FWのブログ
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「筑紫都督府」の謎について・・・

 

   掲題に関しAIコンサルタントさんのまとめは次の通りです。

 白村江の戦いは、古代の日本にとり、絶対的危機を及ぼし

た大敗戦だったことが窺えます。他方この時期大陸の戦乱

状況も多分?今では想像できない程の天地がひっくり返る

程の大転換期だったと思います。

  

 そして、この時代の資料を収集するのは至難の業です。

聖徳太子(厩戸皇子)が存命だった時代もこういう激変が

起こりつつある激変のさ中です。

 

 そして教科書に書いてあるのはほんの一握り位・・・

 

 一握の砂のようにさらさら流れ落ちるがごとくです。

実勢はいつどう変化するかわからない程流動的かつ

過酷で残酷な戦乱消えなかった時代です。

 

 聖徳太子の時代、物部氏と蘇我氏の間で仏教導入をめぐり

戦乱があったことは教科書で読まれた方も多いと

思われますが、当然その争いは大陸や朝鮮半島情勢を

めぐる当時のグローバルな外交姿勢も影響してたことは

余り書いてないし、その後蘇我馬子の後継蝦夷が、馬子弟に

発する当時有力同族を推古帝後の大王選定過程の中で

討滅していたことも書いてません。

 時代遡って太子の時代同母弟来目皇子(大将軍)が新羅征討の軍を進め、現地で亡くなりとりやめ、さらにその後も軍を

発し、やはり服喪発生でとりやめてます。かなり軍事的に

目まぐるしく過酷で厳しい時代です。

そもそも400年間統一王朝がなく、争い乱れていたのは、

大陸中国王朝です。6世紀半ば過ぎ北方遊牧民族(鮮卑族)

が建てた北朝を統一した隋が南朝を統合し、久々統一王朝ができました。

 その強大な統一王朝隋が滅ぶのは次代煬帝時代ですが、

高句麗遠征に三度失敗したためです。その兵站輸送として

大運河を築いてますが(後年の発展に大きく貢献しましたが)、三度の遠征失敗で部将李淵が後の唐建国に繋がる

波乱の大陸情勢になってます。高句麗は軍事面でも強大

で、唐は滅ぼすまで、三度遠征で負けてます。領土は満州

東南部に及び、有名な広開土王碑は吉林省にあり、高句麗

の都城はこの付近にありました・・・

(というか色々書くときりがなくなります・・・)

 

 武人としての太子の実像も深堀りされることが今後の

研究で明らかにされるとより解像度高く当時が蘇るでしょう。

 

  市民歴史研究者の服部静向氏が講演で実に興味深い話

をされてます。(ユーチューブで視聴)

 

  論拠となる最新考古学上の物証等・書紀・古事記・万葉集・

 懐風藻等々や資治通鑑を含む中国史書、朝鮮史書から

 の引用も豊富かつ詳細で客観的説得力があります。
 (というか詳細に調べられたことに頭が下がります)

 

 同氏の説は非常に斬新で、古い教科書知識しかない僕には、驚くものばかりですが、詳細はユーチューブで御覧いた

だくとして、僕の謎解きの範囲でのみ自分の記憶上の

知見資料として、

 

AIアシスタントさんの作成図表で示します。

 

失礼しました。貼付けサイズ間違えました。

 高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首(万葉集199番)

非常に長い歌なので、本歌引用は省略(興味ある方は検索頂きたい)

 

 〇壬申の乱は夏の戦いなのに、本歌は明らかに冬の戦いの歌である。

 〇歌の内容から朝鮮での戦いと読み取れる。(以上万葉集より)

 〇中国歴史書(資治通鑑)で唐は662年2月戦い(白村江の戦い前)で高句麗

   百済軍(倭国派兵援助)を包囲するが、苦戦。大雪のため撤退したとの

   記述あるが、書紀には記録はない。この戦いの大将軍が実は明日香皇子

   だったと

   同氏は考察(前将軍・後将軍名の記載があるのにそれを統率する大将軍

   の記載がないー意図的に書紀は記載していないとの考察されてます

 〇 同氏は考古学発掘で652年難波宮が造られた跡が見つかっていると

   主張されておられます。(現場所:NHK大阪付近)現最古の木簡と共に・・・

 〇 661年白雉から白鳳と改元されてるのに書紀に記載なし(寺社の縁起や

   地方地誌等で使われた私年号とされるが、これはおかしい。

   日本史上の白鳳時代はなんなのか?)

 〇不思議なことに百済は660年唐新羅連合に滅ぼされているが、このとき倭は

   救援していない。(なぜか?このとき天皇が没し喪中であったからと同氏は

   考察。実は天皇が難波宮おわしたが、書紀はふれてない。同氏は幸徳帝

   皇后が天皇に即位していたと考察・・・白鳳への改元はこの天皇崩御の

   とき行われた。と同氏は考察。660年百済滅亡時救援できなかったのは

   服喪のため動けなったと考察されています)

 〇持統帝の書紀上に記された31回の行幸の謎

  (同氏は記載上の移動をするのは物理的現実的に無理なので)

  通常考えられている行幸ではなく、記載34年前に遡った軍事的閲兵と

  軍事施設行事の列席と読み解き、場所は奈良でなく、軍船を出す九州の

  吉野とあすかと呼ばれた当時の大宰府辺りの往行路の記録と比定)

 〇本件と直接リンクしないが、邪馬台国論議に大きな謎解きを与える話

  として古代魏時代の一里は75mだったことを、様々資料の証拠を明示して

  解説されてました。今の日本では一里4キロ。古代中国漢代は400mと・・・

 

  だいぶ違いますが、魏代は古来の周代に戻してます。確かに千里眼の意味。

  合点が行きます。(詳しくは同氏の解説等で御覧ください。)

 

 もちろん、専門的見地ではないが、僕の知っている知識を関係づけても

同氏の主張には説得力があるので、ご紹介の意味もこめて少し詳しく

記憶を再現しながら記載したので、ご興味ある方はぜひご自分で聴かれて

知見を広げられたらと思います。

 

 僕はデジタル時代になって、史料等検索でのアクセスも格段に容易になり、

史実は実際も複雑な様相で、仮に全て近く判っても、その解明を系統立てる

ことは至難だと思うが、その実相が相当異なるものなのは明らかになると

考えている。

 

ByFW

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