となりのレトロ調査団~「おばけ煙突」の巻
小学何年生の時のことか、はっきりは覚えていないのですが、昼休みの時間に教室内が騒然となる、ある“事件”が起こりました。クラスの男子生徒が教室に飛び込んで、興奮を抑えきれず、こう叫んだのです。
「市役所の玄関の前にな、ポインター号が停まっとーで!」。
ポインター号とは、“ウルトラセブン”に出てくるウルトラ警備隊が乗っている車のこと。ウルトラ警備隊とは、地球防衛軍の極東基地に拠点を置く、防衛軍人の中から選び抜かれたエリート部隊。地球侵略を企む宇宙人に対するパトロール、戦闘が主な任務とされています。ボク達の学校のプール脇にある講堂横の坂道を上ったところに西門があって、目の前の道を渡った所にあるのが市役所。この子が昼休み時間とは言え、市役所の正面玄関前にポインター号が停車していた情報をどこで知り得たのか、大人になった今となっては、その事の方が気になったりするのですが、まあそれは良いとして、ボク達のクラスの騒ぎは、教室から教室へ飛び火して行き、やがて別の学年の教室へも広がって行き、学校全体がこの“ポインター号事件”で大騒ぎになってしまいました。当時は、40人クラスが1学年に10クラス。その6学年分ですから、我が校もかなりのマンモス校でした。「もしかして、この町が、宇宙人に狙われてるんちゃうか?」とか「阪神の駅前にある酒屋のY村さん、実は宇宙人なんちゃうか?」とか、「市役所は、すでに宇宙人達によって支配されてしまってるんやないか?」等々。市行政と言う組織の中で奮闘していた大人達にとっては、「最後のは、あながち間違いでもないな・・・」と言われてしまいそうですが、子供達は虚像と現実の狭間で、リアルとドラマの世界を混同させ、好き勝手なことを話しておりました。後で放送を観て判ったのは、ウルトラ警備隊が西へやって来て、ロケが行われていたと言うこと。ぺダン星人に操られたキングジョーが、神戸港に停泊しているタンカーはひっくり返す。ポートタワーはぶっ壊すはで、もうやりたい放題。暴れ放題。ボク達の小学校の隣りにある市役所は、ウルトラ警備隊の隊員達がウルトラセブンとキングジョーの戦いを見守る、「六甲防衛センター」でした。かっこいい!
ボク達は、まさに円谷ジェネレーションでした。テレビが我が家にやって来て、最初に観たのは、グルグル渦を巻く画面がドンピャ~の効果音と共に、「ウルトラQ」のタイトルとなって浮かび上がってくる例の画像で、それを始めてテレビの前で正座して観た時、「ほんと、生まれて来て良かった~」と思ったものです。生まれて来てまだ数年しか経ってない癖に、です。「おい小僧! お前、何年、生きて来とーねん!」と神戸風の関西弁でツッコミを入れられそうですが、その後は立て続けに、「ウルトラマン」、「ブースカ」、「ウルトラセブン」と、テレビと言う魅惑の宝石箱を通して、円谷プロ作品の黄金期をリアルタイムで体現することができた世代です。その後も円谷ワールドにどんどん引き込まれて行くのでありますが、その中でも、ボクがいまだに鮮烈に覚えている場面があって、それが何かと言うと、円谷プロとしては珍しく、怪獣も宇宙星人も出てこない、人間が引き起こす化学犯罪ドラマ、「怪奇大作戦」と言うのが有りました。その何話目かで、マッドサイエンティストが、小さい箱に収まって、地上基地からの無線による説得を無視し、海底深くに沈んでいくシーンがあったのですが、もうどんなストーリーだったか、何にも覚えていないのですが、この科学者の不気味な表情が、今でも脳裏に焼き付いて離れません。この様に大人になっても頭から離れない恐ろしい風景。誰でもあると思いますが、ボクが以前この“となりのレトロ調査団”の「西宮にあるほにゃらら園の謎」の巻でご紹介したことがある、香枦園浜の「石造りの砲台跡」や夙川の河口にある「西宮回生病院の当時の建物」は、幼心に不気味さ満点の建物でしたし、阪急芦屋川駅から少し上、岩園町辺りの山の中腹にある洋館建てのお屋敷の窓ガラスに西日が反射してキラキラと輝き始めた時、そこが妖怪の棲みつく館のようで、訳も無く気味が悪かったのを覚えています。
大正の終わりから昭和にかけての東京で、そびえ立つ巨大煙突が子供達を夢中にさせました。東京電灯が墨田川沿いに建設した千住火力発電所の4本煙突です。1926年(大正15年)から1963年(昭和38年)まで稼働しておりました。浅草にあった火力発電所が老朽化や公害対策上の問題があって、移転を検討していた矢先、関東大震災によって大きな被害を受けたため、千住に火力発電所が建設されました。震災で倒壊せずに残った高さ80mの三本煙突は、大正15年(1926年)に千住火力発電所へ移設されることになり、新たに建設された1本と合わせて煙突は4本になりました。「この4本煙突が、なぜ、おばけ煙突と呼ばれたのか?」と言うと、毎夜、丑三つ時を過ぎると、4本の煙突はどれともなくユラユラ動き出し、時に4本が絡み合ったり、離れたり、その様子はとてもこの世の様とは思えないものだったそうなのです・・・。と言うのは嘘で、4本の煙突が、観る場所によって3本になったり、2本になったり、1本になったり、その姿を変貌させるからと言う理由と、煙を吐き出したり、吐き出さなかったり、日によって様子が変わることから、昭和の初めの頃、東京足立区の千住界隈で子供時代を送った人々にとって、このおばけ煙突が、子供時代のノスタルジーとして、いつまでも記憶の中に焼き付いているようなのです。幸運にも戦時中の度重なる空襲による被害を受けることなく、終戦を迎えることができたため、戦後も引き続き大都会東京への発電を担っておりましたが、豊洲に新東京火力発電所が建設されたことにより、1963年(昭和38年)5月に稼働を停止しました。煙突の解体が決定された後、同年12月には、解体・撤去を反対する人が煙突によじ登り、84時間にも渡って篭城するという騒ぎが起こりました。解体間際の1964年(昭和39年)8月26日には、煙突の下で、地元住民による、「煙突とお別れの会」が開催されたそうですから、「おばけ煙突」は、近隣住民の皆さんに相当親しまれていたようなのです。
この千住にはもう一つ、忘れてはいけない建物があります。東京スタジアムです。かつて東京都荒川区南千住にありました。東京球場という通称でも呼ばれていました。プロ野球、千葉ロッテマリーンズの前身にあたる毎日大映(後の東京、ロッテ)オリオンズが本拠地として使用していました。1962年に開場し、1972年限りで閉鎖してしまいましたので、10年間ほどしか営業していないことになります。実は、この東京スタジアム。ボクは、行った事がありまして、当時、総武線の平井に住んでいた叔父に連れられ、まだ小学校低学年だと思うのですが、夏休みにロッテ対東映の試合を見に行ったことがあります。ウイキペディアで調べてみると、この1970年と言う年、ロッテはリーグ優勝を果たしておりまして、7月時点で2位の南海に9.5ゲーム差をつけていたそうなので、ボクが連れて行ってもらったこの時は、すでに独走状態であったようなのです。ただ覚えている事と言えば、とにかくグランドと観客席との距離が近くて、かなりヤバいヤジが飛び交っていたので、「ただただ、怖かった」こと。もう一つは、叔父さんの友達らしい人も一緒に来ていて、なんとなく挨拶をした後、その人がボクを見て、「そうか~。この子がももさんの子なのか・・・」としみじみ話していたこと。その後の大人達の会話から、どうやらその人、母が父と結婚する前に、母とお見合いの話が持ち上がったことがあった人だったようで、子供なりになんか複雑な気持ちだったのを覚えています。まあその話は良いとして、プレイをしている選手達がばけもの集団なら、観に来ているファンもある意味、怪獣のような輩達ばかりで、そう考えると、当時のパリーグの球場は、難波球場も日生球場も藤井寺球場も、大人しいとされていた西宮球場だって、グランドも観客席も個性に満ちた怪獣、ばけもの達で溢れていました。そんな球場で毎度交わされるおもろいヤジの応酬は、今となっては忘れられない昭和の貴重なシーンです。
「こらインケツ。ちゃうわ、近鉄! 悔しかったらな、阪急沿線に住んでみい!」
「あほか。悔しいことあるか。近鉄電車はな、2階建てや! 羨ましいやろ!」
話が大きく逸れてしまいました。m(__)m この「おばけ煙突」、実は、東京よりも5年も前に大阪にすでにありました。明治~大正期、大阪の電気を支えた電力会社、大阪電灯が1919年(大正8年)4月、大阪鉄工所の工場跡地に春日出第一発電所を建設しました。この場所は、安治川と六軒家川に挟まれていて、川が広いため、大型運炭船の係留に好都合で、そしてまた発電用水を安治川より多量に得られるなど、発電所としては好適地であったのです。大阪電灯はさらに発電量を上げるために、春日出第二発電所の建設を計画するのですが、第一発電所の不具合によって発生していた煤煙・騒音問題で、第二発電所建設計画には近隣住民による反対運動があって、なかなか竣工に漕ぎつけられませんでしたが、1920年(大正9年)に会社の資金問題が解決したことにより、第一発電所の改善が進み、地元の反対運動が収まったことで、大阪市北区北安治川通3丁目(当時)に春日出第二発電所を建設することができました。千住のおばけ煙突が4本だったのに対して、此花区春日出のおばけ煙突はなんと8本でしたので、その数は観る場所によって8本から1本まで変幻自在に姿を変えるので、千住のおばけ煙突と同じように、それはもう大阪市民からは親しみを持って愛され続けていました・・・と言いたいところなのですが、どうもそれ程、親しまれていなかったようなのです。
当時の大阪の町は、湾岸地区を中心に、市内の工場群の煙突から排出される煤煙にかなり悩まされていました。大大阪時代と謳われ、経済的に大きな発展を成し得た半面、“東洋のマンチェスター”と呼ばれるくらいに、石炭を燃やして排出される黒い煤の煙が空を覆い、大阪は別名、「煙の都」とも呼ばれるくらい、どんよりとした商都でしたから、怪物達が暗躍する“ゴッサムシティ”のような重苦しい街並みの、そのマイナスイメージの象徴が、まさしく此花・春日出のおばけ煙突で、「確かに懐かしくはあるけど、あまり思い出したくない!」存在であったのではないかと思うのです。大正から昭和にかけてのノスタルジーなんて話では無いのです。経済を最優先とした代償は、きっと計り知れない程大きかった訳です。ただ、その危険な道を歩んで来たからこそ、今の大阪の繁栄があったとも言えるので、春日出発電所のおばけ煙突が果たした役割は大きかったのではないでしょうか。
この場所には、今、「コーナン」と「ラムー」という二つの大型店舗が立っています。JR環状線の西九条駅を出て、内回りの天王寺方面の行きに乗っていると、車内からこの敷地の全貌を見渡すことができます。「ここに、発電所がね・・・」と考えると、確かに感慨深いものがあります。官設鉄道の線路脇、市内の西の外れとは言っても、住宅がひしめく此花の中州に、これ程の規模の発電所があった訳ですから、もしタイムマシンがあるのなら、当時の景色を観に行ってみたくもなるのですが、この風景には、どえらい煤煙がセットになっていますので、は~っ、やっぱり遠慮しておこう。
此花区には、「おばけ煙突」の他に、「おばけタンク」もありました。北港通りを西に走って、舞洲へつながる此花大橋を渡る手前の交差点の右奥角にそのタンクがあったそうです。今も大阪ガスの敷地である一画です。工業の発展のために、いろんなおばけが活躍、暗躍していた時代だったのです。じゃ、今はもうおばけは居なくなってしまったのでしょうか。いやいや、大きな災害が起きた時に、人間の力では手に負えない巨大なおばけが、今日も日本中で12基、稼働しているそうです。2022年の資料によると、地球温暖化に影響を及ぼす、温室効果ガスを排出する石炭・石油・ガスなど化石燃料による火力発電による発電量は、72.7%。一方、温室効果ガスを排出しない原子力発電、5.6%。太陽光、水力、風力、地熱の再生可能エネルギーが21.7%となっています。デンマークでは、再生可能エネルギーの割合が約80〜90%と言われているので、近い将来の日本の姿をそこに見出すとしたら、平原に立ち並ぶ巨大風車おばけや一面真っ黒に敷き詰められたソーラーパネルおばけが今以上に増えることで、この国が抱える大きなリスクを少しずつ回避できるのではないか。そんな気がするのですが、どうなのでしょうか。
となりのレトロ調査団~「おばけ煙突」の巻は、これまで。今回も稚拙な文章にもかかわらず、最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。