知ってるようで知らない“西宮ほにゃらら園”の謎その② | となりのレトロ調査団

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関西を中心に、身近にあるレトロな風景を徹底的に調査します。

第5回内国勧業博覧から4年後の明治40年。香野と櫨山の二人が動きました。あの日、会場で、又右衛門に話していた通り。明治38年、阪神電鉄が大阪(出入橋)~神戸(三宮)の営業を開業。その2年後、二人は、西宮・夙川西岸(現在の羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町周辺)の8万坪の敷地に、ウォーターシュート(船滑り)、メリーゴーランド、動物園、奏楽堂、博物館、ホテルを有する総合レジャー施設を作り上げるのです。二人の名を取って付けられた名は、櫨野園ではなく、香櫨園。その年、当初から経営参加の意向を示していた阪神電鉄も打出~西宮間に同名の香櫨園駅を開業。駅から遊園地までの約600m、徒歩10分ほどの道のりは、人で溢れたと言います。実は、明治7年に官設鉄道(現在のJR)が大阪~神戸間の営業を開始し、明治10年には、すでに西宮駅もできていましたので、西宮駅から約1.6㎞を歩いて来園する人もいたでしょうから、この界隈は相当な賑わいだったと思われます。香櫨園がオープンした明治40年、阪神電鉄は集客のために、もう一つ、仕掛けを用意しておりました。新たに開設されたのは、香櫨園海水浴場でした。以前からあった打出浜海水浴場の砂浜が海水浴場には適さなかったこともあり、このタイミングで海水浴場を香櫨園浜に移転させたのです。さらに、明治43年、国内初となる日米野球用の球場が必要になり、主催の大阪毎日新聞社が阪神電鉄に野球用グランドの建設を要請。当時、阪神電鉄の技術長であった三崎省三が担当し、自転車競技会や運動会、模型飛行機大会などを催していた広場に、なんと2週間という短期間で、グランドを急造したのだそうです。当時、アメリカ最強と言われていたシカゴ大と早稲田大学野球部の試合を3日間行い、結果は日本の完敗だったそうですが、開催前夜は、提灯行列、花火、楽団演奏があり、相当な盛り上がりを見せ、この時、香櫨園は絶頂期を迎えていたのでありました。

香櫨園が開業し、3年の月日が経った明治43年、大阪で莫大小(メリヤス、ニットのこと)商として財を成した実業家、中村伊三郎は、仕事先の神戸から大阪に戻る車の中で、同乗していた外国人の言葉に耳を傾けていました。行く手、左側の車窓に広がる六甲の景色を見ながら、

 

外人「ナカムラサン、アノ、マウンテンサイド、ナイスビューデス。イエ、タテル、イイヨ」

 

中村「あんな人里離れた山の中に住みたい人、いてますかな」

 

外人「ウミ、ミオロストコロ、イエタテル。オカネ、ガッポガッポヨ」

 

中村「なるほど。大阪湾を眼下に、優雅な別荘暮らしの提案。これはエエ話を聞きました」

 

外人「ナカムラサン、『イヌモアルケバ、ボウニアタル』、コノコトダネ」

 

中村「誰が、犬でんねん。失礼な。こういう時は、『案ずるより、産むが易し』ですわ!」

 

その言葉に触発された中村は、あることを決意したのです。メリヤス業で得た資産を元に、次なる事業展開を模索していた中村は、予てから構想の新事業に乗り出します。それはこの六甲山系の麓に土地を取得し、不動産開発を始めることでありました。明治44年、以前から目を付けていた西宮・大社村周辺の土地を購入し、別荘地としての開発に取り掛かります。大正2年、兵庫県知事の命で派遣された技術者が、天狗嶽にラジウム泉源を発見し、この場所はさらに人々の注目を浴びることになりました。中村の読みは当たりました。大正3年に苦楽園として山開きを行いました。中村の広い人脈から、政財界のそうそうたる面々が土地を購入し、別荘を建てました。物理学者の湯川秀樹もここの住人であったと言います。苦楽園ラジウム温泉を中心に、別荘の他、大観楼、松雲楼、長春楼、萬象館、六甲ホテルと言った旅館、ホテルが建ち並び、山上プールや運動場もあったと言いますから、中村が思い描いた通り、阪神間のセレブ達が集う高級リゾート地として認知されて行きました。しかし、この頃の最寄りの駅と言えば、まだ阪神香櫨園駅でしたので、アクセスは決して良いとは言えませんでした。阪神急行電鉄の神戸線が開通して、夙川駅ができるのは、大正9年。夙川駅から甲陽園線が開業し、苦楽園口駅が設けられるのは、大正13年まで待たなくてはなりません。因みに、苦楽園という名の由来は、中村家が家宝として所有していた“苦楽瓢”から来ているそうで、文久3年、尊王攘夷派の七人の公家が京都から追放され、長州藩に落ち延びた、七卿落ちの際、三条実美卿らが別れの盃を交わした際に注がれた瓢箪がそれで、『人生苦あれば、楽あり』の意が込められているそうです。

人の心というのは、いつの世も移り行くもので、例えば、ウチの近所の商店街では、最近できた焼鳥店、「焼き鳥のヒナタ」のテイクアウト用唐揚げが超人気で、皆な、並んで買い求めていたのですが、さすがに2か月も過ぎると、子供達は、頻繁に食卓に現れる唐揚げには飽きてきていて、夕食のおかずに買って帰っても、「お母さん、また唐揚げ~?」などと、悪態をついたりするのでした。「あんなに喜んで唐揚げをほうばっていたのに! こんな嫌味を言われるのなら、もう二度と、唐揚げは食卓に出してあげないからね!」。お母さんは、ブチ切れちゃうのであります。そんな矢先、同じ商店街の20mくらい離れた場所に、『テリー伊藤のから揚げの天才』店がオープンしちゃったりすると、つい2~3週間前に、世界中の唐揚げと言う唐揚げを敵に回し、「もう二度と、唐揚げは出さない!」と、一方的に絶縁状を叩きつけたにもかかわらず、お母さんは、「久しぶりに、唐揚げ買って帰るの、いいかも💛」なんて、小躍りして、家路についちゃったりします。子供達は、子供達で、「テリーさんの唐揚だから。唐揚げであって、唐揚げでない。これは別物だよね~」などと、自分達を正当化する言い訳まで、ちゃんと用意していたりするのです。近所のママ友にも、「テリーさんの唐揚げ、美味しいわよ~。玉子焼きもお店で焼いていて、絶品なんだから~」。もはや、お母さんは、完全にテリーさんとこの宣伝カー状態になってしまい、あちこちで、天才唐揚げを絶賛しまくっちゃうのでした。しかし、唐揚げを頻繁に食することで、体内に酸化した油が大量に取り込まれ、血管に炎症が生じ、動脈硬化や心疾患を引き起こしやすい体質になってしまうという、背中合わせのマイナス要因があるにもかかわらず、なのであります。「香櫨園? もう飽きちゃった~ん。遊園地なんて、どこも同じだしぃ、もう二度と行かな~ぃ」。人々の心が離れて行ったその結果、香櫨園は閉園に追い込まれてしまいます。ところが、目の前に苦楽園をぶら下げられた途端、たちまち心はメロメロになってしまいます。「苦楽園と苦楽を共にしちゃうんだから~💛」とばかりに、人々はイノシシや猿が駆け回る、さらに山奥の辺鄙な場所へと、こぞって押し寄せ、散財の毎日を送ってしまうのであります。

 

大正3年の苦楽園の山開きを待たずに、香櫨園は、大正2年に幕を閉じます。6年間の営業でした。土地は、英国総合商会の日本法人サミュエル商会から大正信託の本庄京三郎へと渡り、さらに、大阪の質屋、釜屋、漆屋などの商家が中心となって設立された大神中央土地という会社に売却され、高級住宅街としての開発が行われて行きます。その後、香野氏がどうなったのか、知る術はありません。サミュエル商会に売った売却益で、悠々自適の暮らしを送っていたのか、あるいは、買い叩かれて、大きな負債を負ったのか、全く以て、不明です。どこかで飄々と、そして強かに、生き抜いていそうな気がします。いや、生き抜いていて欲しいと願います。その後、阪神急行神戸線が開業し、夙川駅ができるのは、大正9年のこと。夙川駅からの支線、甲陽線が開業したのは、大正13年ですから、苦楽園が山開きした大正3年当時、最寄り駅は、まだ阪神香櫨園駅でした。駅前は苦楽園へお客を運ぶ人力車、乗合馬車がひしめき合い、夙川から分岐する中新田川の堤沿いの道は、行き交う乗合馬車のラッパの音や車夫の掛け声が鳴り響いたと言います。苦楽園が盛り上がれば盛り上がるほど、流行り病の熱から解き放たれた香櫨園周辺の地域は、宅地開発化に拍車がかかります。街に人々の日常が根付いて行けば行くほど、かつてこの場所に広大な遊園地があったことなど、人々の記憶からも薄れて行きます。今やその面影すら残っておりません。夙川駅の南、川のすぐ西側にある片鉾池が、当時ウォーターシュートを設置していた内澱池と呼ばれていた池だそうです。現在は、池の畔に公民館がひっそりと佇んでおります。

 

栄枯盛衰。栄えるものがあれば、朽ちていくものがあります。世の中は常に移り行くものです。閉鎖された香櫨園内にあった博物館と奏楽堂は、阪神電鉄が運営していた香櫨園海水浴場の砲台跡に移設されることになりました。この部分が、ボクがかろうじて知っていた香櫨園についての知識の断片で、香櫨園浜に香櫨園があったのはなく、香櫨園の施設の一部が香櫨園海水浴場に移転されただけの話でした。そして、今も同じ場所に、フェンスに囲われ、砲台跡はありました。担うべき砲台としての任務をはく奪され、どこか所在無げに見えました。人が立ち入らないよう、フェンスが張り巡らされているのでしょうが、どこかへ逃げ出してしまいそうな砲台をこの場所に留まらせておくためのフェンスように、ボクの目には映りました。NARUTOの中に潜む九尾を繋ぎ止めている鎖のように、切ろうと思えばいつでも切れる鎖。その気になればいつでもぶっ壊せそうなおもちゃのようなフェンスの中で、歴史の証人としての大役を命じられたにもかかわらず、大して歴史を語れない己が運命を恥じ、しかし行く当てもなく、じっと一人、ここに留まっているかように見えてしまうのは、ボクだけでしょうか。

そして、一人冷静に、激動の明治~大正を見つめていた男がいます。芝川又右衛門です。自身の会社、大阪殖林合資会社が管理していた甲東園の広大な土地は、その後どうなったのでしょう。宅地販売のための集客を目論んで、何らか施設を造ったのでしょうか。とても気になるところですが、又右衛門は、明治44年、園内に自身の別荘を建て、この地を関西財界の交流の場としました。さらに、大正11年には、阪神急行電鉄、西宝線(今の宝塚線)の開業時に、小林一三の要請により、自身の土地1万坪と開発資金を提供することで、小林駅(おばやしえき)~門戸厄神駅の間に甲東園駅が開業しました。昭和4年(1929年)には、又右衛門が土地の取得に尽力し、小林一三に売却する事で用地を確保した関西学院が、原田の森(現、王子公園駅周辺)のキャンパスを引き払い、上ヶ原に移転してきました。こうして、芝川家は、持っていた広大な甲東村の土地に、人々を集めるためのレジャー施設など建設することなく、不動産土地開発事業のみに邁進していきました。先代又右衛門は、興した唐物商の百足屋から、通称、百又と呼ばれておりました。ボクは、学生時代、阪急梅田駅のすぐ横に建つ、三番街シネマという映画館でアルバイトをしていたのですが、その映画館がテナントで入っていたビルの名前が、百又ビル。そうなのです。芝川家系列の会社、百又が所有するビルの一つであったのです。因みに、明治44年、関西経済界の交流のために建てられた甲東園の別荘は、愛知県の明治村に移設され、現在も一般公開されているそうです。さらに、大阪のレトロ建築と言うと必ず紹介される、大阪・伏見町の『芝川ビルディング』は、四代目当主、又四郎が、大正12年の関東大震災を教訓にして、防火性、耐震性に優れた建物を造りたいと、昭和2年に建てた建築物で、現在もテナントビルとして、現役の姿を見ることができます。さらに、NHK連続テレビ小説「マッサン」に出てくる、マッサン夫妻が家賃を払えなくなり、直談判しに行く、帝塚山の大邸宅に住む家主、野々村茂のモデルは、芝川又四郎と言われていて、竹鶴政孝が大日本果汁株式会社(後のニッカウヰスキー)を設立する際の出資者の一人として、竹鶴を支援した人物でもあります。

このように、西宮周辺にある、七つの“ほにゃらら園”の内、甲東園、香櫨園、苦楽園、三か所の謎が解けました。しかし、まだあと四か所、残っています。

話は、まだまだ続きます。引き続き、「知っているようで実は知らない“ほにゃらら園”の謎!」その③もお楽しみください。その③に続く・・・