私は初めであり、終りである

    -ただ神だけを拝せよ

                 ヨハネの黙示録 第1章17~19節

 

                加 藤 高 穂

 

迫害の嵐

 今をさかのぼる紀元90年代半ばのことである。ローマ皇帝ドミティアヌス(在位81-96)は、自らを神と宣言し、皇帝礼拝を全国民に強要した。こうして、政府が発令する公布はすべて「我らの主であり、神であるドミティアヌスが命令す」との文言で始めねばならないとしたのである。それだけでない。ローマの神々・皇帝への礼拝を拒否する者を、情け容赦なく、火あぶりやライオンなど猛獣の餌食となして、処刑したのだ。

 しかし、生ける真の神を知るキリスト者は、自らの真実に生きればこそ、皇帝を神として崇め、礼拝することはできない。そのため迫害の嵐にさらされ、数多くの教会の仲間が殉教の死を遂げたのである。

その激越な弾圧は、帝都ローマばかりでない。帝国領内の諸地方にまで及んだ。キリスト者は皇帝による悪魔的な所業を目の当たりにして、恐怖におののき、世の終りに直面しているかのような不安に、おびえ恐れていた。

 

御霊の中にあって

 時に、教会指導者の一人だった著者ヨハネは、迫害によりエーゲ海に浮かぶ孤島パトモスに流刑の身となっていた。そんな或る朝、彼は主日礼拝の最中に、「御霊に感じた」(黙1:10 )という。原文は「御霊の中にあった」〔エゲノメーン・エン・プネウマティ=I was in (the) Spirit〕となっており、ヨハネの全存在が、主の御霊に浸されていたのだ。

 すると、どうか。十字架に死に、三日目に甦り、今も現に生き給う主イエスが、彼の前に姿を現わされたのである。めくるめくばかりのご威光に触れたヨハネは、主の足下に倒れ、死人のようになった。

 このとき、主は右手を彼の上に按き、「恐れるな。私は初めであり、終りであり、また生きている者である。私は死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉の鍵を持っている。そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書き記せ」(黙1:17~19)と、仰せられたのだ。

 

流れゆく歴史の果てに

 チェコが生んだ作曲家スメタナの交響詩『わが祖国』第二曲に、「モルダウ」がある。ボヘミヤの森から流出した水が、流れ進むに従い、次第に水量を増し、広く大きな川となり、やがて詩人の視界を離れ、遠く流れ去っていく。川の流れに沿って、色彩豊かな情景が、まるで絵巻物を見るかのように、次々に展開されて行くのだ。

 私どもの歴史も、モルダウ川さながら、さまざまな時代の変化、折々の情景を映しながら流れていく。その歴史の底を貫き流れているものは、一体、何なのか。モルダウ川は、やがてエルベ川と合して、北海に流入する。だが、私どもの歴史の流れゆく果てには、何があるのか。

 預言者ヨハネが、御霊を受け、主なる神に拝させて頂いた人類の歴史は、「新しい天と新しい地」(黙21:1)の実現をもって、完成を見る。かくて、地上の出来事は、すべからく神の御旨によって成り、そこに意味と目的があることを覚えしめられるのだ。

 だが、そこに至るには、サタンの支配の下、罪の暴威に曝される世界の現実と、それに対する神の激しい審判という、おどろおどろしい光景が繰り広げられていく。その災禍と審判は、第六章、神の右手にある七つ巻物の封印が、主イエスによって次々に解かれることで始まる。第八章から十一章にかけては、七人の天使がラッパを吹き鳴らして生起する七つの災い。更に第十六章では、七つの鉢が地に傾けられて臨む災いをもって、神の怒りは頂点に達する。こうして、神直接のあらたかな「新しい天、新しい地」が現成するのだ。

 

神の審判の意義

 神の審判は、このように七つの災いを一連に、それが三度反復され、その都度、災いが過酷の度を増していく。それは、偶像礼拝によって滅びに陥る者が、真の神に立ち帰るべく、猶予の時を与えられている何よりの証左であろう。神は、私どもを待っておられるのだ。

 だから、神の審判は単なる処罰とは違う。ましてや、罪や悪に対する復讐でない。神にそむく者、罪人を救いに渡すため、ご自身を十字架に磔にしてまで、私どもを愛し抜かれた主である。なればこそ、私どもが、サタンによる闇の力に飲まれ、虚しく滅んでゆくのを見過ごしにはできないのである。神に背く力は、破砕されねばならない。そこで、神の怒りが発せられるのだ。真の神が、神として生き給い、拝されるための審判なのである。

 

荒野での幻

 「それから、七つの鉢を持つ七人の御使の一人がきて、私に語って言った、『さあ、来なさい。多くの水の上に坐っている大淫婦に対する審きを、見せよう。地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫の葡萄酒に酔い痴れている』。御使は、私を御霊に感じたまま、荒野へ連れて行った。私は、そこで一人の女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚す数々の名で覆われ、また、それに七つの頭と十の角とがあった」(黙17:1~3)。

 「赤い獣」とはローマ帝国を暗に示し、「大淫婦」「赤い獣に乗っている女」とは、帝国に君臨する首都ローマを指している。また、「七つの頭」というのは、アウグストゥス以下、五番目に名を上げられたネロを含む七人の皇帝ではないかと推測されている。

とまれ、「昔はいたが今はいないという獣、すなわち第八の者」(黙17:11)というのは、使徒ペテロを始め、多くのキリスト者を迫害して殉教の死に至らせた、皇帝ネロのことだとされる。

 彼は自殺して死んでいたにもかかわらず、実は死んでいない。それどころか、東方のパルテヤで生きながらえ、「十の角」に象徴されるパルテヤ族諸王の軍隊を率いて、ローマ市民に復讐する。さらにはキリスト者を迫害するとの噂が巷に広がり、人々を恐怖に陥れたのである。幸いにもネロの風評は風評のままに終ったが、第八番目の皇帝ドミティアヌスが登場すると、ネロに倍するキリスト者迫害を行ったのである。

 しかし、権力と富の上に殷賑を極め、驕り高ぶっている赤い獣なるローマは、永遠に生きることはできないのだ。暗黒の力を待ち受けているものは、何か。それは、生ける神の審判であり、将来する神の栄光の前に、この世の栄華は一瞬に潰え去り、天来の讃美に呑まれてしまう神の支配の確かさだった。そこからは、「ただ神だけを拝しなさい!」と告げる天使の声が、天地を貫く永遠の真理として、鳴り響くのを聞くばかりである。

 現下の日本では、イエスをキリストと告白しても、何ら迫害を受ける心配はない。だが、ほんの80年程前は違っていた。第二次世界大戦中、矢内原忠雄は、反軍・反戦思想の持主だとして、東京帝国大学を追われたが、彼の許に集う青年たちに聖書講義を続けた。

 1942年3月22日に『黙示録』を講じた速記録の中で、彼は語って言う。

「現代に於てバビロンとは何者だ。我々の信仰を圧迫する者。之が現代のバビロンであります。彼らは私共から福音を宣べ伝へるべき手段を取上げる。わけのわからない事を言ひまして、私共の立場を咎め、私共に国を愛する愛国心がないと言ふ。何がないだ。何が愛国心であるか。国の。この国のたましひが痩せたならば、体はふとっても、どの位物的な、軍事的・政治的・経済的な力は増しましても、倒れる時はあっけなく倒れるのであります。神に愛せられ、神の祝福を蒙るものと我々の国をなす事が、なさうと努力することが、之が最大の愛国心ではないか」(矢内原忠雄著『聖書講義』Ⅳ五34頁より引用)。

 私どもは、生ける主イエス・キリストのまなざしの中に、今を生かされている。私どもにとって、死は滅びでない。永遠の生命とその平安への門出なのだ。御霊の注ぎを受け、確かな望みをもって、共に生かされて参りたいと存じます。