となりのレトロ調査団

となりのレトロ調査団

関西を中心に、身近にあるレトロな風景を徹底的に調査します。

となりのレトロ調査団~「大阪ヒガシを“ガシ”と言ったら堺の人に怒られた」の巻

 

大阪の2025年を振り返ると、とにかく予想外の万博人気と押し寄せるインバウンドによる賑わいで、今まで見たことも経験したこともない騒然とした一年でした。年が変わり、落ち着きを取り戻した感がありますが、最近大阪の街で耳にするのは、“ヒガシ”に関する話題であります。「大阪のヒガシ? はて? それは何でっしゃろ?」と思われる方もおられるかも知れませんので説明しておきます。

 

大阪で買い物やら食事やらを楽しむ繁華街と言えば、兎にも角にもキタとミナミ。別の言い方をすると、梅田辺りと灘波辺り。さらに南にある天王寺の3つの拠点に環状線のループが上手く重なり、大阪の街はこの南北に連なる縦ラインの導線がもたらす人の賑わいが牽引して、現在のように大きく発展してきたと言っても過言ではありません。この“キタ”と“ミナミ”という分け方には、歴史的な背景があります。織田信長が大坂支配、ひいては西国への牽制のために無くてはならない軍事拠点として目を付けたのが、上町台地の北の端に建つ要塞化された大坂本願寺(石山本願寺)。10年にも及ぶ戦の末、なんとか彼らを蹴散らし、その跡地に羽柴秀吉が築いた城が大阪城です。その城下町として、城の西側の低地に広がる砂地、湿地に開発されたのが船場の町です。とても人が住めるような土地ではありませんでしたので、当時すでにたくさんの人で賑わっていた堺、伏見、平野から商人たちを強制的に移住させました。大阪市内中央区に伏見町、平野町、堺屋町(明治初頭までありました)と言う町名があるのは、その名残です。さらに堺筋はそのまま紀州街道につながっていて、船場と堺を直結する街道でした。徳川の治世に大きな発展を遂げた船場ですが、より円滑な自治管理、税の徴収、火消しなどに代表される町奉行の管理など、確実で安全な行政が執り行われるよう町は二分されました。大阪城前の法円坂から真西に引かれた一本道である本町筋(今の本町通り)を境に、北の堂島川(大川)までを北組。南の道頓堀までを南組としたのです。その後、大川の北岸に青物市場が出来、大きく発展した天満組を加えて、大坂三郷と称するようになるのですが、大阪の町はこの時からキタとミナミの2拠点で牽引していく運命を背負うことになり、当時からダークホース的な存在であったテンマがそれらに追随すると言う流れが既に出来上がっていたのですが、そんな潮流に「待った!」をかけるのが、この“ヒガシ”の存在なのです。

 

東京では、江戸城(現、皇居)を中心にして、品川、目黒などを城南、渋谷、新宿を城西、文京、豊島などが城北、そして墨田、江東などを城東と呼ぶように、大阪でも大阪城から見て城の東側を城東と呼んでおりました。実際の区名にも城東区がありますが、城東と呼ばれる地域は元々、外堀の北東の隅に位置し、交通の要所でもあった京橋を玄関口にして、寝屋川に沿って東大阪方面を指していたようなのですが、この京橋と言う場所は、実際には都島区。しかもおじさん達にとっては、夜のお遊びでは、“京橋は、エエとこだっせ♪”的にリーズナブルなイメージが強い。キタ、ミナミに対抗するための“ヒガシ”の中心地に京橋を据えるにはちょっと危険なのであります。しかも城東エリアだけではどうも地味過ぎる。“ヒガシ”の定義としては、キタやミナミがそうであるように、必ずしも繁華街でなくても良い。そこで目を付けたのが、中央区の森ノ宮。大阪城公園の南東の端に位置する森ノ宮の駅のすぐ横に大阪公立大学森ノ宮キャンパスが開校したことを切掛けに、JR環状線京橋駅から大阪城公園駅、森ノ宮駅、玉造駅までのエリアを一括りにすることで、大阪誕生からの長い歴史の証人である“ヒガシ”が持つアカデミックな魅力が、江戸時代から続く商業を軸としたキタ⇔ミナミの硬直化した導線に大きな刺激を与えそうなのです。ポツリポツリ、この辺りにも高層マンションが建ち始めていて、再開発の動きにも繋がっているようです。

 

大阪公立大学と言うのは、2022年に大阪市立大学と大阪府立大学が統合してできた日本最大規模の公立大学で、学生数はなんと16,000人。従来のそれぞれのキャンパス、市立大の杉本町と阿倍野のキャンパス、府立大の中百舌鳥、りんくうキャンパスに加えて、大阪市が管理していた下水処理場、ごみ焼却場、JR西日本の車両工場跡地であった森ノ宮駅の東の国有地に2025年、新たに森ノ宮キャンパスが開校されました。コンセプトは、「知の森」。地域、企業と連携を図る都市型キャンパスを謳っています。

 

2025年の万博のためにコスモスクエア駅から延伸された夢洲駅から森ノ宮駅を経由して東大阪市の長田駅までを繋ぐ、“大阪メトロ中央線”。大正から旧長堀の下を通り、玉造駅から北上して、森ノ宮駅を経由し、京橋駅から門真駅へ延びる“長堀鶴見緑地線”。この二つの地下鉄とJR環状線が交差する駅が森ノ宮駅。交通のアクセスは抜群に良くなっています。昔、学生の頃、近鉄バファローズの試合を観に、何度か日生球場を訪れた記憶が有るのですが、当時は環状線と地下鉄中央線がつながっていましたが、この辺りはもっと人が少なくて、寂しかったような気がします。確か、球場の横にバッティングセンターがあったのを思い出しました。

 

 

あれこれ調べてみると、近隣には大阪歴史博物館、森ノ宮遺跡、さらには589年、聖徳太子が自ら彫ったとされる四天王像を祀った神社で、今の四天王寺の前身として元四天王寺と言われていた鵲森宮(カササギモリノミヤ:森之宮神社)があります。排仏派の急先鋒として蘇我馬子と対立し、馬子・聖徳太子連合軍に敗れ、敗死した物部守屋の邸宅跡に鎮魂の意を込めて建てられたとも言われています。さらに、大阪城のすぐ南側には広大な公園として整備されている、とんでもない遺跡が有ります。“難波宮跡”です。645年に孝徳天皇が「大化の改新」で設置した大規模宮殿で、686年に焼失するまで続いた前期難波宮(難波長柄豊碕宮)。その後再び、726年に聖武天皇が再建し、その規模は奈良の平城京とほぼ同様とされていて、744年に首都となり、784年に長岡京に遷都されるまで存続した後期難波宮がありました。ここが大阪発祥の地と言って間違いありません。国道308号線(別名:中央大通り)のすぐ北側にある道が、暗越(くらがりごえ)奈良街道。生駒山系の暗(くらがり)峠を越え、大阪と奈良を結ぶ最短ルートでした。暗越奈良街道を西に歩いて行くと、難波宮跡公園を囲うフェンスのすぐ横にたどり着きます。もちろん当時を思わせるものは何もありませんが、1300年の時を超え、ボクの妄想が広がります。

 

下級官吏のボクは、上級官吏である上司の命令で難波宮へ出向くことになった。難波宮朝堂院の屋根瓦修繕に際し、平城京での同一案件で掛かった費用を先方の担当官吏に伝えるべく、木簡に記された大量の帳簿を携え、一連の普請に掛かった費用の説明をしなければならないのだ。ヘトヘトになりながら峠を越えて行く。いつもの通い慣れた道なのだが、さすがに冬の行程は寒さが堪える。朝、午前中の早い時間に平城京を出立したにもかかわらず、到着した頃には陽はすでに西に傾き始めていた。澄んだ空気で研ぎ澄まされた陽の光は、低い角度から斜光となってボクの目を射抜き、一瞬眩しさのあまり視界が真っ白になった。目が慣れた次の瞬間、目の前に広がるのは、この世の物とは思えない、整然と配置された難波宮の回廊の鮮やか過ぎる朱色。見慣れることのない眩しいほど鮮やか風景にボクの瞳は再び幻惑されるのだった・・・。

 

 

さらに、この玉造エリアには、カトリック玉造教会(大阪高松カテドラル聖マリア大聖堂)や明治時代、神戸に移転するまで外国人居留地が設けられていた大阪川口に設立されたミッションスクール、ウヰルミナ女学校を前身とする大阪女学院があります。粉もん的ソース臭に代表される庶民的な食文化こそが最大の魅力とする大阪の価値観とは明らかに趣を異にする風景がここにはあります。

 

 

今後ますます脚光を浴びるであろう“ヒガシ”にボクが考えた呼称が有ります。この国の山口さんや、田口さんや、井口さんらが皆さん揃って、“ぐっさん”と呼ばれているように、“ヒガシ”をこの際“ガシ”としたいのです。「今日は、ガシをぶらり散歩して、そのままガシで飯しよ!」、みたいな感じ。ミツケとかアキバとかニコタマ、ナカメ、サンチャみたいで、ちょっとカッコよくないですか。

 

この“ガシ”を堺の住人であるボクの知人に伝えてみたところ、こんなことを言われた。

「“ガシ”ちゅうんはな、昔も今も、堺東(サカイヒガシ)のことや。ややこしいこと言うてたら、しばき回わされるど!」。ところが別の堺の住民に尋ねてみたところ、「堺の人が皆、堺東を“ガシ”と呼んでいる」についてはどうも怪しいのだ。「そんなん言わへんて。ハズいやん!」と言う人と、「言うてる。言うてる。うちらの間では堺東は“ガシ”やで」と二分するのです。堺の人達が一致団結して堺東を“ガシ”と呼んでいないのなら、大阪のヒガシをこの際、“ガシ”と呼んでも罰は当たらないでしょうから、積極的に“ガシ”を広めて参りたいと思います!

 

今後皆さんの間で、京橋や森ノ宮が話題に出た際には、どうか勇気を振り絞って、“ガシ”と言ってみてください。皆様一人一人が、繰り返し“ガシ”と呼んでいただくことで、“ガシ”は一人歩きします。それまでの間のご声援、ご支援を賜りたく存じます。“ガシ”、“ガシ”、“ガシ”でございます。ひたすら働いて、働いて、働いて参る所存でございます。勉強するなら、“ガシ”。休日の歴史散歩に、“ガシ”。仲間との食事&呑みは、“ガシ”。これからもどうか“ガシ”をご愛顧いただきますよう、よろしく、よろしく、よろしくお願い申し上げます!

 

となりのレトロ~「大阪ヒガシを“ガシ”と言ったら堺の人に怒られた」の巻、終了です。最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。

となりのレトロ調査団~「甲山って本当はなんだったのか?」の巻その①

 

「あなたは、ボクにとって、空気のような、そんな存在なんです!」

 

そう言って、なにやら雰囲気が悪くなったことがある。人間やその他の生物にとって空気は無くてはならないモノ。取り分け酸素は無くてはならないモノと言うのは学校で習った通り。脳や全身に送られ、生命活動は維持されているし、植物は二酸化炭素と日光と水を使ってとても上手に栄養を合成していますから、全ての生物にとって、空気は無くてはならないモノである筈。このセリフに傷つく理由が判らん。勇気を振り絞って伝えたにもかかわらず、あまりの反応の悪さに顔面蒼白。青天の霹靂。そのことを後日、別の友人に話したら・・・。

 

「そらそうやって。誰でも、“君は空気みたいに有って当たり前のモノ”と言われたら怒るやろ!」。

 

・・・なのだそうだ。ボク達の周りに存在する空気は、“生きていくために無くてはならない掛け替えのないモノ”ではなくて、“有って当たり前のモノ”と真逆の意味として伝わってしまったようなのです・・・。

 

この“居て当たり前”とか“有って当たり前”という類のモノ、身近にたくさんあります。例えば、電気。暗くなれば、照明のスイッチ一つで部屋は明るくなって、夜でも普通に生活ができる。有り難いことに、家電製品は常時コンセントにつながっているので、ONにすればすぐに稼働してくれる。そう考えると、生活インフラ全般がそれに当てはまる。水道の蛇口を捻ればジャボジャボ水が流れてくる。有り難い。ガスだって同じ。もう少し視点を広げてみると住居とか家族とか・・・。電車等の交通機関もそうだし、今の時代ならスマホは確実にその類に当てはまる。何等かの理由で、政府が突然、「本日からスマホの個人使用を全面的に廃止しまーす!」と発表して、ほぼ全ての一般国民からひとつ残らず携帯電話を取り上げたとしたら、恐らくあちらこちらで暴動が勃発し、発狂する人が続出し始めると、そこに目を付けた闇の商人が裏スマホを販売し始める。禁通信法時代の到来。通信を防御する側と抜け道を探る側の凌ぎ合い。この世の中はさらにアナーキーな時代に突入していく。この“有って当たり前”の最大の特徴は、失うと分かった瞬間に“無くてはならない”に変化すると言うことなので、ボクの告白もあながち間違えではないのであります。

 

さて、今日もロードバイクに跨り隣町のジムへ向かう途中、武庫川に架かる橋の手前にある信号が青に変わるのを待っている間、冬の冷たい澄んだ空気越しにそれほど遠くない六甲の山並みを何気なく眺めていると、長年ボクとっての超“有って当たり前のモノ”が目に入ってきました。「♪六甲おろしに 颯爽と 蒼天翔ける・・・」でお馴染みの六甲山系は、神戸方面からつながってきて、東の端の西宮辺りで、内陸部の宝塚方面へ角度を変えて行くのですが、その曲り角辺りにポツンと立っているのが、甲山。ボク達は普段、普通に六甲山と呼んでいますが、実は“これが、六甲山”と言う山は存在していなくて、兵庫県南東部、東西30㎞にわたって連なる山並みの全体が六甲山系であり、これを六甲山と呼んでいるのです。ちなみに、六甲山最高峰の地点は931mだそうです。その六甲山とは独立した感じで、ポツンと標高309mの小山が立っています。それが、ボクにとって長年の有って当たり前のモノ、甲山。そのポツリ感は、福岡県飯塚市辺りのボタ山にも少し似た風景ではありますが、数百万年前の地殻変動の隆起でできた甲山は、太古の昔からここに立っていて、人類がこの世に現れた頃もすでに同じ場所に有った訳ですから、この地域で見事に人類になり上がったボク達の諸先輩方にとっても、甲山はすでに当たり前の存在だった訳で、その“当たり前さ加減”はきっと半端なく、脳の一番奥深い部分に埋め込まれている無意識の記憶の断片の一つである筈なのです。では、この大昔から“有って当たり前”のモノだった甲山が、“無くてはならない”モノであったかどうか、その辺りを考えてみたいと思います。

 

六甲山の名前の由来は、大和から見て、“向こう”の方に見える山だったため、それが転じて、“武庫山(むこやま)”となったとされています。さらに、“武庫(むこ)”が六つの甲の“むこう”に転じて、“六甲山”となったのだそうですが、神功皇后が朝鮮出兵からの帰途、6人の反逆者を捕え、その首と兜を埋めたことから“六甲”の字があてられた説もあります。甲山の名前の由来も諸説あり・・・

 

①  昔大きな松の木が2本生えていて、その兜のような形状から、甲山と呼称されている説。

 

②  古代日本において、神が宿ると信じられていた神聖な山で、自然そのものが神の依り代(よりしろ)とされ、祭祀の対象とされた場所であった。そのため、「神の山(コウノヤマまたはカンノヤマ)」が転じて、甲(コウ)の山と表記することになった説。

 

③  十四代仲哀天皇の皇后、神功皇后が国家平安守護のため山頂に兜(甲)および如意宝珠を埋めたから説

 

この甲山のすぐ下、麓に神呪寺と言うお寺さんがあるのですが、天長8年(831年)、五十三代淳和天皇の妃(如意尼)が弘法大師を招いて創建したとされていて、そのことからも甲山のどこかに宝が隠されているのではないかと言う話が伝えられております。明治の初めには、神戸に来航した欧米人より「ビスマルク山」という俗名もつけられており、それは19世紀頃のドイツ帝国の首相であったオットー・フォン・ビスマルクがかぶっていた三角形の帽子に姿が似ていたからなのだそうです。ちなみに、小説「涼宮ハルヒの陰謀」の話の中で、宝探しイベントの時に登場する鶴屋山と言うまぁるい山は、どうも甲山らしいです。

 

甲山についてのボクの素朴な疑問があって、甲山へたどり着くまで、甲陽園駅からの急勾配を登り、甲山太子道を上がって行く途中、その沿道には斜面に貼り付くようにたくさんのお屋敷が立ち並んでいます。神呪寺の参道辺りにも家があって、茶店兼食堂兼お土産店のような商店もあるのですが、神呪寺の裏から山頂にかけては、何もありません。山の中に城や砦や要塞的な建造物が建てられた記録はありません。甲山の周りには、甲東園、甲陽園と甲の字がつく地名があって、明治以降に宅地開発が進められてきましたが、甲山に人が住んでいた形跡はないようです。例えば、生駒山地から大阪平野を見下ろす飯盛山に三好長慶が巨大な山城を築いたように、阪神間を見下ろし、背後に山並みが迫っているこの場所に戦国武将が目をつけ、自分の出城や何らかの軍事施設、拠点があってもおかしくないのですが、実際に登山道を登っていくと、今は山頂には展望スペースがあるだけで、歴史の足跡的なものは何一つありません。

 

過去には甲山にロープ―ウェイを作る計画あったそうです。1936年(昭和11年)発行の「大社村誌」と言う文献に、「甲陽園駅より甲山に至るケーブルカーを企画せし人ありしも、未だ実現せず」という記述があるとのことなのですが、1958年(昭和33年)11月、市議会は1億1千万円の予算を可決し、1959年(昭和34年)秋からの建設着工が決定していたと言うのです。しかしながら、関西学院大学の教授らを中心に同年3月「甲山を守る会」が結成され、今東光、詩人の富田砕花、指揮者の朝比奈隆らにも協力を呼びかけ、厚生省国立公園部に5千名余りの署名を持ち込むなどの反対運動を行った結果、ついに計画は実現されることはありませんでした。神戸では、大正14年に摩耶山に摩耶ケーブルが作られて以来、昭和7年に六甲ケーブルが、昭和30年に摩耶ロープウェイが開業。昭和45年には六甲有馬ロープウェイが有馬線と裏六甲線を開業。六甲山にはケーブルカーとロープウェイが張り巡らされているので、甲山にそんな話が持ち上がってもおかしくはないのです。もしこのロープウェイが現在営業していたら、山頂にハーブ園とかビアガーデンが作られて、夏の日の夕方になると西宮界隈のサラリーマン達が甲陽線に乗って、ビアガーデンに足しげく通う風景が見られたことでしょう。このロープウェイ建設は反対運動にあいましたが、お金の匂いに敏感な関西の商人達が甲山に立ち入ることを躊躇した理由がなんか有ったのではないかと思うのです。苦楽園を開発した大阪の事業家・中村伊三郎、甲陽園の開発に先陣を切った本庄京三郎、当初果実園として自前の土地に甲東園を開発した大阪の豪商・芝川又右衛門、そして甲山の東側の裾野に今津から宝塚間の線路を敷いた阪急の小林一三らでさえ甲山に手を付けなかった理由。もっと遡ると、戦国時代、戦の拠点としてここに軍事施設を設けなかった理由。それ以前の時代に、この山に人の暮らしの匂いがしない理由。きっと何らかの訳があったのだと思うのです。甲山に秘められた謎、隠された大きな秘密がきっとあったに違いないと思うのです。「火のない所に煙は立たぬ」と言いますから、ついつい聞き流してしまいがちな風の噂や伝承、神話に根拠を求めて、それらを手掛かりに真実を探る旅に出かけたいと思います。まずは、荒唐無稽にイメージの羽を広げてみます・・・

 

①  甲山は、古代の宇宙人達が作った大型宇宙船用の格納庫だった。

 

②  古代の宇宙人飛行士が地球の各所に設けた飛行用目印の一つだった。

 

③  現在は跡形も残っていないけども、実はかつてここには戦国武将の山城があったが、何らかの理由で歴史上からきれいさっぱり消された。

 

④  地下に埋まっている何か掘り出すため、大きな穴を掘った時出た土砂を積み上げている内に気が付いたらできていた小山。

 

⑤  前方後円墳などの巨大古墳が築造されるよりもっと遡る時代に建てられた日本のピラミッドが甲山である。

 

⑥  その有り様から、神の宿る場所として古代の人々が認識している内に、いつしか実際に神事が執り行われるようになり、気が付いたら誰もが勝手に手を付けることが出来ない厳格な場所として位置付けられていた。

 

となりのレトロ調査団~「甲山って本当はなんだったのか?」の巻 その②に続く

 

となりのレトロ調査団~「甲山って本当はなんだったのか?」の巻その②

 

人類史の超古代に宇宙人が既に地球を訪れていて、彼らが人類を創造し、現代文明の基礎を構築したと言われている“古代宇宙人飛行士説”。「ヒストリーチャンネル」で再放送しまくっている例のあれですが、例えば、南極大陸の氷床下に異星人の巨大な基地があったとか、ハワイの最高峰マウナケア山は地球外生命が地球にやってくるときの入り口であるとか、ナスカの地上絵は宇宙船の着陸目標であったとか、ピラミッドもスフィンクスも古代に飛来した宇宙人の支援によって建造されたとか・・・。日本では、石舞台古墳の様な巨大な石を積み上げた古墳、天岩戸伝説など超人的でお伽噺として片づけられてしまいそうな諸説もこの古代の宇宙人説に紐付けられています。ジョルジョ・A・ツォカロス氏が語る古代宇宙人飛行士説、甲山に関係しているとしたら、①とか②は、決して無いとは言い切れないのです(笑)

 

①について考えると、甲山と言うのは実は、「サンダーバード」の基地のような建物になっていて、神呪寺の裏山に当たる南側正面の扉が開くと中から何らかの“乗り物”が飛び立つような構造になっている。ゴッサムシティのウエインさん宅のように出入りする場所は秘密にはなっていない様です。ただ、今だかつて山腹が割れてそこから宇宙船やロケットが現れたなどと言う話はないので、さすがにこれは有り得ないです。

 

②については、「この辺りがUFOの飛行ルートで、それを明確にするために港の灯台の様な役割が甲山にあった」とするにしても、甲山周辺でのUFOとの遭遇情報ってあまり見かけないので、UFO飛行ルート目印説は難しいかも知れません。百歩譲って、「かつてこの地には、UFOが飛来するための大きな施設が存在したのだけども、現在ではそのモノが無くなってしまったか、そのモノの価値がなくなってしまったので、飛来する必要性がなくなってしまった。そのために、機能を失ったと同時にいつしか木々で覆われてしまった」のか、或いは、「現在も甲山周辺にはUFOの飛行ルートが存在していて、その活動が極めて秘密裏に遂行されているため、誰にも気付かれずにいる」と考えるか・・・。いずれにせよ、甲山が巨大な三角コーン(パイロン型)の形をした巨大建造物で、その表面にはLEDが埋め込まれていて、建物の面が全て大型ディスプレイになっていたら、マッピング映像なんか比べ物にならないくらいの鮮明な画像が映し出されて、行き交う円盤と言うというか、飛行体により判りやすい航空管制情報を伝えていたのではないかと考えると、壮大な話ですが、これもないです。

 

さらに③ですが、南北朝以降の、ボクの苦手な、細川氏、三好氏らが入り乱れた時代。この辺りには越水城、瓦林城がありました。神呪寺も別名、神呪寺城としての記述が残っているようなのです。但し城と言っても実際に戦をするような拠点ではなく、恐らくは陣所のような駐屯地的なものであったのではないでしょうか。高台としての利点から見張り台として、下の状況を見ながら、煙を上げて情報をやり取りしていた、そんな役割を担っていたのではないかと思うのです。しかも、神呪寺城であって、甲山城ではないので、三好長慶の飯盛山城のように山全体が一つの城郭のようなものではなかったようです。

 

さらに④ですが、さしずめ、石炭の採掘に伴い、坑道掘削や選炭によって生じた岩石廃棄物を集積してできたボタ山のようなイメージでしょうか。北九州市周辺に今もありますが、遠目から見た佇まいは、確かに似ています。但し、ボタ山の場合は、上へ積み上げていくので、形状的には円錐形になる筈ですが、甲山はこんもりとした団子型ですので、形から判断して違うのと、過去にこの界隈で何かを掘ったと言う形跡はなく、西隣にある北山貯水池と言うのは、元は谷であった場所に仁川の水を引いて作られた人工湖なので、大きな穴を掘る必要はなかったので、この説は違います。

 

そして⑤。日本で古墳が築造されたのは、3世紀半から7世紀初頭。その時代からさらに遡って、紀元前27世紀、エジプト古王国第3王朝のジェセル王が階段ピラミッドを建造して以降、紀元前25世紀に第4王朝のクフ王、カフラー王、メンタウラー王の巨大墓として建設されたのが、かの有名なギザの三大ピラミッド。その中で最も巨大なのが、クフ王のピラミッドで、現在は137mあるそうですが、建設当時は147mあったとされています。三つ並んでいる内の一番低いのがメンタウラー王の墓で、65m。そこで、甲山の山頂の標高は309m。その麓にある神呪寺の境内は標高200m程に位置しているので、甲山自体の高さとしては109m位。甲山が実はピラミッドだとしたら、クフ王とメンタウラー王のピラミッドのちょうど中間位の高さのピラミッドと言うことになり、ここ日本の、それも西宮の、六甲山系の外れにそんなモノがあったとして、緑に覆われた甲山を丸裸にしたら、その下から石で組まれた完璧なピラミッドが出現したりなんかして、なんで西宮にピラミッドがある訳?と調べてみると、どうやらエジプト古王国の内紛に負けて国を追われた一族が、どういう経緯かは判りませんが、アジアの東の端っこ、日の出る土地にたどり着き、この地で本国にさえ前例のない、円錐形とか底辺が五角形の五角錐ピラミッドとか独自の構造のモノを建設してしまい、それが突然現代に出現した日には、甲山はたちまち世界中の歴史学者達から注目の的となり、甲陽園周辺は、歴史マニア達で溢れ返ります。阪急は増便して乗車客をどんどこどんどこ運びますから、“実はひなびたローカル線ではないか”とどこかの誰かさんがブログに書いていた甲陽線はドル箱路線になります。その人達が皆、甲陽園駅前のツマガリさんでケーキを買って帰る。しかも、ここでしか販売していない“ピラミッド・ケーキ”などと言う新商品が出来たものだから、ツマガリさんはますますご商売繁盛。キティちゃんをネフェルティティに見立て、エジプト政府とのコラボが実現。消臭力~♪は、ピラミッド型の“甲山森林の自然な香り~”を販売し、生産が追い付かない状況。このブームに地元の名士、辰馬さんが指をくわえてじっとしている訳もなく、六甲山系の良質の宮水を使って、「黒松白鹿こしゅ」を悠に超える長期熟成酒、「金字塔白鹿こしゅ」を製造して、こちらも大儲け。西宮信用金庫の地盤を引き継いだ尼崎信用金庫は、NISA、タイガース定期に加え、「ピラミッド定期」を販売。「しんきんさんに預けていたら、盗掘に合わないから安心!」などと新TVCMも流してみたり。地域の経済効果は抜群で、税収が増えた分、住民へのサービスは向上。どこの自治体の役所でも目にする、“市民が窓口で怒鳴りまくっている”なんて光景、「西宮ではここ10年間、見たことない~」と言うような穏やかな市制が実現します。正に甲山様様なのであります。・・・あの・・これ、あくまでも、ピラミッドだったら、の話です。すべて勝手な妄想話ですから、くれぐれもご注意ください(笑) 

 

自然の山で、「実はピラミッドではないか」と言われている山が何か所か会って、広島県庄原市ある「葦嶽山」は、東西南北どこから見てもきれいな三角形の姿で山頂に巨大石群が人工的に積み上げられているため、実際に“日本のピラミッド”と呼ばれているそうです。また岡山県南部にある熊山の一帯には、33か所に及ぶ石積遺構が残っていて、その内三段に積み上げられた遺構は実はピラミッドではないかと言われています。さらに、青森県新郷村にある「大石神ピラミッド」は、数万年前の太陽信仰の遺跡として自然の山を利用し配置された巨石群で、年代的にはエジプトのピラミッドよりも遥か昔の遺物であるため、現在でも謎のスポットであるのですが、新郷村には他にもイエスキリストの墓とされる「十来塚(きさらづか)」と弟イスキリの墓「十代墓」と言うのがあり、共に謎とされているそうです。

 

と言うことで、あれこれ書いてきましたが、甲山については、歴史的にみて、山全体が神聖な場所であるされてきたことには間違いないようです。神功天皇が新羅遠征から帰還してきた時に国家の安泰を願い、兜、宝珠、宝剣などを埋めたとされて以降は絶対的神聖な場所として確定したと思いますが、それ以前についてもその特異な佇まいから、人々は神が宿る山として崇拝していたのではないかと思いますし、南側正面に神呪(かんのう)寺が建立されてからは、山全体に結界が張られ、もはや誰もこの山に開発の手が加えられない聖域としての概念が確立していったのではないかと思うのです。さらに難波宮(大阪)、そしてまた金剛山を越えたその先、橿原神宮から見た方角は、北西に位置します。陰陽道では、これを「鬼門」の反対、神聖なる場所としているとのことです。また神話では、“天帝の宮殿の門”、“天へ昇る際の入り口”を意味しているとのことで、神武天皇の東征後、畝傍橿原宮(うねびかしはらのみや)で初代天皇として即位されて以来、奈良から北西の方角にポツリとある甲山は、向こうの山(武庫山)の方にある神が宿る場所とされてきて、その考えが綿々と人々に受け継がれてきたが故に、傍若無人を極めたあの織田信長、羽柴秀吉ですら手を出せない聖なる場所として保護されてきたのではないでしょうか。どうやら、⑥が正解のようです。

 

以上で、となりのレトロ調査団~「甲山って本当はなんだったのか?」の巻、終了です。今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。

 





 

 

 

となりのレトロ~「甲陽線にこそ哀愁が漂っているに違いない」

 

前回のとなりのレトロ調査団~「武庫川線は幸薄いローカル緯線なのか」の巻で、阪神武庫川線を取り上げさせていただきました。“都会の片隅に追いやられた、ひなびたローカル線”と言うイメージをボクの中で勝手に作り上げていたのですが、いろいろ調べてみると、開業した昭和の初めから今に至るまで、この地域での存在感はとても大きく、確実に地域住民の生活を支えて続けてきたことが判明し、“ひなびたローカル線”なんて言葉は似合わない路線でありました。以前となりのレトロ調査団で取り上げた、“大阪の超ローカル路線・南海汐見橋線”のインパクトがあまりにも強すぎたためで、つい汐見橋線と武庫川線を重ね合わせてしまっていたのであります。

 

そしてもう一か所、ボクの生活圏にあって、「この路線こそ、“街中のひなびたローカル線”ではないか」と、以前から気になっていた私鉄支線があります。心の片隅にいつもその存在を留めていたにもかかわらず、あと一歩踏み出す勇気が出ないまま、ついに乗る機会を失ってしまい、“想い出の雑件箱”へ放り込んだまま時は流れ、十分過ぎるほど大人になってしまった今になって慌ててほじくり返しては、「あの時・・・していたら・・・」みたいに後悔してみせる事柄の一つ、それが阪急電車の甲陽線。なんか、結局思いを伝えられなかった、小学校時代の初恋相手のKちゃん、みたいな話になっていますが、阪急神戸線の岡本駅~西宮北口駅辺りは、学生の頃から現在に至るまで、ボクの生活に一番根付いている交通手段で、それこそ、『卒業写真』の歌にあるように、「通った道さえ今はもう 電車から見るだけ♪」的に、時折、移動中の電窓から眺める懐かしい街並みに、孤軍奮闘、不器用に生きていた若かりし頃のボクの姿が見え隠れして、何とも言えない感傷感に浸ることはあっても、夙川駅に接続している、今回のテーマである甲陽線に関しては、ボクとの間には大した関係性が無いので、恥ずかしながら甲陽線について知っていることと言えば、つい最近まで、「終点甲陽園駅の駅近くには、ケーキ屋のツマガリさんがある」こと。「甲陽園駅の先には、ポッコリと甲山がある」ことくらいでした。従って、ボクが甲陽線に抱いていたイメージは、夙川の水辺。甲陽園駅まで駅が2つしかない線路。来る日も来る日もガラガラの電車がトロトロと走って行く。その風景は、まるで“千と千尋の神隠し”に出てくるあの電車のよう。会社側はこのお荷物路線に頭を抱えてはいるものの、きっと面子だけで運行を続けているのに違いない。これこそ、“ひなびたローカル線”。南海汐見橋線のように、いつ無くなってもおかしくない路線ならば、何が何でも今の内に乗っておかなきゃ、と言うことで、今回のテーマは、「甲陽線にこそ哀愁が漂っているに違いない」、なのであります。

 


 

実際に現地へ行って参りました。夙川駅の駅舎を眺めていて判るのは、ホームが夙川の上を跨いでいること。下りホーム側の改札を通って、地下道をくぐり甲陽線が接続している上りホームへ向かうのですが、その地下道の構造は、恐らく建設当時のまま?と思わせる雰囲気が残っています。もちろん壁は綺麗に塗装されていますが、躯体自体は当時のままじゃないかと思わせます。確か阪急神戸線には同じような駅が他にもあって、芦屋川駅も同じように川を跨いでいます。川を跨ぐ複雑な駅舎の構造上、全面的な改装を施すことが困難なのか、当時とあまり変わらない状態のまま利用されているようです。確か同じ神戸線の神崎川駅も川を跨いでいます。2031年開業予定で現在計画が進められている武庫川新駅(仮称:西宮北口駅~武庫之荘駅間)は、完全に川の上にホームを建設するそうですから、川を跨ぐ駅の建築が阪急のお家芸なのかと思いきや、1935年(昭和10年)からすでに営業している阪神電車の武庫川駅は、ホーム全体が武庫川の上にあって、尼崎側と西宮側の両方に改札が設置されている特殊な構造なので、武庫川新駅もきっとこんな感じの駅になるのでしょう。さらに阪神電車では芦屋駅、魚崎駅も川を跨いでいる駅なので、これは阪急電車だけの得意技と言う訳ではなく、六甲山系の麓、阪神間の東西に広がる細長い平地に敷設された線路に対して、否が応でも六甲山から流れ出る河川が南北に交差するので、駅の設置場所によっては鉄橋上にホームを建設せざるを得ないケースが発生しますから、これは阪神間特有の事情なのかも知れません。当時大変な苦労を強いられ、川の上に建設されたこれらの駅には、実は大きなご褒美が与えられていて、春の時期のほんの一瞬だけ、ホームで電車を待っていると、土手に植えられた満開の桜の花びらに包まれ、これらの駅でしか見ることができない絶景に出会うことが出来ます。

 

 

実際に甲陽線に乗ってみて驚くのは、夙川駅~甲陽園駅間は2.2㎞。とても短い。しかも、全て単線。ワンマン運転で運行されている3両編成の電車は、苦楽園口駅で下りと上りが入れ替わる方式になっています。苦楽園口駅で下車し、駅前からなだらかに上って行く道沿いには、お洒落なお店が立ち並んでいて、特に夙川から西に向かって分岐する中新田川沿いには高級住宅が広がっています。かつてこの辺りには苦楽園と言う、一大温泉リゾート地が開発された場所なのですが、今ではその跡形もありません。その道をさらに上がって行き、芦屋市との境を越えた向こうのエリアが、全国にその名を轟かせる超高級住宅地・六麗荘。私のような不束者が何気なく散策することなど迷惑千万。辺りには余所者を寄せ付けない威圧感が漂っています。甲陽線は、苦楽園口駅を過ぎると西方へ流れを変える夙川と袂を分かち、線路は右に大きくカーブしながら、甲山の麓にある甲陽園駅に滑り込んでいきます。駅周辺にはツマガリさん関連の店舗がいくもあり、恐らく遠方からのお客様なのでしょう、車が駐車場を引っ切り無しに出たり入ったりしています。この甲陽園駅の駅舎、趣のある風情を残しています。かつてはこの終着駅のすぐ北隣に甲陽園公園の西門があって、今風に言うところの広大なテーマパークの中に、劇場、映画撮影所、遊園地などのアトラクションが設置されていて、それらを取り囲むように温泉、料理屋、旅館、洋風カフェが立ち並んでいたと言われています。園内にあった大池は今も残っていて、昔の写真と見比べて見ると、大池に面した北側がなだらかな斜面になっているので、地形的にはなんとなく当時を忍ぶことはできますが、すっかり閑静な住宅街として生まれ変わっています。(「知ってるようでしらない“西宮ほにゃらら園”の謎」参照)

 


 

さらに甲山、神呪寺へつながる急な坂道を上って行くと、山の傾斜に貼りつくように建つ大邸宅が目立ちます。家々のリビングから見る景色は視界を遮るものが何もないので、大阪湾の大パノラマが一面に広がっています。正確に言うと、広がっている筈です。お宅のリビングからこの景色を体験した訳ではないので、断言はできませんが、公道に面した門扉越し、背伸びして覗き込んでいた不審者が観た眺望、それは素晴らしいものでした。この景色を手に入れたことこそが、成功者の証なのであります。そう思うと居ても立っても居られなくなり、嫉妬と感嘆と怒りが交互にボクの心を襲います。思いついた捨て台詞は、こんな感じ。「こんな高台に住んだ日にゃなー、車でもないと買い物にも行かれへんのじゃー。こんな不便な生活を送っている奴らの気が知れんわい!」と。ところが、各邸宅の敷地内に整然と並ぶ複数の高級外車が目に入って、またギャフンと言わされてしまうのであります。恐らく歩いて下界に下りるなんて発想がこの辺りの住民の方々には無いのです。打ちのめされた不束者で不審者の大貧民は、最後の力を振り絞って負け犬の遠吠えを試みるも、それは悔し涙の嗚咽と変わり、日が暮れかけた甲山の山肌にシクシクと木魂するのであります。そうか、この辺りのセレブの皆さん、学校、職場、買い物などで外出される時は、必ずお車でお出かけになられる訳で、阪急の、それも甲陽線なんてチンケな乗り物、端から眼中に無いんやわい。庶民感覚とかけ離れたセレブな住民達から甲陽線は完全に見放され、しかも沿線に集客力ある大型商業施設、音楽ホール、スポーツ競技場のようなエンターテイメント施設、或いは空港や港のような交通・輸送の要となるような拠点がある訳ではないので、カオナシを乗せた甲陽線は日々ガラガラの状態でトロトロと行ったり来たり。阪急はこの路線の赤字を他路線の収益で補填しながら、見栄だけで運行させているのだな。きっとそうなのだ!

 

嫌と言うほどの現実を見せつけられ、トボトボと山道を下るボクの後ろ姿は、山頭火に勝るとも劣らないくらい、きっとしぐれていたに違いない。重たい足を引きずり、なんとか夕刻の甲陽園駅にたどり着きました。プラットホームには上り車両の入線を待つお客様が結構居て、「ん? ん? ん? これって、さびれたローカル線にしては、お客さん、ちょっと多いんとちゃうん?」。違和感を覚えました。さらに苦楽園口駅からのお客様で3両編成の車両の座席は疎らですが、何となく埋まっておりました。しかも夙川駅のホームで下り電車を待つ人の群れ。は? は? は? とても赤字ローカル線の光景とは思えませんでした。家に帰って、阪急電車87駅中の利用者ランキング(2023年)を調べてみたところ、夙川駅は、24,206人で全駅中25位。苦楽園口駅は、10,661人で62位。甲陽園駅は、8,606人で70位でした。立派なものです。

 


 

たまたまこの沿線に住んでいる方にお話をお聞きしたところ、山の上、麓の住人の方々、通学通勤時にどうされているかと言うと、そのお宅では、奥様やお祖父ちゃまが、ご主人様、お子様を苦楽園口駅、甲陽園駅まで車で送り迎えされているとのこと。お山のお屋敷にお住いのセレブの方々、さらにもう少し下の方に住まわれている方々、電車も十分利用されているようで、甲陽線は無くてはならない交通手段だそうです。またしてもボクの勝手なイメージは、いとも簡単に覆されてしまいました。甲陽線は“ひなびた赤字ローカル路線”なんかではありませんでした。甲陽線には哀愁も悲哀もありませんでした。ただ、始発か終電の人気のない車両にカオナシが乗っていそうな気はしますが、それでもボクなんかが手を差し伸べるまでもなく、沿線のセレブな住民達に支えられていて、甲陽線はちゃんとやっていけているのだそうであります。な~んだ。でも、よかった。よかった。

 

となりのレトロ~「甲陽線にこそ哀愁が漂っているに違いない」の巻、終了です。今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。

となりのレトロ調査団

「武庫川線は幸薄いローカル線なのか」の巻 その①

 

以前、南海高野線の汐見橋駅をご紹介したことがありました。“都会の神秘”とか、“大阪市内に残る唯一の秘境”とか言われ続けてきた、岸里玉出駅から汐見橋駅までの4.6kmの支線、通称汐見橋線が、生き残りを掛けた最後のチャンスであった、「なにわ筋線転用案」が消失してしまい、こりゃもういつ廃線になってもおかしくない状況なのですが、今この時も営業を続けていて、そのこと自体が奇跡以外の何ものでもないと思っているのは、ボクだけではない筈です。なんたって汐見橋駅の一日の利用者数が688人。沿線の西天下茶屋駅は249人、木津川駅は164人ですから(2023年データ)。汐見橋線の利便性を最大限に引き出すことができる次なるアイディアが出るまで、なんとか時間を稼がなければなりません。例えば、南海沿線方面へ出かける時に、安直に南海難波駅からひょいと電車に乗るのではなくて、多少面倒臭くても、JR大正駅から岩崎運河に架かるトラス橋を眺めながら、トボトボと汐見橋駅まで歩いてみたり、地下鉄千日前線の桜川駅まで移動して、隣にポツリと建つ汐見橋駅舎の佇まいに風情を感じ、のんびりと下り列車の入線を待ってみたりして、自分一人分でも、なんとか汐見橋駅の、汐見橋線の利用者数を上げることに貢献できたらとつい考えてしまいます。これ実は、大阪市内から大和川を越えて堺まで走っている阪堺線もしかりで、よくもまあ、ちんちん電車が昔と変わらない姿のまま走り続けているものだと、こちらもはやり奇跡と感じずにはいられませんので、阪堺線に対しても微力ではありますが、何か貢献できたら良いなと言う思いは尽きないのですが、ところが実際に阪堺線に乗ってみられたらよく判りますけど、阪堺線、平日の日中でも結構な利用者数がありますから、やはり気になるのは汐見橋線と言うことになります。

 

汐見橋線の行く末ばかりを気に留めながら、ボクの日常は過ぎて行くのですが、「汐見橋線と同じように幸薄い運命を背負った路線、支線、終着駅がこの関西にまだあるのなら、なんとかしてあげないと・・・」と言う使命感のような思いが募り、あれこれ調べてみましたら、ありました。大阪の西隣り、兵庫県西宮市に。それも、我が家から愛車のクロスバイクに跨って20分も掛からないくらいの場所に。それは、阪神電車の武庫川線と言う路線で、こんなに近くにあるにもかかわらず、今まで乗ったことも、見たこともなかったので、現地に赴くことにしました。現地に赴く前に、下調べを行ったのですが、本当に知らないことだらけでした。なかなか興味深い話も満載でした。

 

 

阪神武庫川線と言うのは、兵庫県西宮市の武庫川駅から同じ西宮市にある武庫川団地前駅までの1.7㎞を結ぶ、阪神電鉄の支線です。阪神本線の武庫川駅と連絡していて、武庫川西岸の築堤沿いを海に向かって走っています。「単線ローカル線特有の悲哀感がプンプンと漂っていて、汐見橋線のように、いつ無くなってもおかしくない路線」。そんなイメージを勝手に抱いて現地に乗り込みました。時刻表を見てみると、昼間はおおよそ20分間隔。平日朝は12分間隔。土休日朝・夕方で10分間隔の運行なので、ボクのイメージを遥かに越えた本数で営業していました。後で調べてみて判ったのですが、2023年の武庫川駅の利用者数は27,744人で、阪神電車全駅51駅の中では、なんと上から11番目だそうです。終点駅にある武庫川団地に住む人々にとっては、生活の足として通勤・通学になくてはならない移動手段になっています。夕刻間近、武庫川団地前駅にやって来ましたが、到着した下り電車から吐き出されてくる人々の群れが、周辺に立ち並ぶ高層団地群に吸い込まれていく様子に、マイナスの空気感など微塵もなく、逆に武庫川線沿線に生きる人々のたくましさを感じさせてくれました。ここに来てみて、もはや汐見橋線のような心配は無用で、決して幸薄いローカル線では無いことが判りました。気に掛けなければならない路線が一つ減り、心が楽になりました。フ~ッ。やれやれ。

 

この武庫川線が誕生した経緯と廃止までの歴史はと言うと、現在は武庫川団地となっている西宮市高須町一帯には、かつて軍需工場であった川西航空機(現・新明和工業)の鳴尾製作所がありました。武庫川線の最大の敷設目的は、この川西航空機の工場へ従業員や資材を運ぶことにありました。1943年(昭和18年)に武庫川駅~洲先駅(その後、当時の洲先駅は現在の武庫川団地前駅)間の営業が始まりました。翌年には、武庫川駅からさらに武庫川沿いを北上し、国道2号線の阪神国道線、武庫大橋駅との連絡駅として作られた武庫大橋駅~武庫川駅間が開業します。しかし敷設工事はこれで終わるのでははく、軌道は武庫大橋駅から武庫川沿いをさらに北上、省線(今のJR神戸線)の前で軌道は大きく左にカーブして、甲子園口駅に入線していました。一般客の営業は、武庫大橋駅~洲先駅でしたが、川西航空機へ運び込む貨物列車に関しては、甲子園口駅の西隣の西ノ宮駅、そして甲子園口駅からの貨物列車が乗り入れていて、客用路面電車と貨物列車の両方が走れるよう、線路は三線軌条(2種類の線路幅の車両が対応できる方式)で敷設されていたそうです。ところが、開業後1年も経たないうちに川西航空機鳴尾製作所が空襲の被害を受けてしまったので、武庫川線は期待された目的を十分に果たせないまま終戦を迎えています。貨物輸送としての利用は川西航空機工場を接収した進駐軍の要請もあり、戦後も続けられたそうなのですが、1950年代に入って運行は停止され、1958年(昭和33年)に正式に廃止となっています。

 

旅客営業としてはどうなったかと言うと、戦後すぐに全線の営業が休止されるのですが、1948年(昭和23年)、武庫川駅から現在の洲先駅までの1.1kmのみの運行が再開されます。その後、沿線開発が進む中で、終点駅周辺の広大な工場跡地が武庫川団地として再開発されることが決まり、団地住民輸送を主な目的として、1984年(昭和59年)武庫川団地前駅までの営業が再開されることとなりました。武庫川駅以北、甲子園口駅から武庫川駅まではどうなったかと言うと、鉄道の軌道は取り除かれ、全て廃線となりました。但し、本線武庫川駅から北に100m程だけですが、引き込み線として残されています。武庫川沿いの軌道跡は、当時のままの地形が残されている箇所がいくつもあって、なかなか感慨深いものがありました。ちなみに、沿線には、甲子園ホテルがありました。1930年(昭和5年)に開業したホテルで、かつては、「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と謳われたほどの本格的な洋式ホテルです。現在は武庫川女子大学甲子園会館となっています。

 

 

阪神電車のイメージとしてまず頭を過るのは、何と言ってもその営業距離が短いと言うこと。ボクの認識では、大阪・梅田から神戸・三宮までですから、そりゃ短いです。当然、路線拡大を模索した歴史があると思うので、その辺りどうだったのか、“となりのレトロ調査団”顧問の杉さんに尋ねてみたところ、「いやいや、ちゃいまっせ。阪神の西側の駅は、元町でっせ。コーイチさん、鉄ちゃんともあろう人が、そんなん間違えてどうするんです?」と。いやいや、ボクは鉄ちゃんではないので(-_-;) 見事にポイントの外れた答えが帰ってきました。梅田駅から元町駅までとしても、一駅増えただけなので、距離的にはさほど変わりません。これに武庫川線の1.7㎞、2009年に開業した阪神なんば線の西九条から難波間3.8㎞を足しても、全長48.9㎞。全国の私鉄順位でみると、一番短い相模鉄道の38.1㎞に次いで2番目に短い私鉄なのだそうです。上位3位が、名鉄の444.2㎞。2位が、東武の463.3㎞。1位は、近鉄の501.1㎞となっています。確かに、関西に住む者として、近鉄は難波・上本町・あべの橋から名古屋、伊勢、鳥羽、京都、奈良まで行くことができる電車で、JR並みの遠距離利用が可能ですから、ただただ凄い!の一言に尽きます。それに比べ、阪神は約1/10にも満たない営業距離で、この現実はどう足掻いたって埋めることはできませんから、後は街中を走る路線として、とにかく利用者数を上げ、いかに効率よく収益を上げるのが阪神の使命となってくると思うのですが、とは言え、1896年(明治29)に設立した摂津電気鉄道が、神戸~大阪間の軌道の許可を得て、1899年(明治32年)阪神電気鉄道と改称して以来、当初は阪神も積極的に路線拡大を模索して来た歴史があります。次はその辺りのことに触れてみたいと思います。

 

阪神電鉄の歴史を調べていると、“今津出屋敷線”と言うワードが出てきました。今津駅と出屋敷駅。西宮駅と久寿川駅の間にあるのが今津駅。武庫川を渡って、センタープール駅と尼崎駅の間にあるのが出屋敷駅。今も昔も、同じ沿線上の駅でありますから、「今津と出屋敷をつなげる線って、どういうことなんだろ?」と不思議に思い、さらに調べてみると、実はこれ、1924年(大正13年)に阪神が申請し、実際に許可が下りた当時の新路線計画なのだそうで、今津駅から湾岸エリアを通り、武庫川を越えて、出屋敷駅までつなげてしまうという構想が有って、一部工事に着手していたと言うのです。そのきっかけと言うか、阪神がこの構想を掲げざるを得なかった背景があって、それはと言うと、ここでもやはり宿敵、阪急が登場します。今では経営統合して、阪急阪神ホールディングスとして手を結んだ両社ですが、当時は相当やりあった間柄で、“仁義なき戦い”とまで言われ、両社の間には激しい抗争の歴史が有りました。阪神が“今津出屋敷線”の免許申請をした時に、阪急も同じように、“今津尼崎路線”の免許申請を出していたと言うのです。阪急は、西宮北口駅を挟んで、すでに北に宝塚駅、南に今津駅。この間を今津線でつないでいましたが、阪急の新構想では、さらに今津から南に下り、湾岸エリアを浜回りで東へ進み、阪神尼崎駅辺りで北上。そのまま、自社線の塚口駅、伊丹駅、宝塚駅まで伸ばすと言う計画で、宝塚~西宮北口~十三~豊中~川西~宝塚をぐるりと囲む、現在も営業しているループ状の路線とは別に、湾岸エリアを包括する、宝塚~西宮北口~今津~尼崎~塚口~伊丹~宝塚をつなげる新たなループ路線計画を進めていたようなのです。東京の私鉄の多くがそうであるように、山の手線に接続、連絡する起点駅から郊外へ一直線に伸びて行くような路線ではなく、山手線や環状線のような循環型路線を都心部から少し離れた郊外に構築してしまおうと言う計画で、阪急は西宮北口、宝塚を起点とする2つのループを作り上げ、阪神間の鉄道路線を小豆色で染め上げてしまおうと考えていたようなのです。(正式にはマルーンと言う色なのですね) ところが、国の判断は阪急の思いとは裏腹に、「阪神本線より南側は阪神はんに、北側は阪急はんに、ひとつお任せするということで、どうでっしゃろ?」と言うことになり、阪急はんの申請は却下されることとなりました。こうなると、もう阪急はんの横槍は入らず、西宮~尼崎の湾岸エリアの開発は阪神はんの独壇場、となる筈なのですが、事はうまく運んだのでしょうか? どのような展開になったのかは、後半で・・・。

 

となりのレトロ調査団 ~「武庫川線は幸薄いローカル線なのか」の巻 その②へつづく