にいったい何が有ったのでしょうか・・・。

 

事態は思いもよらぬ方向へ進んで行くのです。妙恵、重當の生前、淀屋では、幕府内に張り巡らされた情報網から、近い将来、闕所のお達しが下されるであろうという動きを早い段階で入手していたようで、番頭牧田の出身地、鳥取の倉吉に淀屋の暖簾分けをしておりました。廣當が家督を継いだその3年後の1705年、危惧していた通り、幕府から闕所の処分を受けます。全ての財産は没収され、大坂三郷所払い、諸藩への大名貸金は全て無きものとされます。本当に本当に、淀屋は贅沢三昧の限りを尽くしたのか。あまりに短期間の内に豪商と呼ばれる地位についたが故に、淀屋は見せしめとして取り潰されてしまったのか。諸藩への大名貸があまりに膨れ過ぎたため、諸藩救済のため、幕府による“淀屋潰し”の陰謀が実行されたのか。その辺りの事は何一つ定かではないのですが、淀屋が大坂の町から忽然と姿を消したのは紛れもない事実で、岡本三郎右衛門こと淀屋初代当主、常安が京都八幡の淀の津を出て、大坂十三人町(現在の大阪市中央区北浜四丁目辺り)に材木商、淀屋を構えてから約100年。真面さと強かさと知恵を武器に伸し上り、築き上げてた輝かしき栄光の歴史は、跡形もなくもみ消されてしまうのです。では、それまで淀屋が独占していた市場、商権がどうなったのかと言うと、何事も無かったかのように別の店、別の人の手へと渡り、何事もなかったかのように継承されて行きました。1730年、堂島米市場は八代将軍・徳川吉宗の命により、幕府公認の堂島米会所となります。明治時代に大阪堂島米穀取引所と改組されますが、昭和14年、米穀配給統制法により廃止され、歴史から完全に姿を消します。これが米市場の歴史です。

 

では、大坂の町の成り立ち、大坂がいったいどのように出来て行ったのかを考えてみたと思います。そのルーツは、石山本願寺と言われています。今、大阪城が建っている辺りには、元々、石山本願寺という巨大なお寺さんがありました。本願寺を中心とした寺内町と言われる形態の町だったそうです。当時の本願寺は、各地で一揆を引き起こしていた、一向宗と呼ばれる強靭な武力集団でもありました。お経を唱えるお坊さん⇒静寂に包まれたお寺⇒エッ、武装集団? この図式、なかなか理解し難いものがありますが、映画で観た「少林寺」の修行僧みたいな感じかな、そんなのをイメージしたのですが、実際は全然違っていて、平安時代からすでに有力寺院には、武装した僧侶、僧兵がいて、寺院同志の争いや盗賊などからの護衛、今で言う対テロ対策のために常時配置していたようなのですが、有力寺院はこの武力、兵力をちらつかせ、朝廷や摂関家に対して強硬姿勢を取るようになります。つまりは、脅しをかける訳です。権力者の側からすると、“この世の中で思い通りに行かない事ベスト3”にランクインする程、厄介な存在であったようです。先ほど、本願寺を中心とした寺内町の形態と言いましたが、それがどういうものかと言うと、参詣する人々を目当てに、お寺の門前に商業地が出来ていくような門前町とは違っていて、濠や土塁で囲まれたエリアの内側に、門徒や商工業者などが集まり住み、その広大な敷地(境内)の中に人々の生活圏が形成された町のことで、当然そこで暮らす人々のために、敷地内には、青物、魚、衣類、その他日用品など、それぞれの品を専門に取りまとめて扱う拠点が設けられ、そこから商店や露店商などへの卸ルートができ、一般の人々の手に届くまでの物流が確立して行きます。その他、人々が暮らす上で必要な機能が充実して行くことで、町が形成されるようになります。領主や支配者に従わず、各地で一向一揆を起こし、あたかも一つの国であるかのような宗教自治区を作り上げ、勢力を広げる本願寺教団が目障りでならなかった人物がおりました。それが誰かと言うと、誰もが知っているあの方、織田信長です。

 

「となりのレトロ調査団」海部堀川を見に行くのだ!の巻は、その②に続きます。