いつも喜びなさい
ピリピ人への手紙 第4章4節
加 藤 高 穂
「あなた方は、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(ピリピ4:4)。
使徒パウロは、生涯最後の二年間をローマの獄中で過ごし、紀元64年に皇帝ネロによるキリスト者迫害の嵐の中で殉教の死を遂げたと、伝えられている。
この手紙が宛てられたピリピ教会は、パウロの伝道によって生まれたヨーロッパ最初の教会である。それも、紫布の女商人ルデヤという一女性が信者となり、彼女の家が教会として主の御用のために提供されたことに始まる。以来、ピリピ教会とパウロは、主イエスによる深い愛と友情の絆に結ばれ、終生変わることがなかった。
とまれ「ピリピ人への手紙」は、パウロが獄舎の中で書いたため、「獄中書簡」の名で呼ばれている。生きるか死ぬかも定かならざる状況のまま、留置され続けるといった全くの閉塞状況の中で書かれた手紙なのである。
しかし、不思議なほどに暗さがない。それ以上に、「喜び」或は「喜びなさい」という言葉が、何度も出てくる。そのため古来「喜びの書簡」の名でも呼ばれてきた。
苦境の只中にある使徒パウロの喜びを奪うものは、何もなかったのである。それどころか、獄中にあって、人々をして何ものも奪うことの出来ない喜びへと導いているのだ。この突き抜けた平安と喜びは、一体、どこから生れるのか。
主にあって喜べ
使徒パウロとても、私どもと同じ人の子である。痛みや苦しみを感じないのではない。痛みも苦しみもある。だから、この喜びを、人情で受けとめると間違ってしまう。
「主にあって喜べ」となっている。「主にあって」とは、主に捕えられてという以外にない。ダマスコ城外で、復活の主イエスの光に巡り照らされて以来、パウロは神の息吹きの満ち満ちた世界に生かされていることを、如実に経験してきた。
生ける主イエス・キリストの近さを受けると、空っぽの自分に沸々と湧き上がる力を感じる。痛みも苦しみも、困難も行き詰まりも、そっくりそのまま、我が身が主に保たれ、恵みに生かされつつあるのを覚えしめられるのだ。
主イエス・キリストが、生きて働いて下さっている。自分は、その道具であり、器に過ぎない。恵みを受けたから、自分がどうなるこうなるというのでない。生くるうれし、死ぬるもよし。生きて働き給う主イエス・キリストに、全てをお委ねする。ここに、パウロの魂の平安があったのである。
どんな境遇にも
だから、彼は言う。「私は、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。私を強くして下さる方によって、何事でもすることができる」(ピリピ4:12~13)と、明言している。
キリスト・イエスの御前に、この身も魂も、そっくりそのままお捧げして、神の御用以外にないところ、すべては「主にあって」の一点に、パウロは生かされていたのである。
心と魂が天に吸い寄せられ、天来の生命に生かされるのだ。自分とは全く別物、神の息吹き、主の御霊に満たされると、内から湧き上がる喜びに満たされる。真の生命は、いつも新鮮な活力に満ち、晴やかで喜ばしい。
主の御栄えと御用のためにという一点、そこにこそ、私どもが艱難・迫害にも動かされない感謝と讃美の源泉があるのだ。土の器なりに、自分の生を雄々しく生きる道を頂くのである。思えば、イエス様のお邪魔ばかりの日々を送ってきた今、主のみ栄えを拝しつつ、新たな時に向かっての一歩を踏み出させて頂きたい。