知ってるようで知らない“西宮ほにゃらら園”の謎その③  | となりのレトロ調査団

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関西を中心に、身近にあるレトロな風景を徹底的に調査します。

前々回、前回の「知っているようで知らない“ほにゃらら園”の謎」その①、その②で、西宮周辺にある、七つの“ほにゃらら園”の内、甲東園、香櫨園、苦楽園、三か所の謎が解けました。明治40年、鳴り物入りで開業した香櫨園。思いのほか短命で、大正2年には閉鎖されてしまいます。土地の権利は、いくつかの会社を経由して、大神中央土地株式会社のものとなります。すると、一気に不動産開発に拍車がかかり、現在の姿、“高級住宅地・夙川”の基礎が出来上がりました。入れ替わるようにして、大正3年、さらに北西方向へ2.5㎞ほど行った山の中腹に、こぢんまりとした温泉街が誕生します。苦楽園と名付けられ、別荘が建ち並ぶ、高級リゾート地へと変貌を遂げました。苦楽園から甲山の裾野を東へ4㎞ほど行くとそこが甲東村です。当時、甲東園は相変わらず、広大な果樹園としての姿を残したままでしたが、温泉や遊園地や劇場や滝をこしらえることなく、学校や病院を誘致し、住宅地への開発が進んで行きました。では、この当時の大阪の様子はどうだったのでしょう。

 

明治36年、天王寺村において、第5回内国勧業博覧会が開催され、初めて体験する国際的な博覧会に、大阪は沸き返ります。昭和45年に大阪・千里丘で開かれた万国博覧会は、183日間の開催期間中、6,422万人の来場者があったとされていますから、さすがにこの数字には到底敵いませんが、ドキドキワクワク指数で比較したら、決して引けを取らない盛り上がりだったのかも知れません。会場跡地の東側は天王寺公園として整備され、西側部分には、新世界ルナパークが建設されました。明治45年のことです。ルナパークは、大正12年に幕を閉じることになるのですが、新世界は、その後も歓楽街としての役割を担う運命を背負わされ、“ちょっとヤバい場所”の称号も得て、現在に至っています。日本中から、いえ、インバウンド華やかしき頃は、中国、韓国、その他諸外国から大挙してお客様が訪れ、今では大阪有数の観光地として認められていますが、かつてここが、ほんとに危険な地域であったことは、関西人なら誰でも知っている事実です。大正2年、その新世界に噴泉温泉(新世界ラジウム温泉)ができ、営業を始めます。同年、堺・大浜にも阪堺電気軌道が大浜潮湯の営業を始めました。大正3年、みなと通りの先端、大桟橋近くに、築港大潮湯もできました。大正の初め、大阪湾岸地域に残っていた、まだ手付かずの広大な湿地帯は、市岡土地株式会社、安治川土地株式会社、北港土地株式会社、政岡土地合資会社、そして芝川又右衛門率いる千島土地株式会社などの会社によって開発が進められ、大阪の工業化に伴い、都市化はさらに進んでいきました。大正12年に起きた関東大震災も影響し、一時、大阪は東京の人口を抜き、日本一の大都市になりました。大大阪時代とは、この頃のことを言います。大阪北部では、明治45年、京阪電車が菊人形展を中心にした遊園地、ひらかたパークを開業します。現存する遊園地としては、最古の遊園地とされています。

明治44年、箕面有馬電気軌道(今の阪急電鉄)が、乗客誘致のため武庫川左岸に宝塚新温泉を開業します。翌年、閉鎖中の室内プール・パラダイスにて、宝塚少女歌劇の公演をスタート。空前の宝塚ブームが巻き起こります。本来、有馬まで繋げる構想であった路線でしたが、地形的な問題とそれに掛かる莫大な費用がネックになり、敷設を断念。但し、大阪から中山観音、清荒神を参詣できる電車というコンセプトは実現できたことで、ひとまずはこの宝塚まで。宝塚より先は、福地山線にお任せすることとなります。大正7年、箕面有馬電気軌道は、阪神急行電鉄と名前を変更。翌年には、宝塚音楽歌劇学校創設。9年には、念願の神戸線、伊丹線が開業。大正10年、西宝線(現在の今津線の一部)が開業し、宝塚と神戸線・西宮北口がつながりました。大正13年には、甲陽線が開業し、苦楽園口駅、甲陽園駅が誕生しました。現在、阪急が発行している沿線情報誌に『TOKK』というフリーペーパーがあります。この名称、宝塚、大阪、神戸、京都、それぞれの頭文字を取ったもので、一番目に宝塚となっているところが、同社の宝塚に対する強い思いを窺うことができます。確かに、阪神間での土地開発事業において、大阪梅田を起点として、郊外に向かって一直線に延びる路線ではなく、豊中(蛍池)、宝塚、西宮北口、十三を繋ぐループ状の路線を確立できたことの意味は大きかったのでしょう。阪神急行電鉄の宝塚での成功を横目に、関西のあちこちで、土地開発事業、レジャー施設開業の機運が高まり、いろいろな施設が誕生していくことになります。さあ、それでは、再び“タイムマシーンにお願い♪”して、大正7年の武庫郡西宮町、阪神電鉄・香櫨園駅前を訪ねてみることにします。

 

駅前は、乗合馬車、人力車でごった返し、相変わらずの賑わい。大阪方面から到着した車両から、家族連れ、着飾ったご婦人達、男性客らが吐き出されてくると、駅前はさらに熱を上げ、喧噪状態となります。その様子を尻目に、朝一番のお客を苦楽園まで運び終え、再び香櫨園駅まで泊りの客を乗せて戻って来た清六と喜八が、車夫だまりで一服して、なにやら話しております。

 

清六「いや~。あれやな。なんやかんや言うても、どうにもこうにも、あったもんやないな」

 

喜八「そやそや、あったもんやあれへんでな!」

 

清六「いやな、それにしてもや。まさか、こんなことになろうとはな」

 

喜八「うんうん。こんなことになろうとはな!」

 

清六「ほんまに。ええ加減にせえよー、ちゅうやっちゃでな」

 

喜八「そや、ええ加減にせえよー、ちゅうやっちゃで!」

 

清六「いやいやお前な、それ、判ってて言うてんのかいな」

 

喜八「お前、判ってて言うてんのかいな、ちゅうやっちゃ!」

 

清六「ちゃうやん。適当に相槌打ってたらあかんで、ちゅうてんねん」

 

喜八「そやで、適当に相槌打ったらあかんで、ちゅう話やんなあ!」

 

清六「喜ぃ公、お前のこと、言うてんねんで」

 

喜八「そや清やん、おまはんのこと言うてんねん!」

 

清六「わしのこと、ちゅうで」

 

喜八「わいのことかいな! なんや、そうかいな」

 

清六「もうええわ。お前と話してると、なんやおかしなるわ」

 

喜八「わいもおかしなるわ!」

 

清六「お前が言うな。それにしても、えらい人出やでな」

 

喜八「ほんにほんに。えらい人出やな」

 

清六「香櫨園が閉まって、どないなるんか思たら、またこの賑わいや。ありがたい限りやけど、あれから、何年経つんやろか・・・」

 

喜八「確か、ウチのかかあが、『夕飯の買いもん、行ってきます~ぅ』言うて出て行ったんが、その年やったから、もうかれこれ5年くらいか?」

 

清六「お前んとこの嫁はん、5年も帰ってきてないんかいな」

 

喜八「そうなんや。どこぞでまだ買いもんでもしてるんかいな、思うてな、晩飯、食わんとずっと待ってんねんけどな」

 

清六「それ、待ち過ぎやで。完全に逃げられてるやろ」

 

喜八「そう言うけんどもな。わいには、逃げられる理由が、見当たらんのよ」

 

清六「判らんてか。わしには、よう判るけどな」

 

喜八「そうなん? どして? どして?」

 

清六「どして? どして? やないわ。胸に手を当てて、よう考えてみ」

 

喜八「胸に手を当ててやな・・・清やん。まずい! なんか動いてるで」

 

清六「それ、心臓やろ。ええ加減しいや。それが、逃げたくなる理由や。判るやろ」

 

喜八「判る、判る。こんなんやったら、わいも逃げたくなるわ」

 

清六「もうええ。そんなことよりな、香櫨園が潰れてから、すぐに苦楽園がでけて、それなりに仕事は忙しなったさかいに、別に文句はないんやけど・・・」

 

喜八「でも、なんか、言いたそうやで」

 

清六「お前、知ってるか知らんか、わしゃ、知らんけどな」

 

喜八「・・・・・・・・・・・・」

 

清六「どうも聞くところによると、苦楽園の先に、新しい温泉がでけるそうなんや」

 

喜八「・・・・・・・・・・・・」

 

清六「わしの連れの米やん、居てるやろ。あいつが教えてくれてんけど、その温泉専属の人力、やらんか~いうて、誘われてるらしいねん」

 

喜八「・・・・・・・・・・・・」

 

清六「喜ぃ公、お前、聞いてるんかいな」

 

喜八「・・・せやせや。ウチのかかあが、出て行った年な。あれは確かな・・・」

 

清六「その話、もうとっくに終わってんねんて。寝とったんかいな。」

 

喜八「朝、早ようから一往復したさかい、疲れてもうて、寝てしもうてたわ」

 

清六「呑気な奴ちゃで。兎にも角にも、業者の引き抜きが横行してるさかいに、お前みたいに、ぼ~っとしてる奴でも、頭数を揃えるために、声が掛かるやもしれんでな」

 

喜八「なんかな、『新しい温泉の送り迎えやってくれたら、今の倍出すで』て、誘われたで」

 

清六「声、掛けられたてか? お前みたいなんでも、枯れ木に花の賑わいやな。でもこれからは、乗合馬車や乗合タクシーを増やす言うてたから、人力の時代もそろそろ、ちゃうやろかな」

 

喜八「どうやろかな。難しいことは、よう判らんけんどな。わいも、もうアラサーやろ。正直、中新田川からの登り坂、めちゃキツイねん」

 

清六「お前、今、なんて言うたん? アラサー? アラサーてなんや?」

 

喜八「知らんかえ? 今、みんな普通に使こうてるで。清やんは、もう直に40になるから、アラフォーや。詳しく説明したるわ。アラサー言うんは・・・」

 

清六「説明、いらんて。それでのうても、このブログ、文字数が多い言われてて、『もう少し、文章、短こなりませんかな。読むん、結構大変なんですわ』て、この前も言われたとこや。文字が、大杉漣やねんて」

 

喜八「大杉漣て!それを言うんやったら、時代的には大杉栄ちゃいまんの?」

 

清六「いやいや、もうな、こういうネタが長くしてる原因やから、先行くで。ほんで、なんやったかいな・・・そうや、わしもな、そのアラフォーちゅう奴やから、それなりに人生経験、積んでるよってに、一言、言わせてもらうとや、時代ちゅうのはな、刻々と移り変わりよるんでな。未来をきちんと見据えて、常に身の振り方を考えとかんとあかん、ちゅうこっちゃ」

 

喜八「う~~ん。わいには、ちょっと難し話やな・・・」

 

清六「ところで、お前、最近、谷町の叔父さんとこ、しょっちゅう出掛けて行ってるみたいやけど、あれ、何しに行ってんねや?」

 

喜八「あれなー、清やん、聞いてくれるかー。わいの叔父貴、庭師の親方やってるやろ。谷町四丁目の松本はんちゅう、お屋敷で世話になってんねんけんど、そこの息子はんが、えらい自動車がお好きお方でな、『人力してはる甥っ子さん、いつまで人力の時代やなかろうから、運転、教えてあげましょか』、言うてくれはって、お屋敷のお庭で、自動車の運転、習ろうてんねん」

 

清六「はーぁ? なんやて。自動車? 運転? お前がかいな?」

 

喜八「そやで。自動車言うさかいに、底に穴が二つ開いてて、そこから脚出してな、自分で動かなあかんのかいな、思てたら、T型フォードちゅうの、えらいもんやで。向こうが自分で動いてくれんねんで。わいは、ワッパ回してな、向きだけ決めたらよろしいねん。その松本はん、来年、大正に自動車乘りの学校、作りはるらしいねんけど、『喜八さんに覚えてもらえるように教えられたら、どんな人にも教えられます。お陰で何とかうまく行きそうです』いうて、わい、褒められたで」

 

清六「それ、なぶられてんねんで。お前に自動車の運転て、そんな大それたこと、でける訳ないがな。アホなこと言ってんと、さあ、仕事や仕事や。昼までにもう一往復せんとあかんよってにな・・・」

香櫨園駅から苦楽園までの道中、夙川から分岐した中新田川沿いに上っていく道の勾配は、一回五銭などという金額では、割の合わない過酷な仕事でしたので、次第に乗合タクシーが増えていくことになるのでしょうが、実際に旅館やラジウム温泉が建ち並んでいた三笑橋(今は、苦楽園バス停)まで歩いてみましたが、とても人を乗せた人力を引いて登れるような道ではなかったです。こうして、大正3年に山開きした苦楽園ですが、ラジウム温泉や旅館に大勢の人々が訪れ、政財界や文化人が、別荘地、住居を建てることで、街としてのステイタスは確実に上がり、大正8年には、西宮土地株式会社がその経営を受け持つことになります。その前年の大正7年、清六が話していたように、苦楽園の先に新しいレジャー施設が建設されます。大正信託社長、本庄京三郎が、甲陽土地株式会社と言う会社を設立。甲山の南麓330ヘクタールの土地を買収し、『東洋一の大公園』と銘打った、一大レジャー施設の建設に着手しました。甲山の南側、陽の当たる場所から、甲陽園と名付けられたこの施設は、カルパス温泉、旅館、運動場、動物園、劇場、瀑布が揃い、正に、『大阪おもてなしの方程式』(例の“温泉と劇場と瀑布”です(^_-)-☆)に則った、完璧なレジャー施設でした。甲陽土地株式会社直営の「甲陽館」。その他、「つたや」、「播半」、「花月」、「子孫」「○長」、「つるや」などの料理旅館や料理屋。そして、明治42年に道頓堀・浪花座の隣にオープンしたカフェ、「パウリスタ」が、大正8年に甲陽園にも開店しました。苦楽園が、ラジウム温泉を中心にした高級別荘地を標榜したのに対し、甲陽園は、遊園地や動物園をも備えた、庶民にも開かれたリゾート地として開発されて行きました。

この甲陽園、今までの遊園地、レジャー施設と大きく異なる特筆すべき点がありました。それが何かというと、園内に映画の撮影スタジオがあったのです。アメリカ・カリフォルニアにあるユニバーサル・スタジオ・ハリウッドは、1915年(大正4年)に開業して間もなく、25セントの入場料を取って、チキンランチ付きのスタジオ見学ツアーを始めたと言います。そういうこともヒントになっているかも知れません。「甲陽撮影所」は、滝田南陽の甲陽キネマが経営しておりましたが、残念なことに、この当時のフィルムは残っていないそうです。そして、大正12年に起きた関東大震災によって、事態は急変します。撮影所を失ったスタッフ、俳優達が新たな活動場所を渇望していた矢先、八千代生命が「東亜キネマ」を設立。「甲陽撮影所」を買収し、「東亜キネマ甲陽撮影所」としオープンすると、東京からスタッフ、俳優達が、関西に移動して来ました。大正13年には、マキノ映画製作所を吸収合併。牧野省三が、京都・等持院と甲陽の両撮影所所長を兼務することになります。この年、阪神急行電鉄は甲陽線を開業。中新田川が夙川から分かれる辺りに苦楽園駅ではなく、苦楽園口駅を、甲山の麓、甲陽園の西ゲート横に甲陽園駅を開業します。夙川駅から敷設されたこの支線には、駅が二つしかありませんが、当時は、夢のような二大リゾート地と現実の世界・夙川駅を繋ぐ、魅惑の路線であったのだろうと思います。

このようにして、苦楽園に続き、甲陽園が開業するのですが、こんなものでは済まない、驚愕の出来事がまだまだ続きます。「知っているようで知らない“ほにゃらら園”の謎」その③は、これにて終了。引き続き、「知っているようで知らない“ほにゃらら園”の謎」その④をお楽しみください。その④に続く・・・