テベリヤの浜辺にて

            ヨハネによる福音書 第21章1~14

                    加 藤 高 穂

 

 主イエスが十字架に処刑された過越祭(パスカ)の翌日から一週間続く除酵祭の間、弟子たちはエルサレムに留まっていた。その間、主イエスの死体の埋葬、復活、弟子たちへの顕現と、事態は目まぐるしく展開した。そして今、弟子たちは、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダを除く、十二弟子の故郷、ガリラヤに戻っていたのである。

かつて漁師を生業としていたペテロたちは、生活のため、ふたたび漁をして日を過していた。その生活の只中に、復活の主イエスが自らを現わされたのだ。

 

私は漁に行く

「その後、イエスはテベリヤの海辺で、ご自身をまた弟子たちに現わされた。その現わされた次第は、こうである。シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、他の二人の弟子たちと一緒にいた時のことである。シモン・ペテロは彼らに『私は漁に行くのだ』と言うと、彼らは『私たちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って舟に乗っ

た。しかし、その夜は何の獲物もなかった。夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった」(ヨハネ21:1~4)。

テベリヤの海、すなわちガリラヤ湖の漁は、湖底の間欠泉の活動が盛んになる夜間に行なわれた。湧昇流が水底の栄養物を巻き上げるため、それを求めて魚群が多く集まるからだ。

 この日も、さざ波が浜辺を洗い、湖面が落暉の光でキラキラと金色に輝き始めた頃だったろう。「漁に行くぞ」とペテロが声を掛けると、残る六人も「俺たちも一緒に行こう」と応じたのである。

 だが、どうしたことか。この夜に限って、何度、網を打っても、獲物がかからない。魚は何処に行ってしまったのか…。それでも、根気よく、網を打っては引き上げ、打っては引き上げと、夜通し働き続けたが、何も捕れなかった。両手の指はガチガチになり、パンパンに張った腕は痛いほどだ。誰もが綿のように疲れ切って、口を利く気力もない。やむなく、東の空が白み始めたころ、皆は押し黙ったまま岸に向かって舟を帰していた。

 そんな弟子たちの姿を、水際近くに立って、じっと見詰めている人があった。だが、湖水から湧き上がる朝靄の向こうに、陽炎のように霞んで見える人影が、まさか、甦りのイエス様と気づく者はない。気づくどころか、全く問題にしていなかった。そんな彼らが、岸から90㍍程の所に近づいた時である。

 

あれは主だ

「イエスは彼らに言われた、『子たちよ、何か食べる物があるか』。彼らは『ありません』と答えた。すると、イエスは彼らに言われた、『舟の右の方に網を降ろして見なさい。そうすれば、何か獲れるだろう』。彼らは網を降ろすと、魚が多く獲れたので、それを引き上げることができなかった。イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに『あれは主だ』と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海に飛び込んだ。しかし、他の弟子たちは舟に乗ったまま、魚の入っている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである」(ヨハネ21:5~8)。

 朝の空気を震わせ、野太く良く通る声が、弟子たちの耳に届いた。「子達よ、魚はないのか?」。彼らが「無い」と、ぶっきら棒に返すと、「舟の右手に、網を投げ入れよ。そしたら獲れる」と言う。

 弟子たちは、声の力に気圧され、言われるままに、投網を投げた。すると、どうか。沢山の魚で、最早、網を引くことが出来ないでいた。その刹那、ヨハネの脳中に、召命を受けた日のことが閃いた。朝靄の向こうにぼんやり見える声の主を、視認は出来ぬものの、間違いなくイエス様だと気づいた彼は「主だ!」と、ペテロに言った。

 「主だ!」との声に、ペテロは裸だったので、急ぎ上着をまとい、海に飛び込んだ。岸辺まで大凡90㍍、大漁の網を引いて行ったのでは何時になるか分からない。一刻も早く、イエス様にお会いしたい一心だった。とは言え、裸のままではとてもイエス様の前に出られない。ペテロは、上着をまとい、海に飛び込んだ。上着を着ての泳ぎは、難しい。だが、そうせずに居れなかったのである。ペテロと舟と、どちらが先に着いたかは定かでない。ただ、浜辺に泳ぎ着いた時には、すでに主イエスによる朝食の準備が整えられていたので

ある。

 

網は裂けないでいた

「彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚が乗せてあり、またそこにパンがあった。 イエスは彼らに言われた、『今獲った魚を少し持って来なさい』。シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三匹の大きな魚で一杯になっていた。そんなに多かったが、網は裂けないでいた。イエスは彼らに言われた、『さあ、朝の食事をしなさい』。弟子たちは、主であることが分かっていたので、誰も『あなたはどなたですか』と進んで尋ねる者がなかった。イエスはそこに来て、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。イエスが死人の中から甦ったのち、弟子たちに現われたのは、これで既に三度目である(ヨハネ21:9~14)。

 復活の主イエスは、生きて働いておられる。私どもは、キリストのまなざしの中にあり、その大盤振舞いの、豊かさの中に生かされている。主にお会いした驚きと喜びで、徹夜の労苦や虚しさなど、一瞬の中に吹っ飛んでいた。

 かつてイエス様は、「天国は、海に投げ入れられ、あらゆる種類の魚が集められた網のようなものだ」(マタイ13:47)と言われた。網は今、153匹の大きな魚で一杯になったが、裂けないでいたという。主イエスのお言葉に従い、漁られた153匹の大きな魚とは、神の国に迎えられた人の夥しい数と種類が意味されている。集められた人が如何に多かろうと、その違いがどうあろうと、決して裂けることはない。別は別のまま、その人そのままが、主の命の息吹を受けて、生かされているのだ。私どものちっぽけな色眼鏡で人を裁くのでなく、主の慈愛と寛容に生かされたい。また、それぞれ、主イエス・キリストから授かっている賜物を、お互いのために生かし合って行きたいものである。

 先日、拝受したアメリカの友からの手紙には、ニューヨークに発した、貧富の格差に抗議する「Occupy Wall Street」の運動と共に、

『サイエンス』という季刊誌の記事。シカゴ大学の神経生物学者Peggy Masonとそのグループによる、ネズミを使った「『共感』の進歩的な起源の研究」が紹介されていた。

 それによると、同じ檻に入れていた二匹のネズミを取り出し、一匹ずつ別の檻に入れた。そうこうする内、その一匹が偶然ドアを開けた。最初は偶然だったが、何度も繰り返すうち、開け方を学んだ。そして自分が自由になると、もう一つの檻のドアを開けて、不自由なネズミを解放したという。

そこで今度は、一つの檻にはネズミ、もう一つの檻にはチョコレートチップを入れておく。そこに自由になったネズミを連れて来て、どうするかを観察した。すると何度実験しても必ず、先ず最初に、友のネズミを助けてから、チョコレートの入っているドアを開ける。そして一緒に食べるのを楽しみにしているかのように、チョコレートを二匹揃って一緒に食べたというのだ。

 研究者の理解では、哺乳類は爬虫類などと比べて、生まれた子供は、すぐには一人歩きが出来ず、必ず親が子供の世話をする。そのために、『共感』が身についてきたのではと、推測しているという。

「それにしても、ネズミを多くの人は馬鹿にしたり、毛嫌いしたりしていますが、私たち人間のほうが恥ずかしくなりますね」とは、友の述懐だった。

 「主だ!」との驚きと喜びの中、復活の主の新たな命に生かされて参りたい。

2012.1.20.