新しいブドウ酒
マルコによる福音書 第2章18~22節
加 藤 高 穂
キリスト・イエスは、古い宗教的因習や干乾びた観念に固執する人々に、天来の新たな生命を吹込み、救いに渡さんと来たり給うた。
だが、悲しいことに私どもは、容易に古い殻を脱ごうとしない。それどころか、神からのあらたかな生命を拒み、抗い、反逆するのである。
それは、主イエスの福音伝道が始まった最初期より、人々の心に、殊に宗教的な権威を帯びた人々の心に、主イエスに対する反感と憎しみとなって現われ、遂には主イエスを十字架の死に追いやるのだ。その敵意は、イエス様を断食問答で窮地に追いこもうという動きにも明らかとなった。
なぜ断食をしないのか
「ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、『ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか』」(マルコ2:18)。
ユダヤ教では、モーセの律法に従い、イスラエルが永久に守るべき定めとして、一年を通じて唯一日・7月10日の『贖罪の日』には断食を行った(レビ16:29)。
だが、荒野に叫ぶ預言者として登場したヨハネは。どうだったか。彼は、神の国が近づいた。イスラエルよ、悔い改めて、神に帰れ。罪の赦しのバプテスマを受けよ!と、人々に迫った。そして断食はおろか、苛酷な禁欲生活で自らを律した。その師亡き後も、弟子たちは、ヨハネに倣う生活を続けていたのである。
また、厳格なユダヤ教徒として知られる、誇り高きパリサイ人も、『贖罪日』の断食は勿論、毎週二日、月曜日と木曜日の断食を常としていた。そもそも「パリサイ人」とは、紀元前6世紀のバビロン捕囚帰還後、宗教改革運動を積極果敢に推進した国粋主義の人々に由来し、堕落した祭司宗教に対する改革者として現われた。その流れを汲むのが、パリサイ派の面々である。ユダヤの宗教を純粋に維持し、気力の失せた人々の精神生活を鼓舞激励せんとして活動した。そのためには、ユダヤの宗教を本来の姿に戻し、人倫の道を正して、国民を救うのが第一と考え、宗教的な愛国心に燃えて、真摯に行動した宗教家たちだった。
とまれ、本邦戦国時代の武将が「人は石垣、人は城」と言ったように、国家の存亡は、国家の礎たる国民の精神生活の如何に掛かっている。なればこそ、モーセの律法とは無縁な生き方をしている罪人たちと深く交わり、断食を守るどころか、いつも彼らと飲み食いを楽しんでいるような主イエスとその弟子たちの姿は、宗教的愛国者を自負するヨハネの弟子やパリサイの徒には、我慢ならなかった。
そこで彼らは、イエス様になぜ断食をしないのかと、迫ったのである。
花婿と一緒にいる間
「するとイエスは言われた、『婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない』」(マルコ2:19)。
パレスチナでは結婚式が終っても、新婚夫婦がハネムーンに旅立つことはなかった。二人は家に留まり、家庭を開放して、丸々一週間は、祝福に訪れた人々と共に、楽しい宴の時を過ごしたという。新郎新婦は、冠をつけ、結婚衣装を着て、王と王妃のように振舞った。貧困と重労働に明け暮れる人生において、この祝いと喜びの一週間こそは、人生最高の至福の時だったのである。
この晴れがましい婚礼の宴を引き合いに出されたイエス様は、ご自身を花婿に、弟子たちを祝宴に招かれた花婿の親しい友になぞらえ、断食をしない理由を明らかにされた。
実際、イエス様は、この地上世界に、イスラエルの救主、すなわち新郎として来臨されたのだ(イザヤ54:5、ホセア2:19)。
婚礼に招かれた弟子たちが、その祝福に満ちた喜びの席で、どうして暗い悲しみの表情をして、断食などできよう。できるはずがないと応じられた。
このように、主イエスと共なる弟子たちの生活というのは、人生最大の幸福。喜びに満ち溢れた日々なのである。
だからと言って、イエス様は、決して断食を否定しておられるのではない。今は喜びにある弟子たちが、深い悲しみに打ち拉がれ、食事も喉を通らなくなる日が来ると、仰せられた。
花婿が奪い去られる日
「しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」(マルコ2:20)。
花婿が奪い去られる日とは、言うまでもなく、主イエスが十字架に磔になって、弟子たちの所から去ることを語っておられる。その時が来れば、断食どころでない。弟子たちは、茫然自失、絶望の果て、食事をとる気力さえ失ってしまう。
だが、何ゆえに主イエスは、奪い去られるのか。ゴルゴタに立つ十字架上で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(わが神、わが神、何ぞ、我を見捨て給うや)と悲痛な叫びを残して、主イエスは死んで行かれたのか。
そこに見えるのは、この世が如何に神を拒み、排斥するものであるかということである。私どもは、神からのものを受け得ないのである。なぜなら、私どもは、何処までも、自分が、自分がと、自分を握りしめ、自分が生きようとするからである。断食!それも結構。だが、善事をなして、神の前に徳を積み、救いの資格を得るとなれば、大間違いだ。自分が生きるという所から出る限り、私どもに救いはない。
ちっぽけな自分の人生にあって、主イエス・キリストの恵みに与からせて頂いた日を想う。救われる資格も望みもなく、絶望こそ我が住処。この世に居場所を失い、逃げ場もないどん底だけ。そこを受けしめられる以外になかった。そして、神無くば、一切は無なりと実感しつつ、神の名も知らぬままに神の名を呼び求めていた。
すると、どうか。奇蹟が起きたのである。どん底と思った更に深みより、十字架の主イエスは、死と滅びこそ相応しい罪人・我を支え、救いに渡し給うておられるのを知らしめられたのだ。その刹那、五体を貫く霊感とともに、勿体ない光に満たされ、主の愛と慈しみに、踊りだしたい、叫びだしたい讃美が、足下から突き上げてきたのである。
こちらには、何の資格も価値も無い。ただ、一方的な神からの恵みだけである。
生ける神直接の、まっさらな世界にこそ、真の救いはあるのだ。
そのことを、イエス様は身近な譬をもって、印象深く語り給う。
新しいブドウ酒
「誰も、真新しい布切れを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。また誰も、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、そして、ぶどう酒も皮袋も無駄になってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」(マルコ2:21~22)。
主イエスは、「新しい葡萄酒は、新しい皮袋に」と言われる。新しい葡萄酒は、沸々と泡立ち、勢いよく発酵して、ガスを放出しつつある。皮袋が新しければ、強力に発酵するガスの圧力にも、容易に耐えることができよう。だが、古くなり、硬く乾いた皮袋に入れると、どうか。古い皮袋は、充満するガスの圧力に抗し切れず、張り裂けてしまう。そして、葡萄酒も皮袋も共に失われてしまうのだ。
新しい葡萄酒になぞらえられた主イエス・キリストの生命。生き生きと息づくいのちは、十字架の主・復活の主イエスから来る。古い我を如何に糊塗しても、救いはない。こちらは、何処までも古い皮袋に過ぎぬ。救いは、一方的に神から来る。沸騰する主イエス・キリスト直々の生命を受けるには、古い皮袋は捨てられねばならない。これは何も他人事ではないのだ。
だが、主の御霊に与かり、十字架の主を受けしめられると、自分に固執していた古い我が、さらりと捨てられ、空っぽのまま、生ける主イエス様への讃美を引き出されるのである。