となりのレトロ調査団
「武庫川線は幸薄いローカル線なのか」の巻 その①
以前、南海高野線の汐見橋駅をご紹介したことがありました。“都会の神秘”とか、“大阪市内に残る唯一の秘境”とか言われ続けてきた、岸里玉出駅から汐見橋駅までの4.6kmの支線、通称汐見橋線が、生き残りを掛けた最後のチャンスであった、「なにわ筋線転用案」が消失してしまい、こりゃもういつ廃線になってもおかしくない状況なのですが、今この時も営業を続けていて、そのこと自体が奇跡以外の何ものでもないと思っているのは、ボクだけではない筈です。なんたって汐見橋駅の一日の利用者数が688人。沿線の西天下茶屋駅は249人、木津川駅は164人ですから(2023年データ)。汐見橋線の利便性を最大限に引き出すことができる次なるアイディアが出るまで、なんとか時間を稼がなければなりません。例えば、南海沿線方面へ出かける時に、安直に南海難波駅からひょいと電車に乗るのではなくて、多少面倒臭くても、JR大正駅から岩崎運河に架かるトラス橋を眺めながら、トボトボと汐見橋駅まで歩いてみたり、地下鉄千日前線の桜川駅まで移動して、隣にポツリと建つ汐見橋駅舎の佇まいに風情を感じ、のんびりと下り列車の入線を待ってみたりして、自分一人分でも、なんとか汐見橋駅の、汐見橋線の利用者数を上げることに貢献できたらとつい考えてしまいます。これ実は、大阪市内から大和川を越えて堺まで走っている阪堺線もしかりで、よくもまあ、ちんちん電車が昔と変わらない姿のまま走り続けているものだと、こちらもはやり奇跡と感じずにはいられませんので、阪堺線に対しても微力ではありますが、何か貢献できたら良いなと言う思いは尽きないのですが、ところが実際に阪堺線に乗ってみられたらよく判りますけど、阪堺線、平日の日中でも結構な利用者数がありますから、やはり気になるのは汐見橋線と言うことになります。
汐見橋線の行く末ばかりを気に留めながら、ボクの日常は過ぎて行くのですが、「汐見橋線と同じように幸薄い運命を背負った路線、支線、終着駅がこの関西にまだあるのなら、なんとかしてあげないと・・・」と言う使命感のような思いが募り、あれこれ調べてみましたら、ありました。大阪の西隣り、兵庫県西宮市に。それも、我が家から愛車のクロスバイクに跨って20分も掛からないくらいの場所に。それは、阪神電車の武庫川線と言う路線で、こんなに近くにあるにもかかわらず、今まで乗ったことも、見たこともなかったので、現地に赴くことにしました。現地に赴く前に、下調べを行ったのですが、本当に知らないことだらけでした。なかなか興味深い話も満載でした。
阪神武庫川線と言うのは、兵庫県西宮市の武庫川駅から同じ西宮市にある武庫川団地前駅までの1.7㎞を結ぶ、阪神電鉄の支線です。阪神本線の武庫川駅と連絡していて、武庫川西岸の築堤沿いを海に向かって走っています。「単線ローカル線特有の悲哀感がプンプンと漂っていて、汐見橋線のように、いつ無くなってもおかしくない路線」。そんなイメージを勝手に抱いて現地に乗り込みました。時刻表を見てみると、昼間はおおよそ20分間隔。平日朝は12分間隔。土休日朝・夕方で10分間隔の運行なので、ボクのイメージを遥かに越えた本数で営業していました。後で調べてみて判ったのですが、2023年の武庫川駅の利用者数は27,744人で、阪神電車全駅51駅の中では、なんと上から11番目だそうです。終点駅にある武庫川団地に住む人々にとっては、生活の足として通勤・通学になくてはならない移動手段になっています。夕刻間近、武庫川団地前駅にやって来ましたが、到着した下り電車から吐き出されてくる人々の群れが、周辺に立ち並ぶ高層団地群に吸い込まれていく様子に、マイナスの空気感など微塵もなく、逆に武庫川線沿線に生きる人々のたくましさを感じさせてくれました。ここに来てみて、もはや汐見橋線のような心配は無用で、決して幸薄いローカル線では無いことが判りました。気に掛けなければならない路線が一つ減り、心が楽になりました。フ~ッ。やれやれ。
この武庫川線が誕生した経緯と廃止までの歴史はと言うと、現在は武庫川団地となっている西宮市高須町一帯には、かつて軍需工場であった川西航空機(現・新明和工業)の鳴尾製作所がありました。武庫川線の最大の敷設目的は、この川西航空機の工場へ従業員や資材を運ぶことにありました。1943年(昭和18年)に武庫川駅~洲先駅(その後、当時の洲先駅は現在の武庫川団地前駅)間の営業が始まりました。翌年には、武庫川駅からさらに武庫川沿いを北上し、国道2号線の阪神国道線、武庫大橋駅との連絡駅として作られた武庫大橋駅~武庫川駅間が開業します。しかし敷設工事はこれで終わるのでははく、軌道は武庫大橋駅から武庫川沿いをさらに北上、省線(今のJR神戸線)の前で軌道は大きく左にカーブして、甲子園口駅に入線していました。一般客の営業は、武庫大橋駅~洲先駅でしたが、川西航空機へ運び込む貨物列車に関しては、甲子園口駅の西隣の西ノ宮駅、そして甲子園口駅からの貨物列車が乗り入れていて、客用路面電車と貨物列車の両方が走れるよう、線路は三線軌条(2種類の線路幅の車両が対応できる方式)で敷設されていたそうです。ところが、開業後1年も経たないうちに川西航空機鳴尾製作所が空襲の被害を受けてしまったので、武庫川線は期待された目的を十分に果たせないまま終戦を迎えています。貨物輸送としての利用は川西航空機工場を接収した進駐軍の要請もあり、戦後も続けられたそうなのですが、1950年代に入って運行は停止され、1958年(昭和33年)に正式に廃止となっています。
旅客営業としてはどうなったかと言うと、戦後すぐに全線の営業が休止されるのですが、1948年(昭和23年)、武庫川駅から現在の洲先駅までの1.1kmのみの運行が再開されます。その後、沿線開発が進む中で、終点駅周辺の広大な工場跡地が武庫川団地として再開発されることが決まり、団地住民輸送を主な目的として、1984年(昭和59年)武庫川団地前駅までの営業が再開されることとなりました。武庫川駅以北、甲子園口駅から武庫川駅まではどうなったかと言うと、鉄道の軌道は取り除かれ、全て廃線となりました。但し、本線武庫川駅から北に100m程だけですが、引き込み線として残されています。武庫川沿いの軌道跡は、当時のままの地形が残されている箇所がいくつもあって、なかなか感慨深いものがありました。ちなみに、沿線には、甲子園ホテルがありました。1930年(昭和5年)に開業したホテルで、かつては、「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と謳われたほどの本格的な洋式ホテルです。現在は武庫川女子大学甲子園会館となっています。
阪神電車のイメージとしてまず頭を過るのは、何と言ってもその営業距離が短いと言うこと。ボクの認識では、大阪・梅田から神戸・三宮までですから、そりゃ短いです。当然、路線拡大を模索した歴史があると思うので、その辺りどうだったのか、“となりのレトロ調査団”顧問の杉さんに尋ねてみたところ、「いやいや、ちゃいまっせ。阪神の西側の駅は、元町でっせ。コーイチさん、鉄ちゃんともあろう人が、そんなん間違えてどうするんです?」と。いやいや、ボクは鉄ちゃんではないので(-_-;) 見事にポイントの外れた答えが帰ってきました。梅田駅から元町駅までとしても、一駅増えただけなので、距離的にはさほど変わりません。これに武庫川線の1.7㎞、2009年に開業した阪神なんば線の西九条から難波間3.8㎞を足しても、全長48.9㎞。全国の私鉄順位でみると、一番短い相模鉄道の38.1㎞に次いで2番目に短い私鉄なのだそうです。上位3位が、名鉄の444.2㎞。2位が、東武の463.3㎞。1位は、近鉄の501.1㎞となっています。確かに、関西に住む者として、近鉄は難波・上本町・あべの橋から名古屋、伊勢、鳥羽、京都、奈良まで行くことができる電車で、JR並みの遠距離利用が可能ですから、ただただ凄い!の一言に尽きます。それに比べ、阪神は約1/10にも満たない営業距離で、この現実はどう足掻いたって埋めることはできませんから、後は街中を走る路線として、とにかく利用者数を上げ、いかに効率よく収益を上げるのが阪神の使命となってくると思うのですが、とは言え、1896年(明治29)に設立した摂津電気鉄道が、神戸~大阪間の軌道の許可を得て、1899年(明治32年)阪神電気鉄道と改称して以来、当初は阪神も積極的に路線拡大を模索して来た歴史があります。次はその辺りのことに触れてみたいと思います。
阪神電鉄の歴史を調べていると、“今津出屋敷線”と言うワードが出てきました。今津駅と出屋敷駅。西宮駅と久寿川駅の間にあるのが今津駅。武庫川を渡って、センタープール駅と尼崎駅の間にあるのが出屋敷駅。今も昔も、同じ沿線上の駅でありますから、「今津と出屋敷をつなげる線って、どういうことなんだろ?」と不思議に思い、さらに調べてみると、実はこれ、1924年(大正13年)に阪神が申請し、実際に許可が下りた当時の新路線計画なのだそうで、今津駅から湾岸エリアを通り、武庫川を越えて、出屋敷駅までつなげてしまうという構想が有って、一部工事に着手していたと言うのです。そのきっかけと言うか、阪神がこの構想を掲げざるを得なかった背景があって、それはと言うと、ここでもやはり宿敵、阪急が登場します。今では経営統合して、阪急阪神ホールディングスとして手を結んだ両社ですが、当時は相当やりあった間柄で、“仁義なき戦い”とまで言われ、両社の間には激しい抗争の歴史が有りました。阪神が“今津出屋敷線”の免許申請をした時に、阪急も同じように、“今津尼崎路線”の免許申請を出していたと言うのです。阪急は、西宮北口駅を挟んで、すでに北に宝塚駅、南に今津駅。この間を今津線でつないでいましたが、阪急の新構想では、さらに今津から南に下り、湾岸エリアを浜回りで東へ進み、阪神尼崎駅辺りで北上。そのまま、自社線の塚口駅、伊丹駅、宝塚駅まで伸ばすと言う計画で、宝塚~西宮北口~十三~豊中~川西~宝塚をぐるりと囲む、現在も営業しているループ状の路線とは別に、湾岸エリアを包括する、宝塚~西宮北口~今津~尼崎~塚口~伊丹~宝塚をつなげる新たなループ路線計画を進めていたようなのです。東京の私鉄の多くがそうであるように、山の手線に接続、連絡する起点駅から郊外へ一直線に伸びて行くような路線ではなく、山手線や環状線のような循環型路線を都心部から少し離れた郊外に構築してしまおうと言う計画で、阪急は西宮北口、宝塚を起点とする2つのループを作り上げ、阪神間の鉄道路線を小豆色で染め上げてしまおうと考えていたようなのです。(正式にはマルーンと言う色なのですね) ところが、国の判断は阪急の思いとは裏腹に、「阪神本線より南側は阪神はんに、北側は阪急はんに、ひとつお任せするということで、どうでっしゃろ?」と言うことになり、阪急はんの申請は却下されることとなりました。こうなると、もう阪急はんの横槍は入らず、西宮~尼崎の湾岸エリアの開発は阪神はんの独壇場、となる筈なのですが、事はうまく運んだのでしょうか? どのような展開になったのかは、後半で・・・。
となりのレトロ調査団 ~「武庫川線は幸薄いローカル線なのか」の巻 その②へつづく











