知ってるようで知らない“西宮ほにゃらら園”の謎その④  | となりのレトロ調査団

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関西を中心に、身近にあるレトロな風景を徹底的に調査します。

大正13年当時、日本国中で注目のスポーツといえば、野球でした。読売ジャイアンツが誕生するのが、昭和9年のことなので、プロ野球が誕生する以前、大正時代、一番人気を集めたのは、全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球大会)だったそうです。第1回、2回大会は、豊中グラウンドという場所で開催されました。この豊中グラウンドというのは、明治43年に大阪梅田から宝塚までの営業を開始した箕面有馬電気軌道(今の阪急電鉄)が、大正2年に建設した多目的グラウンドで、野球開催時は、豊中球場と名乗っておりました。ところが、当時、箕面有馬軌道のみの路線では、観客を運びきれず、グラウンドも1面しかなかったため、スケジュール的な問題も発生し、第3回目からは、別の場所を考慮せざるを得なくなりました。明治43年に日米野球を開催した香櫨園グラウンドを大正2年に閉鎖した阪神電鉄は、明治40年に竣工した関西初の競馬場、鳴尾競馬場内に鳴尾球場を建設します。競馬用トラックの内側に、陸上用のトラックと直線コース、プール、テニス場、そして野球場を建設し、総合スタジアムとしてリニューアルしたのです。第3回全国中等学校優勝野球大会の開催場所を模索していた大会主催の大阪朝日新聞は、野球グランドを2面にする条件を阪神電鉄に提案し、それは実現しました。しかし、観客がグランドになだれ込んで、試合が頻繁に中断したり、雨が降るとグランド内の水はけが悪く、しばらく使えないようなこともあったため、事態を危惧した大阪朝日新聞社は、阪神電鉄に対し、さらに本格的な野球場の建設を提案します。この大プロジェクトのリーダーには、明治43年、日米野球の際、香櫨園遊園地に2週間で野球場を建設した当時の担当者にして、現専務の三崎省三が任命されました。武庫川の支流、枝川と申川を埋め立て、その上に建設されたため、当初は「枝川球場」と言われていましたが、竣工した大正13年が、縁起のいい甲子(きのえね)の年に当たることから、甲子園と名付けられ、鳴尾球場は廃止となりました。以後、球場周辺の住所は、甲子園○○町と名付けられ、高級住宅地として販売されて行きました。

さらに、阪神電鉄は、昭和4年、鳴尾浜に阪神パークを建設します。昭和18年、戦争が激化する中、阪神パークは海軍の鳴尾飛行場として接収されることになります。この時、鳴尾競馬場も接収されました。鳴尾競馬場は、後に阪神競馬場と名前を変え、同じ西宮の仁川に移転することになるのですが、重賞レースの「鳴尾記念」は、この鳴尾競馬場に因んでいるとのことです。そして、翌年の昭和5年。アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトの弟子である、遠藤新氏の設計により、武庫川河畔に甲子園ホテルが竣工。『東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル』と並び称さるほどでしたが、戦争が激しさを増し、ホテルとしての営業は14年間で終わりました。その後は、武庫川学院の所有となり、現在は武庫川女子大学の学舎として利用されています。宝塚新温泉のヒットから宝塚の街が住宅地として広がっていったように、同様の手法で、苦楽園、甲陽園は温泉と結びついた高級リゾート地・住宅地として、開発されて行きましたが、甲子園の場合は全く異なり、温泉ではなく、野球場がコアとなって、街の発展を牽引して行きました。昭和の初め、甲子園球場とほぼ同じ時期に産声を上げたプロ野球のスタジアムは、チーム売却後に取り壊され、ショッピングセンターに様変わりしたり、移転してドーム球場になったりしています。では、甲子園球場も同じような道を歩むのでしょうか。いえ、それは絶対あり得ないことだと思われます。阪神電鉄が、もしそんなこと発表でもしようものなら、球場の周りでハンガーストライキを始めるファンが現れ、確実に死者が出ます。道頓堀に飛び込むファンも続出し、溺死する人が後を絶たなくなります。すると、西宮の街のあちこちで暴動が起き、餃子の王将・西宮北口店で、ゆっくり天津飯を食べてなどいられなくなります。一部の暴徒は、環状線の大正駅に集結し、京セラドームは焼き討ちに合います。阪神電鉄の株価は下がります。当然のことながら、阪急阪神ホールディングス全体の経営に陰りがでます。すると、関西の経済が停滞して、日本経済にも悪影響を及ぼし、世界大恐慌に発展する可能性があるのです。“風が吹くと、桶屋が儲かる”ではなく、甲子園球場がなくなると、世界経済に悪影響を及ぼすのです。ですから、甲子園球場が変わることはあり得ないのです。蔦を絡ませた、あのお姿のまま、未来永劫、同じ場所に存在し続けます。もはやパルテノン神殿やエジプトのピラミッドやノートルダム大聖堂やアンコールワットと同じように、掛け替えのない西宮の聖地として、そして日本野球界の歴史と発展の証しとして、残り続けて行くのです。

その後、甲陽園の撮影所はどうなったのでしょう。大正14年、牧野省三は東亜キネマを退社し、マキノ・プロダクションを設立します。京都、甲陽の撮影所は、東亜キネマに残され、この間、多くの映画が製作されましたが、昭和2年、会社は撮影所を京都・等持院撮影所に一本化することを決め、甲陽撮影所は閉鎖されることになります。東亜キネマは、親会社、八千代生命の映画事業撤退を受け、小林一三に資本支援を仰ぎ、東活映画社が本編製作、東亜キネマが配給興行に専念することで、なんとか存続するも、昭和7年、京都撮影所も閉鎖されてしまいます。昭和10年、極東映画という会社が設立され、甲陽撮影所は、極東映画甲陽撮影所として、映画製作が再開されましたが、昭和11年、会社は撮影拠点を極東キネマ古市白鳥園撮影所に移転することを決め、再びスタッフ、俳優達は分裂します。甲陽園の残留組が甲陽映画を立ち上げます。『元和三勇士』、『どくろ大明』三部作など多くの“チャンバラ映画”を製作。昭和12年、自社配給に乗り出したことで、経営が悪化し、会社は解散。甲陽撮影所は、完全に閉鎖されることになります。同じ時期に、遊園地、旅館、飲食店も経営状態が悪化し、徐々に宅地化されて行きました。その跡地は、甲陽幼稚園、住宅が建ち並び、もはや、かつてここに、映画撮影所や料理旅館や遊園地施設があったことなど、想像だにできぬほど、当時を偲ぶものは何も残っていません。“西宮・山の手のおしゃれな高級住宅地”として、ツンとすました顔を見せているだけです。当時、営業していた店で、現在も残っている店が一軒あります。「料理旅館 子孫(こまご)」の流れをくむ、「日本料理 子孫」です。一度閉店しましましたが、今も甲陽園で営業を続けておられます。知る人ぞ知る、ミシュラン三ツ星店です。

 

一方、苦楽園の方はどうかというと、甲陽園と同じ時期まで、それなりに存続していいたようなのですが、“温泉街としては、ちょっと冗談にならん事態”に陥ってしまいます。昭和13年、大水害によりラジウム泉が止まってしまったのです。その後、景気の悪化や世の中が戦争へ向かうようになり、旅館、店屋は廃業を止む無くし、その後は、ますます宅地化が進んで行きました。このように、7つの“ほにゃらら園”の内、香櫨園、甲東園、苦楽園、甲陽園、甲子園の謎が解けました。残りは、昭和園と甲風園ですが、実はこの二つの○○園、昭和になって分譲された住宅地で、先のほにゃらら園に因んで名付けられた○○園といいうだけで、特に逸話も残ってなさそうなので、深堀りすることなく、割愛させていただきます^^V

今回の調査の中で、夙川界隈のいろいろなことを知りました。苦楽園から中新田川沿いの坂道を上がっていった三笑橋付近に、かつてラジウム温泉場があったのですが、そこからさらに山道を登って行った先に、現在、県立西宮北高校があります。この高校は、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」で、ハルヒが通う北高のモデルになった高校です。物語の中にも西宮がたくさん登場します。ハルヒがSOS団の集合場所として指定する「駅前公園」は、ボクが、今は無き西宮北口の立聖館予備校に通っていた頃、ボク達、冴えない予備校生達が煙草をふかし、たむろしていた駅前西口広場ですし、SOS団と上ヶ原パイレーツが対決した野球場は、暗黒の浪人生時代、唯一の楽しいイベントであったソフトボール大会が開催された中央多目的グラウンドでした。そして、先の香櫨園のくだりで、ボクが、西宮と芦屋の境界線、細っぽちの川のすぐ近くに有る中学に通っていた話を書きましたが、同じ中学に川の西宮側から通っていた一人の先輩がおりました。その人は、北欧方面の文学賞に毎回ノミネートされている方で、『ランゲルハンス島の午後』と題されたエッセイの中で、「僕の学校と家との間には川が一本流れている。それほど深くない、きれいな川で、そこに趣のある古い石の橋がかかっている」と書いている橋が、夙川の河口から2番目にかかっている橋、葭原橋(あしはらばし)ですので、その大先輩、なんと夙川の葭原橋と、市の境を流れる名前も無い細っぽち川のちっぽけ橋、この二つの橋を渡って、中学校に通っていたということになります。これはすごい大発見ですので、ハルキストの方々もきっと喜んで・・・まさかね。失礼しましたm(__)m


このブログを書くために、久しぶりに香櫨園浜に行ってきました。砲台も観てきました。この砲台、昔はこんなフェンスで囲まれてなくて、普通に出入りできたような気がしますが、中は薄暗く、ポカンと空いた大砲用の窓から幽霊が出たり入ったりしているようで、子供心に薄気味悪かったのを覚えています。そのすぐ近くには、今も西宮回生病院という病院があって、昔は、芦屋の方から波打ち際の砂浜を歩いて来ると、夙川の河口、高い堤防の向こうに、洋館建ての古い建物が見え、その風景がサナトリウムのような、社会と隔絶された閉鎖的な雰囲気を漂わせていたために、訳もなく怖かったことを覚えています。今は、お洒落な建物に様変わりしていましたが、ヤシの木越しの感じが、どことなく『Hotel California』のジャケットっぽかったです。野坂昭如の「火垂るの墓」、村上春樹の「ノルウェイの森」、「めくらやなぎと眠る女」にも西宮回生病院は登場してくるそうで、機会を見つけて、確かめてみたいと思います。いや、でも、「火垂るの墓」は、観れそうもないので、確認は取れないままだと思います。その他、ボクと香櫨園の接点で言うと、小学校の時、なぜか母の勧めで、香櫨園の歯医者さんに通わされていて、覚えているのは、その歯科医院、大正時代風の和洋折衷の一軒屋で、玄関を入ると、とにかく中は薄暗く、診察室から裸電球の灯りが漏れていて、先生の姿は、その灯りのシルエットになっていたので、ボクは先生の顔をはっきり見たことがなかったような気がします。診察台の横に、いつも本を広げていて、時折、それに目を遣りながら、治療をしていましたので、きっと何か専門書のようなものを確認しながら、治療してくれているのだろう、と勝手に思っていたのですが、ある時、そうっとその書物に目を遣ると、それは普通の文庫本でした。虫歯の治療でお世話になっていた訳ですが、ボクの下の奥歯は、左右2本ずつ、今もその時にペンチで引っこ抜かれたままになっています。それと、もう一つ。小学校の時に、うちの父は何を思ったのか、「会社の同僚の娘さんが英語を教えてくれるから、習ってこい!」と勝手に決めてきて、香櫨園にある、その方のお宅に習いに行くことになりました。その娘さん、大阪外大(2007年、大阪大学と統合)でロシア語を専攻していて、ロシア語ができるのなら、きっと英語も堪能なのだろと、父は判断したらしいのですが、当時のボクは、勉強などとは縁のない、全くのサッカーおバカで、ミトコンドリア並みの生物でしたから、娘先生が一生懸命、単語やフレーズを覚えさせようと試みてみるものの、如何せんミトコンドリアには荷が重た過ぎ、何一つ頭には入りませんでしたが、素直さだけは超一流のいい子でしたので、授業終わりに出てくる紅茶とケーキを目当てに、毎週健気に通っておりました。ところがある日、父の同僚の方から、「彼に英語は合ってないかもしれませんね」と遠回しにお断りを伝えられ、ボクの英才教育は、半年も経たない内に終了したのです。ですから、いま改めて振り返ってみると、ボクにとっての“香櫨園”というイメージは、 “薄気味悪い”とか、“怖い”とか、“痛い”とか、“覚えられない”とか、“川の向こうの癖に、なんてズルい奴らだ!”とか、今思うと、ろくなもんじゃなく、ネガティブなものばかりだったような気がします。(ケーキは美味しかったけど^^)この頃からずっと、潜在意識のその奥の深層心理のさらに奥底に、実はこの当時の良くない記憶のあれこれを厳重に保管し続けていて、大人に成長したボクの脳は、幼少期に感じ取ったこれら良くないイメージからボク自身を守るため、“香櫨園”という言葉には意図的に反応しないような、自己防御システムを構築していたようで、ですから、本当はよく知っている香櫨園である筈なのに、久々に会った同級生から、「香櫨園の一軒屋に住んでんだ~。ほ~ぃ!」と聞かされた時も、ボクの脳は、ちゃんとアプリを立ち上げてくれ、ボクが心に痛手を被らないように、“香櫨園”ワードからボクを守ってくれたということらしいのです。ホンマかいな???

今回の七つの○○園。自宅から電車に乗って、ほんの20分くらいのところ、すぐ身近な所にあるにもかかわらず、その歴史については、知らないことばかりでした。知らずに済むのなら、それはそれで構わないことなのでしょうが、ボクの目の前に横たわるその真実は、疑問を持ったご褒美に、次の真実、そしてまた次の真実へとボクを導いてくれました。もし、知らないまま放ったらかしにしていたとしても、誰かがボクを怒鳴りつけたり、呆れ返られたりする訳ではないし、何か新しい真実に出くわしたとしても、明日からのボクの暮らしが、劇的に変化して、今まで以上の豊かな生活が保証されたりする、なんてことはないのですが、もし何か一つ、大きな変化があるとしたら、ボクは今までよりもっと、この街が好きになっているかも知れません。すると街の方もキラキラと輝いて、ボクを包み込んでくれるような気がします。ボクはこの街にいる限り、独りぼっちを感じることはないと思うのです。ボクやボクに関わる全ての人との何気ない日常をさらに掛け替えのないものにしてくれて、ボクが今、ここで生かされていることの意味を教えてくれるような気がしてならないのです。歴史に思いを馳せると言うことは、そういうことなのかも知れません。

 

4回に分けてお届けしました、「知っているようで知らない“ほにゃらら園”の謎」。これにて全編の終了です。最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。心から、感謝いたします。