となりのレトロ調査団

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関西を中心に、身近にあるレトロな風景を徹底的に調査します。

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「武庫川線は幸薄いローカル線なのか」の巻 その①

 

以前、南海高野線の汐見橋駅をご紹介したことがありました。“都会の神秘”とか、“大阪市内に残る唯一の秘境”とか言われ続けてきた、岸里玉出駅から汐見橋駅までの4.6kmの支線、通称汐見橋線が、生き残りを掛けた最後のチャンスであった、「なにわ筋線転用案」が消失してしまい、こりゃもういつ廃線になってもおかしくない状況なのですが、今この時も営業を続けていて、そのこと自体が奇跡以外の何ものでもないと思っているのは、ボクだけではない筈です。なんたって汐見橋駅の一日の利用者数が688人。沿線の西天下茶屋駅は249人、木津川駅は164人ですから(2023年データ)。汐見橋線の利便性を最大限に引き出すことができる次なるアイディアが出るまで、なんとか時間を稼がなければなりません。例えば、南海沿線方面へ出かける時に、安直に南海難波駅からひょいと電車に乗るのではなくて、多少面倒臭くても、JR大正駅から岩崎運河に架かるトラス橋を眺めながら、トボトボと汐見橋駅まで歩いてみたり、地下鉄千日前線の桜川駅まで移動して、隣にポツリと建つ汐見橋駅舎の佇まいに風情を感じ、のんびりと下り列車の入線を待ってみたりして、自分一人分でも、なんとか汐見橋駅の、汐見橋線の利用者数を上げることに貢献できたらとつい考えてしまいます。これ実は、大阪市内から大和川を越えて堺まで走っている阪堺線もしかりで、よくもまあ、ちんちん電車が昔と変わらない姿のまま走り続けているものだと、こちらもはやり奇跡と感じずにはいられませんので、阪堺線に対しても微力ではありますが、何か貢献できたら良いなと言う思いは尽きないのですが、ところが実際に阪堺線に乗ってみられたらよく判りますけど、阪堺線、平日の日中でも結構な利用者数がありますから、やはり気になるのは汐見橋線と言うことになります。

 

汐見橋線の行く末ばかりを気に留めながら、ボクの日常は過ぎて行くのですが、「汐見橋線と同じように幸薄い運命を背負った路線、支線、終着駅がこの関西にまだあるのなら、なんとかしてあげないと・・・」と言う使命感のような思いが募り、あれこれ調べてみましたら、ありました。大阪の西隣り、兵庫県西宮市に。それも、我が家から愛車のクロスバイクに跨って20分も掛からないくらいの場所に。それは、阪神電車の武庫川線と言う路線で、こんなに近くにあるにもかかわらず、今まで乗ったことも、見たこともなかったので、現地に赴くことにしました。現地に赴く前に、下調べを行ったのですが、本当に知らないことだらけでした。なかなか興味深い話も満載でした。

 

 

阪神武庫川線と言うのは、兵庫県西宮市の武庫川駅から同じ西宮市にある武庫川団地前駅までの1.7㎞を結ぶ、阪神電鉄の支線です。阪神本線の武庫川駅と連絡していて、武庫川西岸の築堤沿いを海に向かって走っています。「単線ローカル線特有の悲哀感がプンプンと漂っていて、汐見橋線のように、いつ無くなってもおかしくない路線」。そんなイメージを勝手に抱いて現地に乗り込みました。時刻表を見てみると、昼間はおおよそ20分間隔。平日朝は12分間隔。土休日朝・夕方で10分間隔の運行なので、ボクのイメージを遥かに越えた本数で営業していました。後で調べてみて判ったのですが、2023年の武庫川駅の利用者数は27,744人で、阪神電車全駅51駅の中では、なんと上から11番目だそうです。終点駅にある武庫川団地に住む人々にとっては、生活の足として通勤・通学になくてはならない移動手段になっています。夕刻間近、武庫川団地前駅にやって来ましたが、到着した下り電車から吐き出されてくる人々の群れが、周辺に立ち並ぶ高層団地群に吸い込まれていく様子に、マイナスの空気感など微塵もなく、逆に武庫川線沿線に生きる人々のたくましさを感じさせてくれました。ここに来てみて、もはや汐見橋線のような心配は無用で、決して幸薄いローカル線では無いことが判りました。気に掛けなければならない路線が一つ減り、心が楽になりました。フ~ッ。やれやれ。

 

この武庫川線が誕生した経緯と廃止までの歴史はと言うと、現在は武庫川団地となっている西宮市高須町一帯には、かつて軍需工場であった川西航空機(現・新明和工業)の鳴尾製作所がありました。武庫川線の最大の敷設目的は、この川西航空機の工場へ従業員や資材を運ぶことにありました。1943年(昭和18年)に武庫川駅~洲先駅(その後、当時の洲先駅は現在の武庫川団地前駅)間の営業が始まりました。翌年には、武庫川駅からさらに武庫川沿いを北上し、国道2号線の阪神国道線、武庫大橋駅との連絡駅として作られた武庫大橋駅~武庫川駅間が開業します。しかし敷設工事はこれで終わるのでははく、軌道は武庫大橋駅から武庫川沿いをさらに北上、省線(今のJR神戸線)の前で軌道は大きく左にカーブして、甲子園口駅に入線していました。一般客の営業は、武庫大橋駅~洲先駅でしたが、川西航空機へ運び込む貨物列車に関しては、甲子園口駅の西隣の西ノ宮駅、そして甲子園口駅からの貨物列車が乗り入れていて、客用路面電車と貨物列車の両方が走れるよう、線路は三線軌条(2種類の線路幅の車両が対応できる方式)で敷設されていたそうです。ところが、開業後1年も経たないうちに川西航空機鳴尾製作所が空襲の被害を受けてしまったので、武庫川線は期待された目的を十分に果たせないまま終戦を迎えています。貨物輸送としての利用は川西航空機工場を接収した進駐軍の要請もあり、戦後も続けられたそうなのですが、1950年代に入って運行は停止され、1958年(昭和33年)に正式に廃止となっています。

 

旅客営業としてはどうなったかと言うと、戦後すぐに全線の営業が休止されるのですが、1948年(昭和23年)、武庫川駅から現在の洲先駅までの1.1kmのみの運行が再開されます。その後、沿線開発が進む中で、終点駅周辺の広大な工場跡地が武庫川団地として再開発されることが決まり、団地住民輸送を主な目的として、1984年(昭和59年)武庫川団地前駅までの営業が再開されることとなりました。武庫川駅以北、甲子園口駅から武庫川駅まではどうなったかと言うと、鉄道の軌道は取り除かれ、全て廃線となりました。但し、本線武庫川駅から北に100m程だけですが、引き込み線として残されています。武庫川沿いの軌道跡は、当時のままの地形が残されている箇所がいくつもあって、なかなか感慨深いものがありました。ちなみに、沿線には、甲子園ホテルがありました。1930年(昭和5年)に開業したホテルで、かつては、「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と謳われたほどの本格的な洋式ホテルです。現在は武庫川女子大学甲子園会館となっています。

 

 

阪神電車のイメージとしてまず頭を過るのは、何と言ってもその営業距離が短いと言うこと。ボクの認識では、大阪・梅田から神戸・三宮までですから、そりゃ短いです。当然、路線拡大を模索した歴史があると思うので、その辺りどうだったのか、“となりのレトロ調査団”顧問の杉さんに尋ねてみたところ、「いやいや、ちゃいまっせ。阪神の西側の駅は、元町でっせ。コーイチさん、鉄ちゃんともあろう人が、そんなん間違えてどうするんです?」と。いやいや、ボクは鉄ちゃんではないので(-_-;) 見事にポイントの外れた答えが帰ってきました。梅田駅から元町駅までとしても、一駅増えただけなので、距離的にはさほど変わりません。これに武庫川線の1.7㎞、2009年に開業した阪神なんば線の西九条から難波間3.8㎞を足しても、全長48.9㎞。全国の私鉄順位でみると、一番短い相模鉄道の38.1㎞に次いで2番目に短い私鉄なのだそうです。上位3位が、名鉄の444.2㎞。2位が、東武の463.3㎞。1位は、近鉄の501.1㎞となっています。確かに、関西に住む者として、近鉄は難波・上本町・あべの橋から名古屋、伊勢、鳥羽、京都、奈良まで行くことができる電車で、JR並みの遠距離利用が可能ですから、ただただ凄い!の一言に尽きます。それに比べ、阪神は約1/10にも満たない営業距離で、この現実はどう足掻いたって埋めることはできませんから、後は街中を走る路線として、とにかく利用者数を上げ、いかに効率よく収益を上げるのが阪神の使命となってくると思うのですが、とは言え、1896年(明治29)に設立した摂津電気鉄道が、神戸~大阪間の軌道の許可を得て、1899年(明治32年)阪神電気鉄道と改称して以来、当初は阪神も積極的に路線拡大を模索して来た歴史があります。次はその辺りのことに触れてみたいと思います。

 

阪神電鉄の歴史を調べていると、“今津出屋敷線”と言うワードが出てきました。今津駅と出屋敷駅。西宮駅と久寿川駅の間にあるのが今津駅。武庫川を渡って、センタープール駅と尼崎駅の間にあるのが出屋敷駅。今も昔も、同じ沿線上の駅でありますから、「今津と出屋敷をつなげる線って、どういうことなんだろ?」と不思議に思い、さらに調べてみると、実はこれ、1924年(大正13年)に阪神が申請し、実際に許可が下りた当時の新路線計画なのだそうで、今津駅から湾岸エリアを通り、武庫川を越えて、出屋敷駅までつなげてしまうという構想が有って、一部工事に着手していたと言うのです。そのきっかけと言うか、阪神がこの構想を掲げざるを得なかった背景があって、それはと言うと、ここでもやはり宿敵、阪急が登場します。今では経営統合して、阪急阪神ホールディングスとして手を結んだ両社ですが、当時は相当やりあった間柄で、“仁義なき戦い”とまで言われ、両社の間には激しい抗争の歴史が有りました。阪神が“今津出屋敷線”の免許申請をした時に、阪急も同じように、“今津尼崎路線”の免許申請を出していたと言うのです。阪急は、西宮北口駅を挟んで、すでに北に宝塚駅、南に今津駅。この間を今津線でつないでいましたが、阪急の新構想では、さらに今津から南に下り、湾岸エリアを浜回りで東へ進み、阪神尼崎駅辺りで北上。そのまま、自社線の塚口駅、伊丹駅、宝塚駅まで伸ばすと言う計画で、宝塚~西宮北口~十三~豊中~川西~宝塚をぐるりと囲む、現在も営業しているループ状の路線とは別に、湾岸エリアを包括する、宝塚~西宮北口~今津~尼崎~塚口~伊丹~宝塚をつなげる新たなループ路線計画を進めていたようなのです。東京の私鉄の多くがそうであるように、山の手線に接続、連絡する起点駅から郊外へ一直線に伸びて行くような路線ではなく、山手線や環状線のような循環型路線を都心部から少し離れた郊外に構築してしまおうと言う計画で、阪急は西宮北口、宝塚を起点とする2つのループを作り上げ、阪神間の鉄道路線を小豆色で染め上げてしまおうと考えていたようなのです。(正式にはマルーンと言う色なのですね) ところが、国の判断は阪急の思いとは裏腹に、「阪神本線より南側は阪神はんに、北側は阪急はんに、ひとつお任せするということで、どうでっしゃろ?」と言うことになり、阪急はんの申請は却下されることとなりました。こうなると、もう阪急はんの横槍は入らず、西宮~尼崎の湾岸エリアの開発は阪神はんの独壇場、となる筈なのですが、事はうまく運んだのでしょうか? どのような展開になったのかは、後半で・・・。

 

となりのレトロ調査団 ~「武庫川線は幸薄いローカル線なのか」の巻 その②へつづく

 

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「武庫川線は幸薄いローカル線なのか」その②

 

1905年(明治38年)に本線営業を開始した阪神電鉄ですが、当時、関西私鉄各社はそれぞれの沿線の宅地開発を積極的に始めた頃、1926年(昭和元年)、阪神も自社で開発した郊外型住宅地、甲子園へのアクセスとして甲子園線を建設し、甲子園球場、その他の娯楽施設と共に、宅地分譲の目玉にしようと考えました。営業開始当初は本線甲子園駅 から浜側に設けた浜甲子園駅との間で営業を開始。そして、1927年(昭和2年)に阪神国道(現・国道2号)に念願の阪神国道線が開通します。この国道線と言うのは、大阪府大阪市福島区の野田駅から、兵庫県神戸市葺合区(現在の中央区)東神戸駅(国道2号線上、脇浜町辺り)までを結んでいた阪神電気鉄道運営の路面電車で、1905年(明治38年)に阪神本線を開業した阪神電鉄は、国道2号線の建設計画を知り、この道路の上に他社の軌道が走ることを懸念して、(と言うか、阪急が軌道を走ることだけは絶対に阻止したかったのだと思う)、その予防措置として、自社で国道上を走る鉄道の運営を決め、1925年(大正14年)に子会社、阪神国道電軌を設立しました。大阪市~尼崎市~西宮市~芦屋市~神戸市を結ぶ日本初のインターアーバン(都市間高速鉄道)ですから、当時は大変脚光を浴びました。1927年(昭和2年)、突貫工事の末、野田~東神戸間の26.0kmを開業し、1928年(昭和3年)には親会社の阪神電鉄が阪神国道電軌を吸収合併することで、直営の国道線となりました。

 

 

1928年(昭和3年)6月に甲子園線を甲子園駅からさらに北へ線路を伸ばし、上甲子園駅を設置。前年に営業を始めたばかりの阪神国道線との連絡が可能になりました。上甲子園~甲子園三番町~甲子園五番町~甲子園~甲子園八番町~阪神パーク前~競輪場前~甲子園九番町~浜甲子園~高砂~中津浜が甲子園線の駅名ですが、東西に走る阪神本線とは甲子園駅で、阪神国道線とは上甲子園駅で連絡する路線として、沿線上に設けられた甲子園球場、甲子園娯楽場(後の甲子園阪神パーク)、浜阪神バーク、鳴尾競馬場などへのアクセスを可能にし、その役割を十分に担っておりました。戦後は、浜甲子園阪神パーク跡地、鳴尾競馬場跡地に浜甲子園団地が開発されたことで、団地住民の足として役割を果たしておりました。しかし、1960年代のモータリゼーションの流れの中で、国道線が交通渋滞を引き起こす要因とされ、沿線の市からも強い撤去要請があったため、1975年(昭和50年)、阪神国道線が廃止されるに至りました。同時に、浜田車庫への出入庫ができなくなった甲子園線も廃線となりました。

 

国道線廃止により、結果的に利を得たのは、阪神タイガースのファームでした。国道2号線沿いにあった浜田車庫がもはや車庫としての利用ができなくなったため、その再利用方法として、当初上がったのはショッピングセンター案でした。所轄の尼崎市に打診したところ、当時、グンゼ社が自社工場跡地を再開発し、商業施設「つかしん」にする計画を立ち上げていて、その審査が終わるまでは、新規案件は受け付けないとの回答だったため、当時の阪神・小津専務の一言で(確か、“小津の魔法使い”と言われていて、タイガースファンにも有名な人でした)、すぐさま阪神の2軍専用拠点として整備されたと言う経緯があります。それ以前、阪神のファームは、神戸市長田にある神戸市民球場を中心に、時折、甲子園球場も併用して使っていたそうなので、自前の二軍専用球場ができた意味はとても大きかったのです。そして、時代の流れとともにこの浜田球場の老朽化が進み、ファームは、球場横にあった“虎風荘”と共に、1994年(平成6年)、鳴尾浜に移転することになります。そして、その鳴尾球場(タイガーデン)も老朽化、観客増加への対応が難しくなり、移転することになります。移転先は尼崎市の阪神大物駅近くにある小田南公園に新設した、ゼロ・カーボン・ベースボール・パークです。ここは、かつて尼崎紡績の工場、従業員住宅があった広大な土地です。1889年(明治22年)に設立され、後に摂津紡績と合併し、大日本紡績となり、現在はユニチカとして知られている会社です。旭硝子、東亜セメントなどの会社と共に尼崎の、日本の経済を牽引した会社であります。

 

 

そして、“今津出屋敷線”の話に戻ります。1924年(大正13年)に許可が下りた“今津出屋敷線”ですが、1926年(大正15年)に甲子園線の甲子園~浜甲子園間が開業し、1927年(昭和2年)に国道線の西野田~神戸東口間が開業した後、阪神は念願の今津出屋敷線の実現に動き出します。まず尼崎側から建設に着手。1929年(昭和4年)、出屋敷駅から南下し、湾岸の工場地帯のある東浜へ軌道を敷設。出屋敷駅~高洲駅~東浜駅間を全線専用軌道で建設し、尼崎海岸線が開業しました。1930年(昭和5年)には、浜甲子園まで敷いた軌道をさらに西へ伸ばし、浜甲子園駅~高砂駅~中津浜駅の区間を専用軌道で建設しました。しかし世の中に戦争の足音が忍び寄って来た頃、浜甲子園駅から東側、鳴尾競馬場周辺が軍部に接収され、鳴尾飛行場として整備されることになりました。その先、鳴尾川の対岸、かつて、鳴尾速歩競馬場や鳴尾ゴルフ倶楽部があった場所も川西航空機鳴尾製作所の飛行機工場となり、今津出屋敷線の路線予定地一帯は軍関係の施設用地となってしまい、もはや今津出屋敷線の計画は休止さざるを得ない状況となります。せっかく専用軌道で建設した浜甲子園駅~中津浜駅間も休止状態に陥ります。甲子園線とは裏腹に、1943年(昭和18年)、武庫川線が武庫川駅~洲先駅間で開業します。こちらは軍需工場への人と物資の輸送が大きな目的であるため、もはや勢いが違います。武庫川線が出来たことで、今度は、武庫川線と尼崎海岸線とを連絡する構想が持ち上がります。武庫川線の終点洲先駅と尼崎海岸線の高洲駅から西に分岐、延伸した先、前大浜との間の鉄道建設に新規の許可がおりたのです。しかしながら、工事に取り掛かるところで終戦を迎えました。戦後は沿線の地盤沈下による浸水被害のため、尼崎海岸線、高洲~東浜間0.7kmが運休となり、出屋敷駅~高須駅間のわずか一駅だけの路線となりました。その後も東浜駅までの路線復活は見送られ、“今津出屋敷線”の計画そのものを見直さざるを得ない状況になります。1960年(昭和35年)4月、今津駅~中津浜駅間の特許を失効させ、高洲駅~東浜駅間も正式に廃止としました。そして1962年(昭和37年)、第二阪神国道(43号線)建設工事に際し、尼崎海岸線を立体化してまで運行を続けるほどの路線でないと判断した阪神電鉄は、海岸線を全線廃止としました。これにより、今津出屋敷線の計画は完全に消失したのです。そして、海岸線の廃止の補償として、競艇場開催時のみ臨時駅として開設されていた阪神本線尼崎センタープール前駅を常設駅とする工事が行われたとのことで、棚ボタはここにありました。元々、出屋敷駅と武庫川駅間は、1.9㎞でしたので、その間に新駅ができたとしても、阪神電車の場合は、例えば御影駅と住吉駅間が、500mしかありませんので、阪神や京急レベルでは、それほど不自然ではありません。なお、「今津出屋敷線」の未成残存区間は1970年(昭和45年)に特許を失効。甲子園線の一部として戦前運行され、戦後運休中だった中津浜~浜甲子園間も1973年(昭和48年)に正式廃止とされました。こうして“今津出屋敷線”は完全に未成線となりました。

 

7月の午後、太陽は少し西に傾いてはいましたが、築堤に植えられた木々の間をすり抜けてもまだまだ強い日が差す武庫川土手下の鬱蒼と生い茂る枝木をかき分けながら、武庫川線廃線跡地の道なき道を自転車で走っていると、そっと爽やかな風が吹いてきて、いつものボクの妄想が始まりました。阪神と阪急が熾烈な路線拡大抗争にシノギを削っていた頃。阪急に今津を取られた阪神は、ただただ指を咥えてじっと眺めていたのだろうか。いやいやそんなことは絶対に無い。その報復として、武庫川線をそのまま北上させ、一気に宝塚まで伸ばすことを考えたのではないだろうか。阪急にとって、小林一三氏にとって、宝塚は正に聖地のような場所。阪神が宝塚を押さえると言うことは、阪神が阪急の喉元に合口を突きつけるようなもの。もし、阪神が武庫川西岸築堤の武庫川線を宝塚まで延伸許可申請でもした日には、阪急はあらゆる手立てを尽くして、死にものぐるいで阪神の計画を阻止したと思うのです。そんなことを杉さんに話してみたら、思いもよらぬ返事が帰ってきました。

 

杉さん「ほ~っ、その話、おもろいでんな。その阪神の宝塚攻略計画でっけどな、まんざら妄想話でもないんでっせ。ただ、時期と場所が違いまんな」

 

ボ ク「・・・と言うと?」

 

杉さん「今津駅の開業は、大正15年。武庫川線の開業は、昭和18年ですわ」

 

ボ ク「今津線、今津駅と武庫川線には因果関係はない、のですか・・・」

 

杉さん「そう言うことやねんけど、阪急が今津を押さえに来た理由が他にあんねん。コーイチさん、尼崎の尼宝線って知ってはりますよね。国道2号線の西大島交差点から北へ向かっている県道やけど。この道、どういう経緯で作られたか、知ってはりますか?」

 

ボ ク「いきさつ? 普通に作られた幹線道路じゃないんですか?」

 

杉さん「この道ね、今も阪神バスが宝塚まで走ってまんねんけど、昭和の初め、阪神電鉄系の宝塚尼崎電気鉄道ちゅう会社が、近い将来に鉄道軌道の敷設を考えてこしらえた道路やったんや」

 

ボ ク「・・・と言うことは、阪神は、実際に尼崎から宝塚までの路線を計画していた?」

 

杉さん「そう言うことや。大正13年、阪神は武庫川線が走る武庫川の西岸ではなく、武庫川の東側に宝塚と本線出屋敷駅を結ぶため路線、尼宝線を建設して、さらにや、出屋敷駅から阪神本線に直結させることで、宝塚と梅田を一本につなげる構想を打ち立てておって、これが実現すれば、阪急宝塚線の十三経由よりも20分以上も短縮できるちゅうことやったんや」

 

この無礼極まりない計画に阪急は黙ってはおりませんでした。阪急が考えた報復手段は、阪神が全社を上げて開発に取り組んでいた、阪神の牙城・甲子園への殴り込みでありました。阪急はまず、西宮北口駅から南へ延伸させ今津駅を建設。これによって、あのダイヤモンドクロスと呼ばれる二つの路線が平面交差する画期的な技術が生まれるのですが、これ、説明したら長くなりそうなので、またの機会にします。今津駅から湾岸エリア、浜甲子園、鳴尾浜、尼崎海岸地帯を通って、阪神尼崎駅辺りで北上。自社の本線塚口駅、伊丹駅を結んで宝塚駅へつなげる新路線構想を打ち出します。甲子園を真横にぶった切り、自社の環状路線に取り込んでしまうと言う策に出たのです。前章でご説明した、阪急の“今津尼崎線”はこのタイミングで申請されたのです。その申請を阻止するべく、阪神が提出したのが“今津出屋敷線”だった訳です。阪神本線以南は、すでに甲子園開発に成果を出していた阪神はんが任され、“今津出屋敷線”の免許が許可されました。阪急はんには、阪神本線以北、尼崎~塚口間、伊丹~宝塚間の免許のみが認められました。但し、結果的に、阪神はんは今津出屋敷線を実現できませんでしたし、阪急はんも尼崎~塚口、伊丹~宝塚の路線を実現することは有りませんでしたが、阪急バスには今も阪神尼崎駅~阪急塚口駅の路線があると言うので、このことが関係しているのかどうか、それは定かでは有りません。

 

その後、尼宝線がどうなったかと言うと、阪神には行政から尼崎市内を高架にせよとの要請があり、資金繰りの問題で鉄道ではなくバス路線に計画を変更しました。阪急は甲子園の二つ隣の駅、今津駅までの進出は果たしましたが、阪神の牙城・甲子園を陥落させるには至らず、片や阪神は、阪急の聖地・宝塚への阪神列車乗り入れは叶わず、バス路線のみとなりました。こんな経緯があって、今に至っていると思うと、「なるほどね~」といろいろ納得がいくものです。こんな歴史、知っていても知らなくても毎日の暮らしには大して影響は無いのですが、知っているとつい誰かに伝えたくなるもので、何かの用事があって、今津駅で阪神から阪急へ乗り換える時に、「私、知ってますねんで。この駅ができた由縁・・・」と誰かに喋りたくて喋りたくて仕方なくなってしまい、つい隣に座る女性にでも、「あのね~、この駅ができたんはね~、尼宝線って言う道路があってね~、その道路を使ってね~」などと話しかけた日には、変態扱いされて、駅員さんから所轄の警察に引き渡され、有る事無い事調べられかねませんので、くれぐれもご注意くださいませ。

 

以上となりのレトロ調査団「武庫川線は幸薄いローカル線なのか」の巻 終了です。今回も最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。いつも心より感謝致しております。

となりのレトロ調査団~「野崎の謎 第2弾! エッ!河内音頭って?!」の巻

 

前々回、「野崎の謎」が一体何なのかを知りたくて、初めて野崎と言う町を訪れた事をレポートしました。その時に、野崎観音が、実は隠れキリシタンと呼ばれた人達の心の拠り所、信仰の隠れ蓑であったと言う説が今もこの地で語り継がれていると言う事を知りました。ボク自身としては、「まあ、それにはかなり無理があるな・・・」と言う結論で締め括ったのですが、数日後、Facebookに上げていたブログの告知ページに返信が入りました。ボクみたいな者に返信してくれるなんて、なんて優しい人だろ・・・と感激しておりましたら、その書き込みは他ならぬ、最初にボクに「ぜひ“野崎の謎”を書いてくださいね」と言葉を掛けてくれた、大東のファンキーピアニスト&アレンジャーのメグ姉さんからのものでした。メッセージに加え、野崎詣りの実際の画像、「お染久松」の紹介、そしてさすがはミュージシャンらしく、河内音頭や盆踊りに関するパネル資料を貼り付けてくれておりました。「ありがたいな~」とそれらを眺めてはいたのですが、突然、ボクの中にある“琴線”と言う名のアンテナがピピピッと、とある言葉に反応してしまったのであります。「河内音頭の発祥の地は、飯盛山城!?」。えーーーッ! 河内音頭が飯盛山で生まれたって?! この文章がボクの眼球の水晶体を通して網膜に像を結び、網膜の視細胞で光を電気信号に変換した後、視神経を通して脳に送られ、脳の視覚中枢で信号が処理されることで、ボクがその字面の意味をちゃんと理解したその瞬間に、ボクの体内では通常では考えられないくらいのアドレナリンがたちまちに血中に放出され、心拍数や血圧は通常時の100倍にまで達し、瞳孔は開いたまま、ブドウ糖の血中濃度は明らかに高まってしまったのです。

 

「ハァハァハァ えッ! なんやて? 飯盛山城? あの三好長慶さんの? その飯盛山で河内音頭が生まれたてか? なんちゅうこっちゃ! われ~! どういうこっちゃ! われ~!」。普段は静かな我が町にきっとボクの怒号が響き渡ったことでしょう。それほどに衝撃的でした。つい大声を上げてしまったことを直ぐに反省し、我を取り戻したボクは、再びメグ姉さんが送ってくれた資料に目をやりました。飯盛山城と言えば、元は南北朝時代に築城された山城で、その後、ボクが最も苦手とする、足利将軍家と細川家、三好家がくんずほぐれつ、ぐちゃぐちゃに入り乱れた時代を力ずくで抑え込んだ三好長慶が1560年、居城と定めた山城。全盛期は南北1200m、東西500mに達する規模の強固な要塞だったそうです。長慶は、永禄6年(1563年)、キリスト教布教を許可し、その保護のもと多くの家臣が洗礼を受けました。眼下には深野池の水面が広がり、そこに浮かぶ支城が三箇城。当時三箇の町周辺には3,000人ものキリスト教徒が暮らして居たと言われていて、長慶さんお墨付きの場所で、河内音頭が生まれたと言う事は! と言う事は! もしかすると、もしかする? 河内音頭は、もしかして、キリスト教の賛美歌だった? え~~~!? そんなことって、ある? 今回のとなりのレトロ調査団のテーマは、「河内音頭って、実は、賛美歌やったの?」です。 

 

「♪え~さ~ぁては~ぁ 一座ぁ~の皆さま~ぁが~たぁぁぁへ ちょいと出ました 私は~ぁぁぁ お見かけどお~ぉぉり~ぃの 悪声で~ぇぇぇ~ ヨ~ォォホ~イホイ ♪エンヤコラセ~ェ ドッコイセ~ェ ♪まかり出ました未熟者~ お気に召す用にゃ 読めないけれど~ 七百年の昔から~ 唄い続けた~ 河内音頭に乗せまして~ 精魂込めて唄いましょう~ ♪ソラヨイトコサッサノ ヨイヤサッサ」  

 

 

その起源は、毎年夏に仏を供養する盆踊りのために唄われ出したのが始まりとされていて、なんと600~700年もの歴史があるそうです。河内音頭と言うのは、口説き形式の盆踊り唄と言われていて、非常に多数の流派があり、それぞれに独自の歌詞や節が存在します。その中でも八尾の常光寺で歌いつがれている“流し節、正調河内音頭”が河内音頭の原型とされるのだそうです。ボク達が耳にする現代河内音頭と言うのは、明治時代の初期に北河内地方で活動していた歌亀さんという音頭取り(唄い手)が、盆踊り以外の舞台でもできる芸を目指し、それまでマイナースケールで唄われていた音頭を部分的にメジャースケールで唄い始めたもので、別名、歌亀節とも言われているそうです。その頃迄の関西では、滋賀の江州音頭や伊勢の伊勢音頭が盛んに歌われ、踊られていて、この歌亀節と呼ばれるものも、原則的に江州音頭の節に沿っているとのことなのです。ボクには、民謡、音頭の類の知識が全く無いので、もう一つピンと来てないのですが、江州音頭と聞いて、一瞬、豪州音頭?と思ってしまいまして、ダイアー・ストレイツやメン・アット・ワークが過去のアルバムの中で、“Ondo”調の楽曲を演奏していたら面白いな・・・と。これは、失礼いたしました。河内音頭の良いところは、非常に柔軟性があること。歌詞自体が流派、音頭取りによって異っていても良くて、昭和の時代になると伴奏にエレキギターやキーボードを導入し、時代に合わせて様々な工夫がなされてきました。そう言えば、昔、菊水丸さんのレゲエ風のリズムに乗せた河内音頭を聴いたことがありましたが、歌亀さんが偶然歌った節回しを、「こりゃ、エエがな! おもろいで。これで行こや!」と直ぐに取り入れちゃう姿勢は、後世の時代においても、定形に拘らず、即興性と柔軟性を持った庶民の音楽として引き継がれている辺り、ある意味とってもJazzっぽいなとも思ってしまいます。映画が好きな人には、河内音頭と言えば、やはり、勝新太郎主演の映画「悪名」でのワンシーンでしょう。勝新太郎が河内音頭をうなるシーンがあります。そのシーンで太鼓を叩いているのが河内音頭のレジェンド、鉄砲光三郎。幼少の頃から地元の河内音頭に親しみ、関西大学法学部卒業後、八尾市役所に勤務するも人気が嵩じ、プロに転向と同時に市役所を退職。昭和30年代末から40年代前半にかけ、“鉄砲節”と称して、ジャズや浪曲や安来節などの要素を採り入れた変幻自在のリズム、節回しで人気を呼びました。寄席、テレビ・ラジオの演芸番組で大活躍し、1961年にレコード『鉄砲節河内音頭』がミリオンセラー。河内音頭ブームを再燃させた人であります。

 

河内音頭の特徴について、もう少し触れてみます。河内音頭は“一節”と呼ばれるパートがいくつもつながった集合体で形成されていて、全体を一曲といわずに“一席”と言うそうです。一席は原則として、挨拶に当たる部分の“前口上”に始まって、“枕”(前置きの軽い話)から“本題”に進み、終わりの挨拶として“結び口上”で終わるという形式なのだそうです。「一節」は上の句と下の句の2つの部分に分かれていて、上の句が終われば「アーイヤコラセー ドッコイセ」(切りのはやし)。下の句が終われば「ソーラー ヨイトコサッサノ ヨイヤサッサ」(落としのはやし)。はやし方や踊り子が合いの手を入れます。“切りのはやし”は、音頭取りが句の終わりに「ヨホホイホイ」の掛け声を付けて要求するのだそうです。先程ご紹介した、「♪え~さ~ぁては~ぁ 一座ぁ~の皆さま~ぁが~たぁぁぁへ ちょいと出ました 私は~ぁぁぁ」と言うのは、始まったばかりの前口上の部分に過ぎず、この後に延々と続いて行く訳です。 

 

そこで、Youtubeでいくつかの音源を聴いてみました。名だたる音頭取りの方々の動画が満載でした。皆さん、声、節回し、声量、唄う姿、どれを取ってもホンマモンであることは明らか。河内音頭、なかなか凄いな~と、感激はしたものの、「はて? これのどこが賛美歌かね?」と頭を捻ってしまいます。やはり、“河内音頭、賛美歌説”には相当無理があるようです。それでも、せっかくボクの人生で初めて、河内音頭と言うものと向かい合った訳ですから、もう少し河内音頭の周辺の事も知りたくなりまして、そのついでと言っちゃ何なのですが、大東、東大阪、四條畷、寝屋川辺りの北河内だけではなく、富田林、羽曳野、藤井寺、河内長野、大阪狭山、千早赤坂辺りの南河内周辺の地域に残っている地唄的なものも調べてみました。「えんや踊り」、「畑音頭」「ジャイナ節平音頭」、「ヤンレー節」などなど、実に様々な地唄があることが判ったのですが、その中に、ついに見つけてしまったのです! 丹南、錦織、狭山、長野辺りに残る古い地唄で、“キリ音頭”と言うのがあるそうなのです。

 

「キリ音頭!? キリ? キリちゅうたら、キリストはんのキリとちゃうんけ! そのままやんけ、われ~!」。再び、我が町中にボクの雄叫びが響き渡ったのですが、二回目と言う事もあり、直ぐに冷静な自分を取り戻したボクは、ちゃんと調べてみることにしました。キリと言っても、必ずしもキリストのキリとは言い切れず、実際、Youtubeのタイトルでは、“切り音頭”と表記されているのもありましたし、例えば、伊勢神宮の式年遷宮に使われる神木を伐採する際や江戸時代、建設現場などで歌われた木遣音頭のキヤリのヤが落ちて、キリになったのか、等など、色々と思案してみたのですが、歌詞を聞く限りでは、キリ音頭に「切る」とか「木遣」に通じる歌詞は見当たりませんでした。

 

「♪ハ~リャリャン ♪ハーヨイヨイ ♪はーちょいと出ましたぁ~ ご覧皆様~ぁ 橋渡し~ぃ 未熟な~ぁ 岩井のこいつはぁ~この 梅吉がいさ~ぁ ♪アードッコイサノサ コリャヨーイヨイ ♪えー七百年の由やれ~ぇ 草と月との匂いの中で~ぇ 生まれ育って~ぇ 河内の国の~ぉ ♪ソ~ラ~ァ ヤ~レン サッサ~ ドッコイサノサッサ~ァ」

 


キリ音頭を歌っている動画というのは非常に少なく、参考にさせていただいのは、八代目岩井梅吉さんのキリ音頭の動画です。このキリ音頭も前口上から始まっていて、所々に合いの手が入り、この後、延々と続いて行きますので、河内音頭と同じような構成になっているのだと思います。前半部分では、楠本正成が登場します。後醍醐天皇が挙兵し、元弘の乱が始まります。正成は即座に天皇に応じ、赤坂城に挙兵。大軍を差し向けた鎌倉幕府軍でしたが、1ヵ月程にも及ぶ激しい攻防の後、赤坂城は陥落してしまいます。ところが正成は無事に脱出。後醍醐天皇は捕らえられて隠岐の島に配流。元弘の乱は収束したかに見えましたが、1332年、タイミングを計っていた正成は、再び赤坂城を奪取。さらに千早城も築き、鎌倉幕府の攻撃に備えます。幕府は再度大軍を擁し、正成を包囲しますが、正成の奇策に翻弄され、なかなか千早城を攻め落とすことができません。長引く包囲戦は着実に幕府の権威を失墜させ、後醍醐天皇の隠岐脱出で幕府討伐が現実のものとなってきます。その辺りの楠木正成公を歌い込んだ歌詞になっています。ですから、前口上を見る限りは、河内音頭と同じような形態になっていて、別段、キリスト教とは関係無さそうなのですが、ところが、この合いの手。「♪ソ~ラ~ァ ヤ~レン サッサ~ ドッコイサノサッサ~ァ」。これって、一体どういう意味なのでしょう? 明らかに日本語では無さそう。「合いの手ちゅうもんはな、所詮こんなもので、最初から意味なんかある理由、おまへんねんで」と言う思いと、「いやいや、何か意味がそこに隠されていてもおかしくない」と言う思いが交錯します。

 

 

北海道の積丹半島から余市にかけての地域で、ニシン漁の時に唄われていたとされる超有名民謡に『ソーラン節』があります。この民謡の中で、キリ音頭の合いの手で歌われている“ヤーレン”が何回も出てきます。この“ヤーレン”つながりで、念の為、ソーラン節についても調べてみました。これはビックリ! 再度、アドレナリンが血中に分泌されまくり。三度目の雄叫びを上げるところでした。実は、ソーラン節にはヘブライ語がたくさん盛り込まれているそうで、この“ヤーレンソーラン”も実は、ヘブライ語なのだそうです。「歌う」を意味する“ラン/レン” という言葉があり、そこに「神」を意味する接頭辞“ヤ”を付けると“ヤーレン”。つまり、「神を歌う」と言う意味になります。“ソーラ”は、「一人」。ソロリサイタルとかに使われるソロです。“サッサ”は、「喜び」。“ドッコイショ”と言うのは、「救い主よ、早く来てください」の意味である、“ドッケイシュア”が訛ったもので、この合いの手は、「一人、喜びを歌う。来たれ、救いの神よ」と言う意味になるのだそうです。ちなみに、ソーラン節の“ヤーレンソーラン”は、「一人でも、自分は神に喜び歌う」と言う意味になり、ニシン漁の時に漁師達が歌っていたソーラン節と言うのは、実は、荒波を乗り越え、神がアブラハムに約束した地へ向かって、ひたすら櫓を漕ぎ続ける自分自身を励ますため、熱い信仰心を込めて高らかに歌われたヘブライ讃歌だったと言うのです。紀元前7世紀以降、イザヤの預言に従って大陸を横断し、「東の海の島々」を捜し求めたイスラエルの民が、アジア大陸から海を渡り、日本列島を目指すときに口ずさんだ賛歌が、「ソーラン節」となって受け継がれ、河内の地域でキリスト教を信じ生きていく人々が、大海原を小舟に乗って突き進む先人達の姿を、信ずる道に向かって孤独な信仰の旅を続ける自身の姿に見立て、キリ音頭の形態を借りたのではないでしょうか。本題部分のパートでは、当時は信仰心を謳う内容の歌詞が用意されていたのだけれども、その後の幕府の弾圧によって、仕方なく別の内容に差し替えられた。しかし、合いの手部分だけはその後も継承され、キリ音頭を歌う事で、隠れキリシタンと呼ばれた人々の信仰心は救われたのではないか、そんな風には考えられないでしょうか。何かご存じの方がおられたら、ぜひ教えて下さい。よろしくお願いたします。

(参考資料:https://www.historyjp.com/article/526/

 

 

今回もアカデミックな根拠に基づかない、ボクの妄想話に端を発した、ほぼ思い付きのような四方山話にお付き合いいただきありがとうございます。今回のとなりのレトロ調査団~「野崎の謎 第2弾! エッ!河内音頭って!」の巻は、以上で終了です。「毎回、楽しみにしているよ」のお声掛けに勇気をもらい、次回に取り掛かる大きな原動力とさせて頂いております。ありがとうございます。本当に、ありがとう。心から感謝しています。

 

 

となりのレトロ調査団~「千里万博世代は、夢洲万博を受け入れられるのか」の巻

 

一昨年、父が他界し、どこの家庭でも恐らくそうだと思うのですが、父が残していった遺品の数々をそろそろ整理しなきゃと思いながらも、「もう少し暖かくなったら始めようかな」と先延ばし。季節は過ぎ、気候が良くなると今度は、「今は何かと忙しいし、もう少し涼しくなったらでいいかな」とまた自分に言い訳をして、先延ばし。一向に荷物は片付かないまま。どうしても家の中に父の面影を残しておきたい、親離れできないでいるボクは、遺品整理と言う、何のこと無い作業ですらできないでいる。昔ならきっとこう言われるんだよな。「魂が成仏出来ないままでいるのでぇ~、一連の物は、早めに処分した方が良いですよぉ~」。そんな言葉、真に受けません。なんなら、父にはぜひとも成仏せずに居ていただき、ずっとこの家で同居してもらってもボクとしては大歓迎なんですから。そんな冗談を言って、時折元気だった頃の颯爽とした父を思い出してみて、時に上手に忘れている時間を作ってみたり・・・。2年経った今も、そんな風に毎日を送っているのですが、数日前にふと、父が残したであろう、物置の一番奥にしまい込んである段ボール箱の事を思い出し、その中身を確認してみたくなりました。もう数十年開けたことが無さそうな箱はホコリまみれになっていて、なんとかそれを引きずり出し、開けて中を見てみました。いくつか小箱が収められていました。その中にちょっと小綺麗な箱があって、恐る恐る上蓋を開け、中の物を見てみると、きれいにビニール袋に包まれて納められていた物は・・・。

はっと息を飲んで、つい顔がほころんでしまいました。ビニール袋に小分けされ、整然と並んで納められていた物は、1970年の千里万博の時にボクが収集したパビリオンのパンフレットでした。50数年の時を経て、こんなタイミングで発見することになるとは・・・。みんなで大いに盛り上がって埋めた筈のタイムカプセルが、偶然、空気の読めない奴に掘り起こされちゃったみたいな、バツの悪さを少し心に抱きながら、手にとって一冊ずつ眺めていると、当時のことを色々思い出します。ボクは、確か6回、連れて行ってもらった記憶があります。それにはちゃんと理由があって、万博開催時、関西に住んでいた家々はどこも同じ状況だと思うのですが、他県、遠方に住む親戚達の宿に利用されることが非常に多かったと思うのです。「万博に行きたいからさ、ぜひ泊めて欲しいんだけど~」と泊めてあげたのは良いが、関西旅行の拠点にされて、結局は数日間居座られてしまった苦い思い出があると思います。我が家もご多分に漏れず、開催期間の約半年間、今で言う、民泊化の波に抗いきれず、関東方面から押し寄せて来る我が一族、親戚筋の怒涛の勢いにもはや為すすべもなく、「毎回、ウチを当てにされてもね・・・。でも断る訳にもいかないし・・・」と両親が嘆いていたのをなんとなく覚えていて、万博が終わるまでの間、それはもう大変だったようです。ところが子供達にしてみると事情はかなり違っていて、毎回案内役として付き合う父や母に同行し、万博に連れて行ってもらえると言う、おこぼれに預かることができるのであります。その結果が、6回だった訳なのです。

 

子供ながらに心がトキメキまくりのEXPO70。本当に楽しかった。当時、TVで観る円谷プロの怪獣達も確かに楽しかったのですが、小学生のボクが、特撮ではないリアルの大エンターテイメント、今で言う巨大アトラクションに心が動かされない訳はなく、世間のことなど何も知らない幼き少年の身体の中で起きる文化的大革命。新たな価値観を創造する化学反応の連鎖。いや、これはもはやBIG BANGと言っても良いくらいの強烈な現象を引き起こす一大イベントでした。それまでのボクの“将来の夢”は、確かプロ野球選手だったような。1970年以降、しばらくの間は、「万博を作る人になりたい!」に変わってしまうくらい、ただただ万博に夢中になっていました。ボクにとっては夢見心地の半年間。両親にとっては、針のムシロのような地獄の半年間。そんな、あの頃の我が家の思い出が、この箱には詰まっていました。

1970年の後も関西では、1981年に神戸の人工島、ポートピアで開催され、自主制作映画の不屈の名作と一部(だけ)で今も語られている、「宏一と金五郎」(長井真成監督作品)の舞台となった“神戸ポートアイランド博覧会”(通称、ポートピア‘81)。1990年、大阪市鶴見区と守口市に跨る鶴見緑地で開催された“国際花と緑の博覧会”(通称、花博)の二つの国際博覧会が開催されています。これらの博覧会のちょうど間の1985年には、つくばで、“国際科学技術博覧会”(通称、つくば万博)が開催されていますが、関西では千里万博の後、10年毎に国際博覧会が催されていたのですから、これは驚きです。確かに日本という国は、明治時代に催された内国勧業博覧会の大成功に見られるように、国内産業の技術発展には、国際博覧会の牽引が無くてはならないと言っても過言ではありません。特に1903年(明治35年)3月1日~7月31日、大阪天王寺と堺で開催された第5回の内国勧業博覧会は、関西人にとってかなり衝撃的だったようです。大阪の第一会場は、今の天王寺公園、茶臼山、そして新世界を合わせた広大な敷地が会場となり、5ヶ月間の入場者数は、435万人と言われています。ちなみに、前の千里大阪万博の入場者数が、6,421万人。ポートピアが、1,610万人。花博が、2,312万人なので、千里万博の入場者数がとんでもなく抜きん出ていることが判ります。

 

前回の大阪万博を知っている人達は、前の万博を“千里の万博”と言っているようです。今回の万博は、後に“夢洲の万博”と呼ばれるのでしょうか。この夢洲大阪万博、当初は、「入場券があまり売れてない、大赤字の万博」とか、「維新の万博」とか揶揄され、もう一つ盛り上がりに欠けるイメージが植え込まれてしまった感がありました。ただ関西人にとって、特に前回の万博を知っている年代の人々にとっては、皆さんのそれぞれの人生の中で、千里万博のインパクトがどうも強すぎて、幼心に、青春の1ページに、はっきりと焼き付いている思い出をとにかく大切にしたいと言う思いから、今回の万博にはそれほど入り込めず、静観していたのかな、なんて思っています。千里丘陵に残された太陽の塔だって、なんや判らんけど、いつの間にか保存されることが決まり、時折、北摂のあの辺りを高速道路で通り過ぎる時に、ぬ~っと突然に現れる、あの不気味な容姿の建物にいつしか親しみを覚えるようになり、大阪人は、グリコの看板、大阪城に匹敵する大阪を代表するランドマークとしての称号を太陽の塔にも与えたように思います。数年前に久しぶりの内覧が可能になった折も、観覧申込者数は増え続けたようです。ボクも観て来ましたが、個人的な思いとしては、今でも、「あの塔の形状、なんだか良く理解できませんし、岡本太郎さんの世界観、ん・・・どうなんだろ・・・正直良く判らん」であることに変わりません。ですから、内覧に言った時も、「何が何でも太陽の内部をもう一度、登りたい!」と言うのでは決して無くて、50年の歳月を経て、あの時と同じ場所へ行って、できるものなら遠い日の自分に会えたら良いな、そんなノスタルジックな思いからでした。大人になって社会に出て、うまく行った事、うまく行かなかった事。人のためになった事、人に迷惑かけた事。そんな色々な出来事があって、そして、日本と言う国全体も、皆で懸命に頑張って突っ走っていた時代。千里の万博、そしてその象徴である太陽の塔と言うのは、皆がまだ若かった頃のあんな事やこんな事を思い出させてくれる、特別な意味を持ったイベントだったように思うのです。

 

あの時からたくさんの時間が経って、自分は一体何をしていたんだろ。過去を振り返る時、人はそんな事ばかりを反芻してしまいます。その時その時の瞬間をボクはボクなりに、一生懸命、生きて来たつもりだけど、なんたって、時が経つのは早い。いや、早いようで、実は遅かったりするけど、いやいや、やっぱり早い。“Time flies like an arrow”(光陰矢の如し)とか、“Time and tide wait for no man”(歳月は人を待たず)とか言われる所以だ。この、全て初めて経験するマイライフと言う、ボクに与えられた長いようで短い時間の中で、そんな上手に結果を出し続けて行ける程、ボクは器用な人間じゃない。だからと言って、ボク達は、毎日をダラダラ生きていて良い訳でも無さそうだ。じゃ、今できることって何だろって考えたら、後に悔いを残さないよう、今この時を一生懸命に生きるしか無さそうなのです。最近、学生時代の先輩、同期の人とお会いする機会が多い。学生時代が終わり、社会人としての生活が始まってからの自分の生き様をあれこれ思い浮かべてみて、大して大物にもなっていない自分の歩んできた人生のちっぽけさに嫌気が差したりもします。大成功でも納めていたら、もっと胸を張って皆に会いに行けるのに、なんて思ったりもします。でもね、そんなことよりももっと大切なのは、自分なりに懸命に走り続けた日々のその後に、その結果がどうであろうと、気負うこと無く、着飾ること無く、昔とまったく変わらぬ姿のままで、再会できる友がいると言う事が、なんて素敵な事なんだろうと思うのです。突然古びた箱から飛び出してきたEXPO70のパンフレットは、ボクにこんな事を考えさせてくれました。

 

実は、5,000円の前売り券、既に手に入れてあって、今月、予約を入れました。夢洲の万博はボクに何を観せてくれるのでしょう。楽しみ。でもね、今回の万博、前回の万博のようにタイムカプセルの様なサプライズはありません。ボクがボク自身の成長を遠い未来に振り返り、確認できるような万博に成り得ないえない事は、はっきりしています。でも、せっかく行くんだから、何かを見つけて来られたらいいなと思っています。ボクは、もう過去に万博を4つも経験しているから、楽しみ方はちゃんと心得ているつもり。ゲートをくぐる時、多分ボクの胸は、50数年前の少年だった頃のボクと同じようにときめいている、これだけは間違いないです。

となりのレトロ調査団~「千里万博世代は、夢洲万博を受け入れられるのか」の巻、終了です。今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。

 

となりのレトロ調査団~「船で大阪の町を一周するのだ!」の巻

 

 

となりのレトロ調査団ではこれまでにも、今はもう無くなってしまった大阪市内の川をいくつかご紹介して参りました。北の新地、その花街のど真ん中を流れていた曽根崎川こと蜆川(しじみがわ)。天満地区の物流を担い、天満組の発展に大きく貢献した天満堀川。現在の靭公園辺りに移転した海産物市場のために淀屋が中心になって開削されたと言われる海部堀川。船場西端を南北に貫く大動脈として下船場の開発の原動力になった西横堀川、等など。これらの堀川、今はもうありません。秀吉によって大坂城が建設され、1585年に城の外堀として東横堀川が開削されて以降、江戸時代にたくさんの堀が作られ、その網の目状の交通網によって構築された船物流に支えられ、船場・下船場の町は大きな発展を遂げました。徳川による治世が終わりを告げ、明治、大正、昭和と時代が移り変わり、船に代わって車による社会が形成されたことで、世の中は一気にモータリゼーション化に向かって邁進し始めた時、すでに行き交う船の姿の無い、ゴミにまみれて、淀んだ水が悪臭を放つ堀川の存在には、もはや意味がなくなってしまったのです。役割が終わったどころではなく、環境汚染と言う新たな社会問題を引き起こす大きな要因として、早急に改善すべき方策を練られなければならない立場に追いやられてしまった訳です。都会における過去の遺物として、それはもう邪魔者扱い。昔、あれほどお世話になったのに(T_T)・・・そんなことなど、もう誰も覚えていないことを良い事に(T_T)・・・埋められ新しい道路になったり、遊歩道・公園になったり、さらに掘削されアンダーパス化されたり、その上に店舗・住居が建てられ新しい番地が生まれたりして行くことになるのです。そして姿を変えて最も効果的に活用されたのは、その上に高速道路が建設されて行ったことです。当時の人々にしてみたら、夢の中ですら想像もできない道路を空中に作り上げると言う離れ業を実現して見せました。東横堀川のように埋め立てず、川の上に高速道路を建設した例もありますが、現在市内を走る高速道路の橋脚が立っている場所の大半は、元堀川だったのですから、町づくりを託された後世の人々は、先人達への敬意を決して忘れた訳では無く、埋め立てた堀川を礎にして、未来につながる財産を創り上げたのです。ただ、ボク個人的には、「せめて西横堀川だけでも残っていたらなぁ・・・」とか、「四ツ橋に今でも四つの橋が架かっていたら、素敵な景色だろうな・・・」とか、まあ、あれこれ思ってしまいます。

 

 

江戸時代の大坂の地図です。こうして見ていると、実にたくさんの川が流れていました。「ホ-っ、ここの町名に堀の文字が付いているのは、そういう意味だったのか!」。これ、結構あります。地図中、赤色で表記している堀川は現存しません。黒色が今でも残っている堀川です。大川や堂島川、木津川のように元々が、その場所を流れていた川で、新たに開削した堀ではないものもありますが、江戸時代に開削された堀のほとんどは埋め立てられていて今はもうありません。残っているのは道頓堀くらいです。この地図をしげしげと眺めていてふと思った事があります。堂島川を西に向かい、中之島の先端部を過ぎた辺りで合流する木津川に入る。そのまま南下して、今度は道頓堀に入って東に向かってミナミの町を横断。川なりに進んで、東横堀川に合流しそのまま北上すると、なんと再び土佐堀川に戻って来るではありませんか。大阪の市内を一周りできるのです。但し、これらの川がちゃんと繋がっていれば・・・の話ですが、大半の堀川が埋め立てられてしまったにもかかわらず、残っている四つの川を辿れば、JR環状線の内側にもう一つ、船で市内を一周できる、堀川の環状ラインが存在すると言う事になるのです。我ながら、とんでもない発見をしてしまいました。居ても立っても居られなくなり、すぐに“となりのレトロ調査団”顧問の杉さんに連絡をしました。

 

ボク「杉さん、凄い発見です! JR環状線の内側にもう一つ、船で移動できる大阪環状線が存在するのですよ! これって、凄いですよね!」。

杉さん「ああ。それね・・・皆、知ってますけどな。知りませなんだか?」。

ボク「え~。皆、知ってるんですか・・・な~んだ」

 

結果的に拍子抜けしてしまった、我ながらの“今世紀最大の新発見”でしたが、せっかく見つけたルートですし、実際に一周りしてみたらどんな感じだろ・・・と興味は募るばかりなので、「んじゃ、行かない手は無い。実際にこのルートを辿って、大阪の町をぐるりと一周りしちゃえ!」と言うことで、今回はなんと船をチャーターしちゃいました。仲間も誘って、お弁当を頂きながらの2時間の大阪川巡り。となりのレトロ調査団~「船で大阪の町を一周するのだ!」の巻です。今回は、映像制作グループ“キラキラ”さんとのコラボ企画となりました。予告編映像は、こちらから御覧ください。

 

となりのレトロ調査団~「船で大阪の町を一周するのだ!」の巻(予告編)