不比等が藤原一族に権力集中させる政治システムの仕組み(2)
1 蔭位の制(この制度が極めて世襲的で藤原1強体制
を長年に亘り支える根源制度である)
詳説日本史図録(第10版)47にこの制度の図がある
要は出発点が父祖の位階で違うということ
官人登用のルートは、大学・国学で学び、式武省試験に合格し、位階を
得る必要があったが、親王の子は従4位下、諸王の子は従5位下、諸臣1位
の嫡子は従5位下以下逓減して従5位嫡子は従8位上からスタートする。
律令はこれを厳格に規定した。ちなみに長屋王は正4位で叙されている。
立太子草壁皇子は従4位下であるので、高市皇子の嫡子長屋王の位階が
いかに高かったが察せられる。とすれば高市皇子は持統帝時代の
太政大臣とされるが、長子であり、壬申の乱時の武功が絶大と称されて
おり、後年記録に疑義が生じる綻びがみてとれる。
蔭位(おんい)とは律令制体制のなかで、高位者の子孫を父祖である高位者の位階に応じて一定以上の位階に叙位
する制度 (蔭位の制:おんいの制)。中国の門蔭の制から継承された。)
さて伊勢物語の主人公とも目された、在原業平の実像だが、日本三代実録880年卒伝に次の記載があるとされる
(続 平安貴族列伝254Pより)
従4位上行右近衛権中将兼美濃権守在原朝臣業平が卒去
した。(ちなみに日本三大実録となると漢文も難解であるが、
実に細かいことまで書いてある。宮廷公日誌の趣である)
ここで前記事の位階と官職の対応表をみて頂ければ幸い
です。業平は貴族であるが、公卿まで栄達しなかったという
ことです。(つまり通貴どまり)
AIアシスタントさんにまとめてもらった説明書きがわかりやすいでしょう
ただし阿保親王は平城ではなく、桓武帝の孫です。平城帝の第一皇子です。
平城帝は僕が習った日本史では薬子の変とセットだった記憶があります。
とにかくたまにこういうことは起きますので、AIさんの検証はパーフェクトと思わず必ず自分で再確認しましょう。ちなみにあとのまとめは秀逸です。
尚、下記まとめにある藤原高子(二条の后)の父藤原長良は北家隆盛の元
となった冬嗣の長子で同母弟があの良房です。長良の第3子があの基経です。
上記掲題書71Pには「日本文徳天皇実録」上薨去伝の長良評に出世を抜かれても恨まない、藤原北家を救った稀有な人格と書いてあります(詳しく知りたい
方は同書を御覧ください。)「子を知るは父に如かずというが、誠であることよ」
という一節がその真価を当時の官人がどう思ってたか偲ばれます。
令和の幸せとはなにか?に一石を投じると僕は思います。
藤原氏一強体制が構築される典型事例で伊勢物語主人公とされる在原業平
の話をしました。ただし伊勢物語の主人公と古文書から同書が復元した官人
在原業平は違います。詳細記載するとややこしいでしょうから、橋折りますが
途中までは順調な官人の道を歩みます。文徳帝の時代になるとピタリと
昇進がストップします。清和天皇時代ふたたび昇進をはじめ、陽成天皇のとき、
従4位上右近衛権中将に上り、参議昇進の見込みが高かった。蔵人頭にも
55歳で就いているが、上記記載の通り、ここで卒去した。ただ決して不遇な
官人人生ではない。アウトサイダー業平=恋の王者のイメージは伊勢物語の
拡大解釈だと同書の解説にはある。
ただ、同時代宮廷は政変が多く恨み積もる世界だったことは想像に難くない。
この話は皇族系譜の例であるが、蘇我氏・大伴氏・物部氏等有力豪族たちの
奈良時代や平安時代はどうだったのだろう?
それと前記事でちょっとだけふれた筑紫都督府については、また次以降の記事
でみることにして、そろそろ落ちそうなので、この辺で。
ByFW
