となりのレトロ調査団

となりのレトロ調査団

関西を中心に、身近にあるレトロな風景を徹底的に調査します。

となりのレトロ調査団~「おばけ煙突」の巻

 

小学何年生の時のことか、はっきりは覚えていないのですが、昼休みの時間に教室内が騒然となる、ある“事件”が起こりました。クラスの男子生徒が教室に飛び込んで、興奮を抑えきれず、こう叫んだのです。

 

「市役所の玄関の前にな、ポインター号が停まっとーで!」。

 

ポインター号とは、“ウルトラセブン”に出てくるウルトラ警備隊が乗っている車のこと。ウルトラ警備隊とは、地球防衛軍の極東基地に拠点を置く、防衛軍人の中から選び抜かれたエリート部隊。地球侵略を企む宇宙人に対するパトロール、戦闘が主な任務とされています。ボク達の学校のプール脇にある講堂横の坂道を上ったところに西門があって、目の前の道を渡った所にあるのが市役所。この子が昼休み時間とは言え、市役所の正面玄関前にポインター号が停車していた情報をどこで知り得たのか、大人になった今となっては、その事の方が気になったりするのですが、まあそれは良いとして、ボク達のクラスの騒ぎは、教室から教室へ飛び火して行き、やがて別の学年の教室へも広がって行き、学校全体がこの“ポインター号事件”で大騒ぎになってしまいました。当時は、40人クラスが1学年に10クラス。その6学年分ですから、我が校もかなりのマンモス校でした。「もしかして、この町が、宇宙人に狙われてるんちゃうか?」とか「阪神の駅前にある酒屋のY村さん、実は宇宙人なんちゃうか?」とか、「市役所は、すでに宇宙人達によって支配されてしまってるんやないか?」等々。市行政と言う組織の中で奮闘していた大人達にとっては、「最後のは、あながち間違いでもないな・・・」と言われてしまいそうですが、子供達は虚像と現実の狭間で、リアルとドラマの世界を混同させ、好き勝手なことを話しておりました。後で放送を観て判ったのは、ウルトラ警備隊が西へやって来て、ロケが行われていたと言うこと。ぺダン星人に操られたキングジョーが、神戸港に停泊しているタンカーはひっくり返す。ポートタワーはぶっ壊すはで、もうやりたい放題。暴れ放題。ボク達の小学校の隣りにある市役所は、ウルトラ警備隊の隊員達がウルトラセブンとキングジョーの戦いを見守る、「六甲防衛センター」でした。かっこいい!

ボク達は、まさに円谷ジェネレーションでした。テレビが我が家にやって来て、最初に観たのは、グルグル渦を巻く画面がドンピャ~の効果音と共に、「ウルトラQ」のタイトルとなって浮かび上がってくる例の画像で、それを始めてテレビの前で正座して観た時、「ほんと、生まれて来て良かった~」と思ったものです。生まれて来てまだ数年しか経ってない癖に、です。「おい小僧! お前、何年、生きて来とーねん!」と神戸風の関西弁でツッコミを入れられそうですが、その後は立て続けに、「ウルトラマン」、「ブースカ」、「ウルトラセブン」と、テレビと言う魅惑の宝石箱を通して、円谷プロ作品の黄金期をリアルタイムで体現することができた世代です。その後も円谷ワールドにどんどん引き込まれて行くのでありますが、その中でも、ボクがいまだに鮮烈に覚えている場面があって、それが何かと言うと、円谷プロとしては珍しく、怪獣も宇宙星人も出てこない、人間が引き起こす化学犯罪ドラマ、「怪奇大作戦」と言うのが有りました。その何話目かで、マッドサイエンティストが、小さい箱に収まって、地上基地からの無線による説得を無視し、海底深くに沈んでいくシーンがあったのですが、もうどんなストーリーだったか、何にも覚えていないのですが、この科学者の不気味な表情が、今でも脳裏に焼き付いて離れません。この様に大人になっても頭から離れない恐ろしい風景。誰でもあると思いますが、ボクが以前この“となりのレトロ調査団”の「西宮にあるほにゃらら園の謎」の巻でご紹介したことがある、香枦園浜の「石造りの砲台跡」や夙川の河口にある「西宮回生病院の当時の建物」は、幼心に不気味さ満点の建物でしたし、阪急芦屋川駅から少し上、岩園町辺りの山の中腹にある洋館建てのお屋敷の窓ガラスに西日が反射してキラキラと輝き始めた時、そこが妖怪の棲みつく館のようで、訳も無く気味が悪かったのを覚えています。

大正の終わりから昭和にかけての東京で、そびえ立つ巨大煙突が子供達を夢中にさせました。東京電灯が墨田川沿いに建設した千住火力発電所の4本煙突です。1926年(大正15年)から1963年(昭和38年)まで稼働しておりました。浅草にあった火力発電所が老朽化や公害対策上の問題があって、移転を検討していた矢先、関東大震災によって大きな被害を受けたため、千住に火力発電所が建設されました。震災で倒壊せずに残った高さ80mの三本煙突は、大正15年(1926年)に千住火力発電所へ移設されることになり、新たに建設された1本と合わせて煙突は4本になりました。「この4本煙突が、なぜ、おばけ煙突と呼ばれたのか?」と言うと、毎夜、丑三つ時を過ぎると、4本の煙突はどれともなくユラユラ動き出し、時に4本が絡み合ったり、離れたり、その様子はとてもこの世の様とは思えないものだったそうなのです・・・。と言うのは嘘で、4本の煙突が、観る場所によって3本になったり、2本になったり、1本になったり、その姿を変貌させるからと言う理由と、煙を吐き出したり、吐き出さなかったり、日によって様子が変わることから、昭和の初めの頃、東京足立区の千住界隈で子供時代を送った人々にとって、このおばけ煙突が、子供時代のノスタルジーとして、いつまでも記憶の中に焼き付いているようなのです。幸運にも戦時中の度重なる空襲による被害を受けることなく、終戦を迎えることができたため、戦後も引き続き大都会東京への発電を担っておりましたが、豊洲に新東京火力発電所が建設されたことにより、1963年(昭和38年)5月に稼働を停止しました。煙突の解体が決定された後、同年12月には、解体・撤去を反対する人が煙突によじ登り、84時間にも渡って篭城するという騒ぎが起こりました。解体間際の1964年(昭和39年)8月26日には、煙突の下で、地元住民による、「煙突とお別れの会」が開催されたそうですから、「おばけ煙突」は、近隣住民の皆さんに相当親しまれていたようなのです。

 

この千住にはもう一つ、忘れてはいけない建物があります。東京スタジアムです。かつて東京都荒川区南千住にありました。東京球場という通称でも呼ばれていました。プロ野球、千葉ロッテマリーンズの前身にあたる毎日大映(後の東京、ロッテ)オリオンズが本拠地として使用していました。1962年に開場し、1972年限りで閉鎖してしまいましたので、10年間ほどしか営業していないことになります。実は、この東京スタジアム。ボクは、行った事がありまして、当時、総武線の平井に住んでいた叔父に連れられ、まだ小学校低学年だと思うのですが、夏休みにロッテ対東映の試合を見に行ったことがあります。ウイキペディアで調べてみると、この1970年と言う年、ロッテはリーグ優勝を果たしておりまして、7月時点で2位の南海に9.5ゲーム差をつけていたそうなので、ボクが連れて行ってもらったこの時は、すでに独走状態であったようなのです。ただ覚えている事と言えば、とにかくグランドと観客席との距離が近くて、かなりヤバいヤジが飛び交っていたので、「ただただ、怖かった」こと。もう一つは、叔父さんの友達らしい人も一緒に来ていて、なんとなく挨拶をした後、その人がボクを見て、「そうか~。この子がももさんの子なのか・・・」としみじみ話していたこと。その後の大人達の会話から、どうやらその人、母が父と結婚する前に、母とお見合いの話が持ち上がったことがあった人だったようで、子供なりになんか複雑な気持ちだったのを覚えています。まあその話は良いとして、プレイをしている選手達がばけもの集団なら、観に来ているファンもある意味、怪獣のような輩達ばかりで、そう考えると、当時のパリーグの球場は、難波球場も日生球場も藤井寺球場も、大人しいとされていた西宮球場だって、グランドも観客席も個性に満ちた怪獣、ばけもの達で溢れていました。そんな球場で毎度交わされるおもろいヤジの応酬は、今となっては忘れられない昭和の貴重なシーンです。

 

「こらインケツ。ちゃうわ、近鉄! 悔しかったらな、阪急沿線に住んでみい!」

 

「あほか。悔しいことあるか。近鉄電車はな、2階建てや! 羨ましいやろ!」

 

 

話が大きく逸れてしまいました。m(__)m この「おばけ煙突」、実は、東京よりも5年も前に大阪にすでにありました。明治~大正期、大阪の電気を支えた電力会社、大阪電灯が1919年(大正8年)4月、大阪鉄工所の工場跡地に春日出第一発電所を建設しました。この場所は、安治川と六軒家川に挟まれていて、川が広いため、大型運炭船の係留に好都合で、そしてまた発電用水を安治川より多量に得られるなど、発電所としては好適地であったのです。大阪電灯はさらに発電量を上げるために、春日出第二発電所の建設を計画するのですが、第一発電所の不具合によって発生していた煤煙・騒音問題で、第二発電所建設計画には近隣住民による反対運動があって、なかなか竣工に漕ぎつけられませんでしたが、1920年(大正9年)に会社の資金問題が解決したことにより、第一発電所の改善が進み、地元の反対運動が収まったことで、大阪市北区北安治川通3丁目(当時)に春日出第二発電所を建設することができました。千住のおばけ煙突が4本だったのに対して、此花区春日出のおばけ煙突はなんと8本でしたので、その数は観る場所によって8本から1本まで変幻自在に姿を変えるので、千住のおばけ煙突と同じように、それはもう大阪市民からは親しみを持って愛され続けていました・・・と言いたいところなのですが、どうもそれ程、親しまれていなかったようなのです。

 

当時の大阪の町は、湾岸地区を中心に、市内の工場群の煙突から排出される煤煙にかなり悩まされていました。大大阪時代と謳われ、経済的に大きな発展を成し得た半面、“東洋のマンチェスター”と呼ばれるくらいに、石炭を燃やして排出される黒い煤の煙が空を覆い、大阪は別名、「煙の都」とも呼ばれるくらい、どんよりとした商都でしたから、怪物達が暗躍する“ゴッサムシティ”のような重苦しい街並みの、そのマイナスイメージの象徴が、まさしく此花・春日出のおばけ煙突で、「確かに懐かしくはあるけど、あまり思い出したくない!」存在であったのではないかと思うのです。大正から昭和にかけてのノスタルジーなんて話では無いのです。経済を最優先とした代償は、きっと計り知れない程大きかった訳です。ただ、その危険な道を歩んで来たからこそ、今の大阪の繁栄があったとも言えるので、春日出発電所のおばけ煙突が果たした役割は大きかったのではないでしょうか。

この場所には、今、「コーナン」と「ラムー」という二つの大型店舗が立っています。JR環状線の西九条駅を出て、内回りの天王寺方面の行きに乗っていると、車内からこの敷地の全貌を見渡すことができます。「ここに、発電所がね・・・」と考えると、確かに感慨深いものがあります。官設鉄道の線路脇、市内の西の外れとは言っても、住宅がひしめく此花の中州に、これ程の規模の発電所があった訳ですから、もしタイムマシンがあるのなら、当時の景色を観に行ってみたくもなるのですが、この風景には、どえらい煤煙がセットになっていますので、は~っ、やっぱり遠慮しておこう。

 

此花区には、「おばけ煙突」の他に、「おばけタンク」もありました。北港通りを西に走って、舞洲へつながる此花大橋を渡る手前の交差点の右奥角にそのタンクがあったそうです。今も大阪ガスの敷地である一画です。工業の発展のために、いろんなおばけが活躍、暗躍していた時代だったのです。じゃ、今はもうおばけは居なくなってしまったのでしょうか。いやいや、大きな災害が起きた時に、人間の力では手に負えない巨大なおばけが、今日も日本中で12基、稼働しているそうです。2022年の資料によると、地球温暖化に影響を及ぼす、温室効果ガスを排出する石炭・石油・ガスなど化石燃料による火力発電による発電量は、72.7%。一方、温室効果ガスを排出しない原子力発電、5.6%。太陽光、水力、風力、地熱の再生可能エネルギーが21.7%となっています。デンマークでは、再生可能エネルギーの割合が約80〜90%と言われているので、近い将来の日本の姿をそこに見出すとしたら、平原に立ち並ぶ巨大風車おばけや一面真っ黒に敷き詰められたソーラーパネルおばけが今以上に増えることで、この国が抱える大きなリスクを少しずつ回避できるのではないか。そんな気がするのですが、どうなのでしょうか。

 

となりのレトロ調査団~「おばけ煙突」の巻は、これまで。今回も稚拙な文章にもかかわらず、最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。

 

となりのレトロ調査団~大阪市電西野田桜島線の巻 その➀

 

今回のテーマは大阪市電の西野田桜島線であります。今回も鉄道の路線がテーマです。かつで大阪の街を縦横無隅に走っていた路面電車の一路線です。友人の“乗り鉄”で、“撮り鉄”で、“呑み鉄”のF井さんが今回のテーマを知ったら、「ほれ、やっぱり沙魚川くんは、鉄ちゃんやねんやんか! それにしても、渋いとこ、狙いよるな」と言って来るだろうな~と思いながら、今回は、至って地味目の市電路線がテーマであります。前回も話しましたが、明治から昭和の初期にかけての“となりのレトロ的風景”をあれこれ探索していると、その当時のヘビー・インダストリ―な遺構の中に鉄道に関するものも結構残っていたりして、そう言う類のものと出会った時、ボクの脳内で大量のノルアドレナリンが分泌されるようで、ついつい我を忘れ、そちら方面に夢中になってしまう傾向があるようなのです。まあ、そう言う人達のことを、“鉄道オタク”と呼ぶのでしょうから、ボクにはその素質が十分にあると言うことなのでしょうね・・・。

 

 

さて話は、1903年(明治36年)の大阪は、天王寺村。1889年(明治22年)に創設された今宮商業倶楽部という、時代の最先端を行く社交場を買い上げ、その場所に様々なパビリオンを建設し開催されたのが、第5回内国勧業博覧会。この年、大阪の市電は、まず第一期線として花園橋(現在の九条新道交差点。松島新地の目と鼻の先)と 築港桟橋(現在の大阪港、天保山)間の5.1㎞の築港線が開業しました。それより遡ること13年前の1890年(明治23年)、東京・上野公園で第三回内国勧業博覧会が開催されたのですが、東京電燈と言う会社が、会場内に170間(約300m)の軌道を敷設し、日本で初めての電車のデモ運転を行ったところ、たちまち大評判となりました。その5年後の1895年(明治28年)、京都の岡崎公園を会場として第4回内国勧業博覧会が開催されます。平安遷都千百年紀念祭に併せて誘致運動を進めていたのですが、七条(京都駅前)から博覧会場までの間を路面電車が開業します。これが後の京都市電木屋町線・京都市電蹴上線となります。このように、大きな博覧会をきっかけにして、路面電車、鉄道が各地に誕生することはよくありました。1970年の大阪万博では、地下鉄御堂筋線が江坂から万国博中央口駅までの区間、北大阪急行として延伸されましたし、1990年の国際花と緑の博覧会の時には、大阪市営地下鉄鶴見緑地線(現大阪メトロの長堀鶴見緑地線)が建設されています。来る2025年の大阪万博に向けても、JR夢咲線の延伸は見送られましたが、大阪メトロ中央線が夢洲まで延伸されることになっており、大きなイベントの際に鉄道が新たに建設される歴史は、今も変わっていません。

 

 

大阪市電の話に戻ります。1908年(明治41年)、第二期線として東西線(九条中通一丁目~末吉橋)、南北線(大阪駅前~恵美須町)の11.1kmの路線を新規開業させたことで、市街を東西南北に結ぶ骨格が形成されます。さらに第三期線として43.2kmの敷設を終えた後、第四期線の一環として、1920年(大正9年)10月23日に兼平町~朝日橋間が開業します。1924年(大正13年)には、三本松~桜島間が延伸開業され、業平町~桜島がつながります。1945年(昭和20年)、大阪大空襲による戦災のため、島屋橋~桜島駅前間を休止しますが、戦後に再開されて、1962年(昭和37年)2月1日に島屋橋~桜島駅前間が廃止されるまで西野田桜島線は運行されていました。明治から大正、昭和にかけて、それはもう全国のいたるところで鉄道、電車の軌道が敷設されました。しかしその中の多くの路線が、昭和の終わりまでに廃線となりました。この西野田桜島線も他の消えて行った多くの路線と同じように、需要が無くなったがゆえに廃止された路線であった訳で、そういう意味では日本国中、この手の“となりのレトロ的な廃線逸話”は尽きないですし、西野田桜島線もその一路線に過ぎないのですが、この大阪の西の外れにある工業地帯に敷かれた市電に関して、「一度ちゃんと理解しておきたい!」という思いが強くなり、自分なりにあれこれ調べてみました。

 

 

ちょっとだけ個人的なお話しをさせていただくと、ボクは、この10数年程、仕事の関係で、桜島駅からその先にある舞洲という人口島に頻繁に行くことがあって、その度に西野田桜島線の軌道が敷かれていた幹線道路、今は北港通りと呼ばれている道路を使うことになるのですが、地元の方にこの辺りの昔の話を聞く機会ことが度々あり、例えば、「昔この通りの真ん中を走っていた路面電車は、この交差点で左折して桜島駅の駅前までつながっていたんよ」とか、「両側にはずっと住友関係の工場があって、社宅みたない建物もたくさんありましたで」とか、「一時期、“北港海岸”という名の停留所があって、埋立地の一画には、確か潮湯の施設もあったらしいねんよ」とか、「工場地帯を抜けた先の四貫島の町には、それは立派な映画館があったんやで」等々。いろいろな話を聞いていると、生まれた場所でもなく、育った場所でもない、ただ仕事のためだけに通り過ぎるこの北港通り界隈の歴史がとても気になり始めました。図書館で見つけた「此花区史」を見ていると、この辺りがとても興味深い場所であることが判ります。大阪の市街地から海の方に向かって、ほんの4~5㎞くらいしか離れていない、かつては重工業、重化学系の工場がひしめいていた工場地帯でした。現在は桜島周辺と言えば、工場街と言うよりは、倉庫が多く建ち並ぶ物流拠点になっています。JR安治川口駅から正連寺川方向、北港通りの沿線には今も住友系の工場が建ち並んでいます。ボクがこの町に来始めたのは、2011年の5月頃。USJが開業したのが、2001年3月31日ですから、開業からすでに10年が経過していた頃ということになります。桜島地区に限って言えば、USJの表玄関側(JR夢洲線側)に比べると、裏側の北港通り沿線、正連寺川側のエリアは、人の姿をあまり見ることも無い殺風景な場所でした。特に桜島駅からさらに西へ向かう、海に突き出た倉庫街の夜の風景は、野犬が我が物顔で群れって走り回っているような、かなり危ない場所だったように記憶しています。現在は、そこまで殺伐とはしていませんが、殺風景な様子は、基本的に今もあまり変わっていない気がします。

 

 

兼平町駅~西九条駅~朝日橋駅~千鳥橋駅~四貫島大通二丁目駅~四貫島大通三丁目駅~春日出町駅~春日出車庫前駅~島屋町駅~西島屋町駅~三本松駅~島屋橋駅~桜島駅前駅。これが、西野田桜島線の当時の路線停留所名です。現在は、そのほぼ同じルートを大阪シティバスの81系統が、舞洲に行く此花大橋を渡る手前までの同じルートを運行しております。起点であるJR野田駅辺りは、昔は兼平町と呼ばれていました。現在その地名は、地図上から無くなっていて、産業用ロボットメーカーのダイヘン兼平工場として残されているくらいです。野田駅から環状線に沿って西九条駅までくると、そこから軌道は右折し、正連寺川が埋め立てられ、今は名前だけ残されている千鳥橋駅前で線路は左にカーブします。そのまま北港通りを海に向かってひたすらまっすぐに進みます。此花大橋へ向かう手前の交差点を左にカーブ。安治川方面に進み、JR桜島駅のすぐ近くまで軌道は伸びておりました。そこにもう一方の起点駅である桜島駅前駅がありました。

 

桜島の工場地帯を語る上で忘れてはならないのが、官設鉄道の西成線です。1905年(明治38年)、西成鉄道が大阪駅~天保山駅の営業を始めます。「天保山駅? 天保山は安治川の対岸ちゃうの?」と思われるでしょう。そうなのです。天保山とは、現在海遊館がある安治川の対岸にある標高4.53mの日本で最も低い山。(実際は、川底を浚渫した際に出た土砂を積み上げた人口の築山)一時期、天保山駅と言われていました。その当時の駅舎は、現在のユニバーサルスタジオ内のサンフランシスコエリア、ラグーン辺りにあったそうです。1906年(明治39年)には国有化され、名称も桜島駅と変わります。貨物の取扱量が増えた為、引き込み線を設けた際に、駅舎は500m西へ移転します。やがてこの場所にユニバーサルスタジオが建設されることになるのですが、かつて住友伸銅場(住友電工のルーツ)や住友鋳鋼場(住友金属工業のルーツ)、大阪鐵工所(後の日立造船)などの大工場の間をすり抜けて敷設された線路は、USJの敷地を避け、安治川口駅から桜島駅間を安治川寄りに100m程、移設されています。

 

 

明治38年に開業した西成鉄道。大阪駅から天保山駅の区間の内、大阪駅から西九条駅までは、その後、大阪市の中心部を周回する環状線の一部となります。西九条から天保山駅(桜島駅)までは西成線(現在ゆめ咲線)として営業さることになります。さらに、安治川と正連寺川とに挟まれた細長い半島状のエリアのほぼ中央を貫く幹線道路(現在の北港通り)に大正13年、市電・西野田桜島線が敷設され、人、物資の輸送量は格段に上がりました。ここで、ある表をご紹介します。これがなんだか、判りますでしょうか。判る人は相当、大阪の歴史に強い方です。

 

氏名

引き受け株数

発起人

プロフィール

住友吉左衛門友純

350,280

 

住友家第15代当主

島徳蔵

98,060

事業家、相場師

山下芳太郎

70,010

住友鋳鋼所、製鋼所、伸銅所の重役歴任

清海復三郎

46,430

事業家

藤田平太郎

38,650

 

藤田傳三郎長男

藤田徳次郎

10,000

藤田傳三郎次男

藤田彦三郎

10,000

藤田傳三郎三男

島定治郎

10,000

島徳蔵弟。貿易商、日本硝子工業等役員

住友忠輝

10,000

住友友純の長女婿

鈴木馬左也

10,000

第3代住友総理事

中谷徳恭

9,620

実業家、政治家

野村利兵衛

8,950

木綿太物商

小倉正恒

5,000

第6代住友総理事

中田錦吉

5,000

第4代住友総理事

草鹿丁卯次郎

5,000

住友重役

坂仲輔

5,000

藤田組常務理事

湯川寛吉

5,000

第5代住友総理事

高木與太郎

3,000

 

 

 

正解は、となりのレトロ調査団~大阪市電西野田桜島線の巻 その②で。

 

となりのレトロ調査団~大阪市電西野田桜島線の巻 その②

 

 

この表が何かと言うと、正連寺川北岸と正連寺川と安治川に挟まれた大阪港の北部地域、つまりは北港と呼ばれている、総土地面積約85万9千坪と海面埋め立て権利区域約31万9千坪を合せた合計約117万8千坪という広大な土地を経営地とし、北港修築、埋め立て、開発、不動産経営などを目的に1919年(大正8年)12月24日に設立された会社、大阪北港株式会社の会社設立当初の株主と発起人を記した表です。最初、これらの人物が何者なのかさっぱり判らなかったので、一人一人調べてみて判ったのは、大正から昭和にかけての住友総本店の大幹部の方々でした。銅吹き所を起源とする住友家。その住友グループを大きく飛躍させた言動力と言えば、何と言っても別子銅山だと思うのですが、もう一つ忘れてはならない住友グループのルーツがここ桜島と言っても過言ではなく、住友の歴史がここ桜島地域に集約されていると言われています。

 

「大阪北港株式会社設立期の経営地開発計画とその背景に関する研究」と言う論文からご紹介すると、元々、島屋町地先の埋め立て権を所有していた島家は、その開発のため、1913(大正2)年3月に臨港土地株式会社という会社を設立します。島徳蔵、島定治郎、淸海復三郎、中谷徳恭が同社設立時の発起人及び株主でしたが、住友家は進んで同社の経営権を獲得し、1920(大正9)年6月、同社は所有する土地と埋め立て権を大阪北港株式会社に譲って解散します。正蓮寺川以南には、すでに住友家経営の住友製鋼所と住友電線製造所などの工場が、正蓮寺川以北には、大阪亜鉛鉱業会社と藤田鉱業会社が立地しておりました。特に大阪亜鉛鉱業株式会社は、藤田組の買収によって1911(明治44)年10月に設立した会社で、第一次世界大戦が始まった後に酉島に工場を新設しておりました。1917(大正6)年10月に設立した藤田鉱業株式会社も1919(大正8)年までには酉島製作所を設置しており、正蓮寺川以北は、大阪北港株式会社設立前にすでに藤田家による開発が進んでいましたので、大阪北港株式会社の中核である住友グループとしては、北港エリアの開発の足並みをそろえるために、藤田グループの重鎮達を株主として迎い入れたそうなのです。

 

大阪北港株式会社が実際に行った運河開削事業、海水浴場事業、貸家経営事業についても触れておくと、当時、安治川沿いには住友入堀という堀がありました。この堀を延長して、安治川と正蓮寺川をつなぐ北港運河が開削されています。1926(大正15)年5月に着手し、1931(昭和 6)年12月に正蓮寺川堤防の切開工事を終え、北港運河が完成します。運河沿いには、住友製鋼所や住友伸銅鋼管会社がありましたから、正蓮寺川両岸の工業地域としての発展を狙い、北港運河は作られました。後年、この運河は埋め立てられてしまうのですが、その場所がどこかと言うと、現在、ユニバーサルシティ駅からUSJのゲートへ向かう途中、ハードロックカフェの辺りでユニバーサルシティウォークが途切れるのですが、ちょうどその下を通っている道路がまさに北港運河を埋めた後にできた道路だそうです。この道を北に向かって進み、北港通りとの交差点をさらに北方向へ少し行くと、その先に、正連寺川から入り込む形で、一部分だけ運河が残されています。今も船が横付けされ、大型クレーンが稼働している風景を観ることができます。

 

 

さらに、市電路線を利用した事業として、貸家経営事業がありました。政府低利資金を使って進められた住宅地計画ですが、酉島町と春日出町において、実際に貸家経営事業を行っております。既に首都圏では、1914年の京浜電気鉄道株式会社による神奈川県横浜市の「生麦住宅地」、1922年には東急、東急電鉄の始祖に当たる田園都市株式会社が目黒区の「洗足」、1923 年には大田区の「多摩川台」(現在の田園調布)を開発。西武グループの中核、国土計画株式会社の前身、箱根土地株式会社が「目白文化村」、1924年には「国立」を開発。その後、首都圏の私鉄各社が沿線土地開発事業に追随したように、近畿圏においては、1910年、阪急電鉄株式会社の前身、箕面有馬電気軌道株式会社による大阪・「池田室町」の街造りを皮切りに、1928年には阪神電気鉄道株式会社が、1935年には南海鉄道株式会社が参入。戦後になって、近畿日本鉄道株式会社、京阪電気鉄道株式会社が参入するのですが、近畿では先陣を切った阪急が圧倒的に突出した土地開発の実績を誇っております。鉄道事業者にとって、沿線の宅地開発を広げで行くと言う、次なる事業展開が求められ始めた時代、大阪北港株式会社も世の中の流れに追随し、市電誘致を足掛かりに、工場周辺での社宅建設を進めて行くのですが、「元来貸家の經營は吾社の本業ではないが、大正九年三月大阪市當局から政府低利資金を轉借して、中流階級者向住宅を建設し、不動産業を手掛ける」とし、土地開発事業、貸家経営事業を進めて行く事となります。この事業が後の住友商事へとつながって行くのです。

 

兼平町から市電に乗り込みます。車窓からは、家々の軒下に洗濯物が揺れる、雑然とした大阪の下町の景色が見えます。しばらくすると工場が建ち並ぶ灰色の風景へと変わってきます。そびえ立つ煙突からはひっきりなしに排煙が吐き出され、辺りは重工業独特の油の匂いに包まれていきます。市電は北港運河に架けられた鉄橋をゆっくりと渡り、目の前の軌道は、島屋橋停留所を過ぎた辺りで、官設鉄道桜島駅に向かって大きく左へカーブします。そのカーブに差し掛かる手前、北港海岸停留所で下車すると、『北港潮湯』と書かれた大きなアーチが立ちはだかります。その下をくぐり、土産物屋が建ち並ぶ通りをぶらぶら進んで行くと、奥の方に建つやたら馬鹿でかい建物が見えます。北港潮湯です。大阪北港株式会社の別会社、北港潮湯株式会社が1925年(大正14年)に開場した娯楽施設で、建坪1500坪の中に1000人入ることのできる大浴場、1000人収容可能な余興場を備えている、今の時代で言うスーパー温泉で、浴場から直接、海岸に出ることができたそうです。現在のUSJの第2駐車場からその西隣りにある大阪ガスの敷地(今は、ジャングルのように木々で鬱蒼とした場所)辺りに北港潮湯があったと言われています。USJの会場内駐車場が満車の際に誘導される駐車が第2駐車場で、今は、ただフェンスで囲われただけの殺風景な場所です。この北港潮湯を描写した詩がありますので、ご紹介させていただきます。小野十三郎の「北港海岸」です。

 

 

「北港海岸」

 

島屋町 三本松

住友製鋼や

汽車製造所裏の

だだっひろい埋立地を

砂塵をあげて

時刻(とき)はづれのガラ空の市電がやってきてとまる。

北港海岸。

風雨に晒され半ば倒れ掛かったアーチが停留所の前に名残をとどめてゐる。

「来夏まで休業――」

潮湯の入口に張り出さされた不景気な口上書を見るともなく見てゐると

園内のどこかでバッサバッサと水禽の羽搏きがした。

表戸をおろした食堂、氷屋、貝細工店。

薄暗いところで垢まみれのまゝ越年する売残りのラムネ、サイダー、ビール壜。

いまはすでに何の(きょう)雑物(さもの)もない。

海から 川から

風はびゅうびゅう大工場地帯の葦原を吹き荒れてゐる。

 

 

小野十三郎。明治36年生まれです。大正時代にアナーキズム詩運動を経験。東洋大学を中退し、東京で生活をしていましたが、「解放文化連盟」を結成後に、生まれた大阪の街に戻って、「大阪」と言う詩集を発表しました。その中に収められたのが、この『北港海岸』という詩です。文字を目で追いかけて行くと、まるで当時の写真を目の前にしているように、風景が次々と鮮明に浮かんで来ます。近代化、工業化の波の中で、人々の暮らしは豊かになる筈なのに、人間の温もりはますます失われ、殺風景な工業地帯にはただ風が通り過ぎ、河原の土手に人影は無く、ただ葦の原が広がっている・・・そんなイメージでしょうか。80数年も前の作品にもかかわらず、たくさんの人々で賑わうUSJ周辺の表の顔とは裏腹に、ボクが日々目にしている北港通り沿い界隈の風景を観て感じる、なんとも言えないもの寂しさと同じ質感の空虚なイメージを共有できる作品でしたので、初めて読んだ時はとても嬉しく、また驚きを感じました。一時、吉本興業の文芸部に所属し、秋田實らと共に漫才台本を執筆していた経歴をお持ちだそうです。大阪文学学校を創設し、晩年まで校長を務められておられましたが、平成8年に他界されておられます。

 

 

一時は利用者で溢れかえった北港潮湯も、昭和9年の室戸台風で壊滅状態になり、営業を再開することができませんでした。小野十三郎がこの詩を創作したのは、大正14年とあります。北港潮湯は、すでに営業を終えていたはずなので、この様子が廃墟と化しそのまま放置されていた実際の景色だったのか、すでに跡形も無い場所にイメージの世界を投影したものなのか、それは定かではありませんが、一つの時代が終焉を迎え、次の時代に移行していくまでの間、過去の繁栄が嘘だったかように、栄光の勝利者がガラクタと揶揄されても仕方のない寂しげな姿を衆人の目に晒さなければならない隙間の時間があります。小野十三郎は、まさに“となりのレトロ”的視線で朽ちて行く娯楽施設の残骸を心に焼き付け、重工業に牽引を託さざるを得ない近い将来の社会に大きな警鐘を鳴らそうとしたのかもしれません。“世の中の近代化”と“人が幸せに生きて行こうとする意志”。この二つの車輪が、互いに相乗効果を生むような存在であれば、そこにはきっと人に優しく住み易い社会が構築されるのでしょうが、ほんの数十年前まで、この町は大工場から排出される煤煙と油の匂いで覆われた灰色の町でした。それはある意味、必要悪のようなもので、失ったもの代償が、経済的な繁栄だった筈なので、一概に哀しい歴史とは言えないのではないでしょうか・・・。

 

ユニバーサルシティ駅に到着するゆめ咲線の電車からは、今日も小さな子供の手を握る親子連れや楽しそうに声を上げる学生達に混ざって、多くの外国人観光客達が屈託のない笑顔で下りてきます。そして、次から次へとこの町に用意されたフェイクな異次元空間へと吸い込まれて行きます。ボクは、ジャケットの内ポケットに隠し持った「となりのレトロ偏光フィルター付き特殊メガネ」を取り出し、ダイヤルを100年前にセットして、西成線や市電西野田桜島線の駅前風景を眺めてみます。どれどれ・・・。到着した車両から吐き出されて来るのは、この町の大工場で働く工員さん達の姿。お弁当箱や着替えが入った風呂敷包みを小脇に抱え、腰には手拭いをぶら下げ、多くが当時流行りのカンカン帽を被った出で立ちで、足早に職場へ向かう出勤風景が見えます。モノクロームでもなく、コマ落しのような古いフィルム映像のようなものでもなく、はっきりと鮮明に見えます。そう、皆さん、笑顔の出勤風景です。楽しそうです。産業の劇的なスピード感に着いて行けず、取り残されてしまった人々のやり場のない焦燥感に満ちた負のエネルギーに満ち溢れているのかな・・・なんて思いきや、笑いながら懸命に生きている庶民の強かな生き様が見えてきます・・・。うん。そう、思いたいです。

 

 

市電西野田桜島線のお話しは、以上で終わりです。今回は、当時の遺構は何にもありません。現地に行っても、何も残ってないのです。きれいさっぱりと現代のものに置き換えられていました。でも、もし時間に余裕があって、そんな気分にでもなったら、西九条駅前のシティバス停留所から81系統に乗って、このルートを走ってみてください。きっと何か感じるものがあると思います。稚拙な文章にも拘わらず、最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。これにて、となりのレトロ調査団~大阪市電西野田桜島線の巻 全編の終了です。

 

 

 

 

となりのレトロ調査団~南海平野線の街を行くの巻 その①

 

今回のテーマは、「南海平野線」であります。前回の「南海汐見橋線」に続き、今回も鉄道がテーマであります。この場を借りてはっきり申し上げておきたいのですが、ボクは、鉄道オタクでもなんでもありません。ただ何故なのか判りませんが、子供の頃から鉄道に関する話題には、自然に身体が反応してしまう習性があるようで、つい最近も、“乗り鉄”で“撮り鉄”で“呑み鉄”である友人のF井さんと話している時に、「沙魚川くん、ほんまは鉄ちゃんなんやろ?」と、“そろそろ認めたらどうや”的な圧を掛けて来たので、「いやいや。ボクは、となりのレトロに当てはまるような明治、大正、昭和初期の重工業の遺物が好きなだけで、そういう類のものって、得てして鉄道系とオーバーラップすることが多いんです。たまたまですよー。ハハハ」。なんか必死で身の潔白を証明している自分が可笑しく、さらに加えて、「子供の頃は、クリーム色と赤色のツートンカラー、いわゆる“国鉄特急色”でカラーリングされたキハ81系、82系が大好きで、特にブルドッグ型のボンネットを持ったキハ81系が牽引する「はつかり」、「くろしお」に夢中でした。月刊誌『鉄道ファン』で写真を見つけては、スクラップ帳にペタペタ貼ったりして。それに、ヨーロッパの寝台列車を意識した深い青色にクリーム色のラインを施した、『あさかぜ』の丸みを帯びた20系客車のフォルムも好きだったし、ブルートレイン大ブームの時、寝台特急『富士』、『はやぶさ』などを牽引し、東京~九州を疾走したEF66系とか、たまらなくカッコ良かったですよね~。その程度のものですよ・・・」と伝えたら、「それで、十分や」とのことで、F井さん認定の“鉄道オタク”の称号をボクに与えるので、ぜひ受け取って欲しいとのことでしたが、そんなものもらったとしても、ボクにしてみたら、昔、ココナツサブレのパッケージに印刷されていた“モンドセレクション受賞”の表示を見た時の「・・・はて?」くらいの意味しかないし(本当はものすごく権威のある賞なのでしょうけど)、知っていると言っても所詮はキハ80系とかEF66くらいのものですので、お気持ちだけ頂いて、称号の授与は丁重にお断りさせていただきました。そんなことはどうでもよくて、今回のテーマは、「南海平野線」であります。

 

南海平野線と言うのは、恵美須町・天王寺駅前から平野までを繋いていた路面電車で、すでに廃線になっておりますから、今はその姿を見ることはできません。南海汐見橋線は、路線の必要性という点から見て、社会的な期待感が薄れてしまい、“いつ無くなってもおかしくない”存在として今に至っていますが、それでも、まだまだしっかりと生き残ってくれていますので、観に行こうと思えば、乗りに行こうと思えば、今日だって、明日だって、1時間に2本の間隔でちゃんと運行されています。南海平野線は、1980年(昭和55年)に廃線になってしまいました。全盛期、通学や通勤や買い物やその他、野暮用でもなんでも、沿線に暮らす人々の様々な日常や様々な思いを乗せ、5.9㎞の区間の停留所から停留所を疾走するその姿、乗客達の息遣いなどは、もはや知る由もありません。今も昔の施設の一部が思い出の欠片として、街のあちらこちらにポツンポツンと残っているそうなので、目を凝らし、心のアンテナを広げていれば、きっと当時の雰囲気を感じ取ることができるのではないかと思うのです。個人的には、今まで生きて来たボクの人生と平野と言う場所との間に、重なるものが全くなく、土地勘もないので、新たな出会いへの期待感で心はワクワクしておりました。平野へ出かける数日前、友人とのLineで、

 

ボ ク「今度の休み、となりのレトロで大阪平野へ行くんよ😊」

友人M「それはまた、広いとこ、行くんやなー」

ボ ク「え? 広ないよ。狭い町やと思うよ。猫の額くらいやで」

友人M「そんな馬鹿でかい猫、おるわけないやん!」

ボ ク「なんか勘違いしてる? 大阪のヒラノやで」

友人M「ヒラノか! なんや、大阪ヘイヤかと思ったわ」

ボ ク「そんなまさか。ヒラノや。ヒラノ。フラノと違うで」

友人M「判っとるわ! フラノ言うんは、イタリアにある町や」

ボ ク「アホか。それは、ミラノじゃ」

 

友人と関西独特の軽妙で、かつ他所の地域の人に言わせると、「これだから、関西人は面倒臭い」と思われがちなLineをしていて感じたのは、「こんな会話になるのも無理ないよな」と思ってしまうほどに、今は至って控え目な町なのですよ。平野は。同じ大阪に住む人でも、例えば、北摂と言われる大阪北部地区に住んでいる人からしてみたら、結構知らない人も多いかも知れません。「名前は知ってんねんけど・・・ヒラノ、ヒラノ? どこやったけ? あっ! あれやろ、総武線で亀戸の次の駅やろ?」。それ、ヒライやん。それにしても、なんで平井、知ってんねん。平井を知っていて、平野の場所を知らないと言うのも、不思議な話ですが、まあ、面倒くさい民族なのです。関西人って・・・。

 

ボクが“平野”の歴史を知るきっかけになったのは、織田信長と堺の関係を調べていた時で、堺と同じように自治都市として栄えていた町が河内の国にあることを知りました。室町幕府の後半、それはもうズタボロ状態で、足利氏の権威はますます失墜。大名達が好き勝手に各地を統治し始めていた戦国時代のこと。あちらこちらで熾烈な陣取り合戦が繰り広げられている中、住民による自治を死守しようと懸命に頑張っていたのが堺と平野郷。どちらもすぐれた経済力と自治組織を持ち、戦国の世で武士に支配されない、独立を目指した商業都市でした。町の周囲には濠と土塁が巡らされておりました。今ではそういった形態の町を環濠都市と呼んでいますが、平野の場合は、その周囲に13箇所の門が設置されていて、その門毎に門番屋敷、地蔵堂が建てられていました。郷への出入りはこれらの門からのみに制限されており、この門前から外に向かって放射線上に街道がつながっていたのです。

 

 

平野郷がどういう成り立ちをしてきたのかと言うことについて触れてみたいと思います。元々、難波京と斑鳩、平安京を結んでいた渋川街道(後に竜田越え奈良街道)の通り道でした。その頃から交通の要所であったことは間違いなく、早い時代から人々の暮らしが根付いていたのでしょうが、歴史的にこの地に初めてスポットライトが当てられたのは、平安時代のこと。蝦夷征伐で名を馳せた平安時代初期の我らがスーパーヒーローと言えば(いや、それほど親近感はないか)、坂上田村麻呂ですが、その次男に廣野麿と言う人がおりました。廣野麿が朝廷から荘園として授与されたのがこの地。なぜこの地だったのか、その理由は判りませんが、廣野麿は、嵯峨天皇、淳和天皇の二帝に仕え、やがてこの地に永住することになります。828年に亡くなった後も、坂上家が代々この地を領有することになります。彼の名前の“廣野”が転じて“平野”と呼ばれるようになったと言うのが通説になっています。862年に廣野麿の子、坂上当道(まさみち)が八坂神社を勧請し、杭全神社が創建されています。1127年には大念仏寺が開基され、門前町が形成され、大きく発展したと言われています。その後も坂上家の影響は強く、坂上家の子孫がそれぞれ権力を有する七つの町が形成されるようになります。それぞれの町を差配する七つの家系を平野七名家と呼び、自治都市・平野郷の基盤となります。特に戦国時代には、七名家の筆頭を誇った末吉家が牽引して南蛮貿易が盛んに行われ、大きな富を築きました。平野も堺と同じように南蛮貿易でしこたま富を得ていたのです。そのために、時の権力者の欲する地となり、幾度となく戦乱に巻き込まれる運命を歩むことになるのですが、“尾張の大うつけ者”こと織田信長の軍勢がこの地に伸し掛かります。堺の会合衆から共闘の協力要請がありましたが、飛ぶ鳥を落とす勢いの尾張軍の前に抗う事も出来ず、敢え無く屈してしまいます。こうして、自治都市の時代に幕が下ろされることになり、平野郷は信長支配地となります。

 

大坂の役の時、末吉家率いる平野郷の衆は徳川方に協力し、この地に二代目将軍、秀忠軍の陣が張られました。そのために、豊臣側からは敵方と目され、町は焼き討ちに合いますが、徳川方への功により、後に平野郷は幕府直轄の天領となり、荒廃した平野の町は今に残る碁盤目状の町並として復興を果たします。末広氏はこの天領平野郷の代官にも任命されています。南蛮貿易はその後の鎖国政策によって終止符を打たれますが、水運・街道の整備を行ったことで、河内木綿の集散地として物流の要所となります。毎日、綿市が立てられ、商都・平野郷はますます繁栄します。その後、江戸時代中期から幕末までは、庄内藩の管理地となるのです。

 

平野郷の七名家の中に、安成氏という名前を見つけました。豊臣時代、大坂は船場を南に下った島之内の外れに、堀の開削許可を得、私財を投じてこの事業を進めた人がおります。安成道頓と言う人です。平野郷・安成家の方です。長く、安井道頓と言われておりましたが、1965年から1976年にかけて争われた、道頓堀の所有権を争う「道頓堀裁判」にて、安井氏ではなく、安成氏が正しい名であることが明らかになりました。ところが道頓さん、1615年の大坂夏の陣において戦死してしまいます。志し半ばの水路の掘削事業は、安井九兵衛(道卜)や平野次郎兵衛らに受け継がれて完成します。当時の大坂藩主松平忠明が道頓の死を悼んで、この堀を道頓堀川と命名します。徳川家と平野郷との間の密な関係が窺える逸話です。

 

 

そして、この平野の町に南海平野線が開通するのが、1914年 (大正3年)4月26日のことです。今池~平野間、距離にして5.9km。阪堺電気軌道の平野支線として開業します。翌1915年には南海鉄道と合併し、南海電気鉄道の南海平野線となります。すでに恵美須町~浜寺公園間の営業を開始していた阪堺線。(宿院~大浜海岸間の大浜支線は阪堺線に属していました)そして、天王寺~住吉間の上町線。上町線は、南海線住吉公園駅に隣接する住吉公園停留所を新たに開業し、さらに延伸しております。ほんの僅かの距離ですがね。そして、平野線。これら3線を総称して、南海大阪軌道線と呼んでおりました。因みに、この住吉公園停留所。当時の駅舎が遺されています。今はその建物の中で居酒屋さんが営業を続けています。住吉大社前から阪堺線を横切って住吉公園停留所へ向かう軌道の跡は、今は駐車場になっていて、その敷地が少し左にカーブする形になっているので、この場所に線路が敷かれていたというのが良く判ります。阪堺線の停留所には、他にも、天神の森停留所、姫松停留所の待合室、神ノ木停留所など、当時のままのレトロな建屋がたくさん残っています。これらは、貴重な街の財産だよ!と本気で思っている、鉄道オタクでもなんでもないこのボクでさえ、「もったいない。もったいない」とお念仏を唱えるように唄い、舞い、この辺りを常々徘徊しています。あ~もったいない♪ もったいない♪ もったいないったら、ありゃしない♪ ジャンジャカ♪ ジャカジャカ♪ ジャンジャカジャン♪ さ、皆さまもご一緒に!

 

となりのレトロ調査団~南海平野線を行くの巻 その②へ続く。

となりのレトロ調査団~南海平野線の街を行くの巻 その②

 

今回も杉さんの案内で、平野へ行って参しました。集合は、天王寺です。平野へ行く方法は、いくつかありまして、天王寺から関西本線に乗って二つ目の駅が平野駅。ただし、平野区は北部では生野区、東大阪市と隣接し、南部は大和川を越えた所(大和川が大阪市と堺市の境界線と思っていたら、東住吉区と平野区に限っては、川の対岸は堺市ではないのです)までと南北に長いので、関西本線の平野駅を利用するのは、平野区の北部に住む人に限られてしまいます。2019年に新大阪駅~放出駅~久宝寺駅の営業が開始されたJRおおさか東線で平野に行くとなると、おおさか東線はJR片町線(学園都市線)の放出駅、近鉄奈良線の河内永和駅、近鉄大阪線の俊徳道駅と連絡していて、それらの駅でおおさか東線に乗り換えると、新加美駅を使うことができます。でも、何と言っても便利なのは、大阪メトロ谷町線で、天王寺駅から阿倍野駅~文の里駅~田辺駅~駒川中野駅の次、5つ目が平野駅です。この谷町線は、阪神高速14号線松原線にほぼ沿った形で、駒川中野駅から真横に平野区内に入り、平野駅を過ぎると、進路を90度南にして、平野区の西部を南北に縦断。喜連瓜破駅で再び真東に進み、中央環状線と交差すると、再度90度方向を変え、中央環状線に沿った形で南下。途中、再び進路を東に向け、終点の八尾南駅となります。つまり、平野区を西から東へ、4度、90度の方向転換を繰り返し、クランク状に敷かれた路線は、平野区内の西部から南部のエリアを網羅していることが判ります。

 

谷町線平野駅に到着して、最初に連れて行ってもらったのが、今は背戸口公園となっている場所です。地面には線路跡を模ったタイルのデザインが施されていて、平野線の路線図のレリーフが設置されていました。杉さんによると、ここは西平野停留所があった場所だそうです。内環状線を越え、再びプロムナード平野と呼ばれる遊歩道が続きます。遊歩道には、信号機型の街灯、八角形の屋根を持つベンチ、昔の踏切に使われていたのであろう、古めかしい木製の柵など、当時の様子を今に伝える痕跡が街中のあちらこちらにきちんと遺されておりました。そして、遊歩道が終る辺りには、当時のレールを使って作られた藤棚がありました。そこに平野停留所があったそうなのです。停留所に接する通りは、今も商店街として何軒もの商店が建ち並んでいました。商店街の看板には、『平野南海商店街(平野モール)』とありました。南海平野線が無くなった今も、その名を変えることなく、商店街は存続しているのです。平野線の停留所を記すと、今池~飛田~阿倍野(斎場前)~苗代田~文ノ里~股ヶ池~田辺~駒川町~中野~西平野~平野。大阪メトロ谷町線の駅と見比べてみると良く判るのですが、地下鉄の経路は平野線とほぼ同じ場所を通っているのです。
 

 

河内の国の玄関口として、交通の要所を担ってきた平野郷。のどかなこの農村地帯に大正3年4月26日、南海平野線が開業して以来、平野は“通勤、通学が便利な住みやすい町”として変貌を遂げて行きます。昭和20年3月13日から8月14日までの米軍による8回にもわたる大阪大空襲の際は、軍需工場が建ち並ぶ湾岸エリアや市街地のように大量の爆弾がばら撒かれることはなかったので、平野は空襲による損害を最小限度に抑えることが出来ました。戦後、昭和25年に5万9千人だった人口は、平成12年には20万人を越えました。2021年のデータでも19万人と、常に大阪市内24区中トップの座にいます。平野線が廃止されたのが、1985年(昭和60年)の11月28日。谷町線の天王寺~八尾南の営業開始が同年11月27日。大阪メトロ谷町線が八尾南までの延伸開業を果たしたその翌日に、平野線は66年の歴史に幕を降ろします。新たに営業を開始した谷町線。先ほど触れましたが、平野区内ではジグザグ状に西から東へ敷設されていて、この経路を見てみると、平野区民に配慮した路線計画であったことが判ります。

 

 

今回、南海平野線の跡地を見に来て得た正直な感想としては、ボクの心の中に感傷的な想いは湧いて来ませんでした。そういう意味では、心は躍りませんでした。あちこちの場所へ出向いて、歴史の痕跡探しをしていると、大抵はその切なさゆえに、胸がキュ~っとなって、「ああ、この風景、心に沁みるわ~」と感傷的な気分になるのですが、今回訪ねた平野線跡や平野に残る平野郷時代の町並みを見ていても、そういう感情が全く湧いて来なかったのです。「ん・・・なんでだろ」と、あれこれ考えて判ったのは、今も町中に数多く残る歴史の痕跡は、“役目を終えたにもかかわらず、今も尚、昔の姿のまま、道端に放置されている”と言うような代物ではなくて、後世の人達に平野線や平野郷のことを伝える役割を担うために、ちゃんと整備、保存されている歴史の証人達でした。廃線が決定した後、確かにチンチン電車は、パッと世の中から姿を消してはしまいましたが、その代役を担うべく登場した大阪メトロ谷町線はきっちりと仕事をこなし、そのレスポンスを十分に証明して見せちゃったものだから、平野の住民達にとっては、平野線が廃線になってしまったこと自体は、案外悲しくは無かったのかも知れないのです。「長年実直に勤務してきて、部下からも信頼の厚い部長でしたが、この度定年年齢を向かえるのを機に退職を決意しました。部下たちにしてみたら、共に仕事をしてきた部長とのお別れはちょっぴり悲しいけれど、後任の部長がなかなかのやり手で、社内の評判も上々ときたら、社内は新任部長と新たに切り拓く、次世代への期待感に満ち溢れ、お別れの寂しさにしんみり浸っている暇など無いよー」。よそ者がしたり顔で言えることでもないのですが、恐らくそんな感じかなと思います。さらに、その後もしっかりとした足取りで町の発展をブーストしているのだから、ますます平野は住みやすい町になって行く訳で、そういう意味もあって、今回の「となりのレトロ調査団~南海平野線を行くの巻」に悲哀と言う言葉は似合わないのであります。平野の町は、まったくもって哀愁の町ではありませんので、悲しみの霧など1㎜も降らないのであります。

 

 

杉さんとの平野散策を終え、「本日のとなりのレトロ調査団、無事に終了。お疲れさまでした~」と、南海商店街に入る角にあるマルヨ精肉店の揚げたてコロッケを頬張りながら、互いの労をねぎらっている時、ふとあることが頭を過りました。「平野線のこっち側を観に来たのなら、恵美須町、天王寺方面も観ておかないと、あっち側の血の気の多い住人達に後で何を言われるや判らん。表敬訪問しておかなければいかんのではないかね・・・」と新たな使命感がふつふつと湧いて来たので、杉さんにその辺りのボクの正直な気持ちを伝えたところ、杉さんも、「ほたら、まだ日も高いし、今からそっち方面、行きまひょか!」と、峠越えを決心して次の宿場へと急ぐ、江戸時代の旅人のようなことを言うので、グッと笑いを押さえ、次なるミッションのため、我々は再び谷町線に乗り、天王寺へ戻ることにしました。天王寺で今度は、大阪メトロ御堂筋線に乗り換え、動物園前駅へ。「一つ目の駅が、動物園前。そこで下車だかんね」。それだけを考えて、駅名の表示も見ずに降りた、久しぶりの動物園前駅。「え! ここ、どこの駅? 動物園前ですよね?」。杉さんもボクも、自分達が今どこにいるのか一瞬判らなくなってしまうくらい、駅の構内は隅々まで見事に改修が施されておりました。温かみのある赤みがかった照明に照らされた壁の動物イラスト。ボク達の脳裏にある“御堂筋線・動物園前駅”のイメージは、どぶネズミ色の壁に囲まれた地下の異空間で、どこから漏れて来たか判らない地下水のシミがコンクリート壁一面に広がっていて、地下ならではのひんやりとした空気。ホームに立ち降りた時に漂う、独特な動物園前駅臭。これら全てのネガティブな要因を一蹴して、動物園前駅は見事に生まれ変わっていたのです。さらにこの流れで記しておくと、ボクの記憶の中にあるJR新今宮駅のホームから見た景色と言えば、本来一等地である筈の駅前の土地が、長きにわたって空き地として放置されていて、その向こうに立ち並ぶビルの屋上には、日払いアパートの格安料金を訴求する看板群。道端のあちらこちらに人が転がるように伏していて、通り過ぎる人は誰一人として、気にも留めない。いや、気に留め、目に入ったからこそ、この街で起こる“ややこしい出来事”に関わりたくない一心で足早に立ち去ろうとする。そんなことが日常の街でしたから、決して治安の良い場所ではありませんでした。ほんの数十年前までは、大人のボクでさえも、この辺りを歩く時にはちょっと勇気が要りました。しかし、駅前にスパワールドが出来、ドンキが出来、トドメの星野リゾートがやって来てからというもの、劇的に美化が進み、治安はめちゃくちゃ良くなった気がします。国内だけでなく、外国からの観光客で溢れかえる新世界、ジャンジャン横丁、新今宮の町を眺めていると、昔を知る者としては、喜ばしいことではあるのですが、ちょっぴり寂しい気分でもあります。複雑な心境です。

 

すっかりきれいになった街の景色を眺め、色々なことを考えながら、平野線の起点である、恵美須町停留所と天王寺停留所を見に行きます。阪堺線側は、恵美須町を出て、新今宮の次、今池の停留所を過ぎたところで線路は東方面へ分岐します。分かれた先にある最初の停留所が飛田停留所。そしてさらに線路は東へ向かって行きます。一方、上町線側は、天王寺駅前を出て、一つ目の阿倍野(斎場)停留所がある阿倍野筋の交差点で、電車は直進せず、軌道は東に分かれます。ここで阪堺線から分岐した、飛田停留所からの軌道と合流する訳です。恵美須町停留所、天王寺駅前停留所は、共に今も阪堺線と上町線の起点停留所として存在しております。但し、恵美須町の停留所は、ここ数年前に恵美須町の交差点に面して建っていた、それなりに立派な駅舎が無くなり、今は少し南の位置に移動しておりました。交差点の角の跡地にはスポーツセンターらしき建物が建っておりました。新駅舎は、以前に比べ、かなりこぢんまりしていて、狭い空間に追いやられた感は否めませんが、それも仕方のないこと。この線を残していただけているだけでも良しとしなければならない、置かれている今の立場を象徴しているかのようでした。そして、もう一方の上町線は、天王寺駅前停留所が起点となっておりますが、明治~大正の頃は、さらに北に四天王寺西門~茶臼山と2つの停留所があったそうで、大正10年に四天王寺西門~天王寺駅前の区間が大阪市へ譲渡され、今のように天王寺停留所が起点となったそうなのです。この2線が、現在も立派に運行されていること自体、本当に奇跡と言っても良いくらいです。2023年12月の一日乗降客数は、上町線が約19,750人、阪堺線は約13,548人と大健闘しています。但し、停留所単位の利用者数を見ると、天王寺駅前は9,000人を超えておりますが、恵美須町371人、新今宮554人。今池に至ってはなんと50人。えーッ、50人! こういう数字を見てしまうと、もうたまらんです。ワクワクしてしまいます。小躍りしてしまいます。今池停留所、見て参りました。そのご報告は、その③で。ふふふ。

 

 

 

となりのレトロ調査団~南海平野線を行くの巻 その③へ続く。