時を知っているのだから

     -主イエス・キリストを着なさい

                ローマ人への手紙 第13章11~14節

 

                加 藤 高 穂

 

時の流れの中にあって

 「なお、あなた方は時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなた方の眠りから覚めるべき時が、既に来ている。なぜなら今は、私たちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜は更け、日が近づいている。それだから、私たちは、闇の業を捨てて、光の武具を着けようではないか」(ロマ13:11~12)。

 子供の頃、夜空を眺め、気の遠くなるような感慨にとらわれた人は少なくないだろう。その空間的な無限の広がりばかりでない。宇宙の誕生から137億年、地球が生れて46億年、二足歩行の類人猿が登場したのは七百万年前。そして、私ども現生人類(ホモ・サピエンス)が地上に現れたのは、高々三万年前だとされる。過ぎ去った時ばかりでない。今後、どれだけの時が流れていくというのか。

この膨大な時の流れの中にあって、私どもは特別長く生きたにしても、せいぜい百歳前後にしか過ぎない。私どもの人生は、ほんの一瞬、夜空に輝き、たちまち消え去る閃光のように儚く感じられる。なればこそ、私どもの存在には、この上ない神の祝福が先立っているのだ。果てしも知れぬ宇宙の広がり、永遠の時の間に、今この時、ここに生かされている事実こそ、正に奇蹟であり、神の恵みに他ならない。

しかも、聖書は「あなた方は時を知っている」と、きっぱり言い切っている。では、私どもが知っている時とは、どんな時なのか。

 

神による決定的な時

 新約聖書中、時という語には、継続する時を表わす「クロノス」。日・月・季節等、あらゆる時をいう「ホーラ」。更に適切な時を表現する「カイロス」がある。

ところで、「あなた方は時を知っている」という文の場合、「時」は「カイロス」となっている。すなわち、線状に継続する時間を、上から垂直に突入し、切れ目となった時なのである。永遠の時の流れに、神が確と刻み給うた決定的な時が意味されているのだ。

 ならば、その決定的な時とは、どんな時なのか。それは、神の独り子なるキリスト・イエスにおいて始まり、やがて完成を見る時以外にない。端的には、主イエス様の誕生と、神の支配が目に見える形で実現するキリスト再臨の時ということになる。

私どもは、主が来て下さった事実と、来て下さるという希望の光の中に、今、ここに立たされている。その時の間に生かされていることを知る程に、パウロの言葉が、身に迫るのだ。

だから、「特に、この事を励まねばならない」と、彼は言う。ただ、原文には、文頭に「そしてこの事を」(カイ・トゥト=And this)とあるだけで、尻切れ蜻蛉になっており、「励まねばならない」という言葉はない。

 では、(励まねばならない)「この事」とは、何なのか。それは、パウロが直前まで語ってきたことを意味していよう。すなわち、主イエスの福音、神の救いに与かった者として。新たな生命の溢れとも言うべき、愛の生活。また、私どもの日々を、神が神として生き給うべく、主の先立ちを拝しつつの私どもの歩みが求められるのだ。

 とまれ、漆黒の闇は深みに達し、明るい朝を迎えようとしている。日が近づいているのだ。

 ここで「日が近づいている」と訳された原文は、完了形(ヘー・ヘーメラ・エーンギケン=The day has come.)となっている。その日が来てしまっているというのだ。新しい日がすでに始まり、暁の光が射し込んでいるのである。なればこそ、救い難き闇、死臭を放つ罪、絶望と滅びが、身を切る痛みとなって、己が心と魂を責め苛むのだ。肉と欲に耽溺した生活が、砂を噛むように味気なく、虚しく、何よりも疎ましいものと化してしまう。もはや、土つかずの新たな世界に与からぬ限り、救いはない。今こそ、天来の光を受けて始まる、新しい生命が待たれるのだ。

 

昼歩くように歩こう

 「そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いと妬みを捨てて、昼歩くように、慎ましく歩こうではないか。あなた方は、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ロマ13:13~14)。

 宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いと妬み、夜の闇に紛れて行われる、おぞましくも膿み爛れた生活を振り捨てようではないか。救いの光に与かり、昼歩くように、堂々と身を正して歩こうと、パウロは呼びかけるのだ。

 とまれ、この聖句は、アウグスティヌス(354~430)を覚醒させ、回心を呼び起こしたことでも知られる。その著『告白録』によれば、386年8月、当時、31歳だった彼は、懊悩・煩悶、深い魂の悩みの果て、ミラノの庭園で無花果の樹下に身を投げ、涙の流れるままに任せていた。その時、思いがけなく隣家から「取りて、読め。取りて、読め」と、何度も繰り返す、子供の歌声が聞こえてきたのだ。それは自分に語りかける神の御声そのもののように、心と魂に鳴り響いた。彼は、溢れ出る涙を抑えて立ち上がり、部屋に入ると、机の上にあった使徒パウロの書を開いた。その瞬間、目に飛び込んできたのが、このロマ書13章13~14節だったのである。彼は言う。

 「私はこのさきをもう読もうとは思わなかったし、またその必要もなかった。その句を読み終えるや、いなや、たちまち、心は、光のようなものに、みたされて、鎮まり、おおっていた闇も、すっかりかき消されて、もはや、何のうたがいも残らなかった」(今泉三良・村治能就訳)。

 アウグスティヌスは、聖書の御言葉を、御言葉そのままに受けしめられた。主イエス様が開いておられる救いの道を、そっくりそのまま、お受けしたのである。その刹那、神の光に包まれ、何者も奪うことのできない愛と平和、救いの喜びに満たされたのだ。

御霊を受けて知るイエス様の恵み、神の愛は一方的である。私どもには、救いに与かる資格など、何一つない。なればこそ、パウロは「主イエス・キリストを着なさい」と呼びかけるのである。

 あのアウグスティヌスも与かった救いの喜び。立ち騒ぐ胸の波・荒れ狂う懊悩の嵐も静まり、悲しみの涙は払われ、全身全霊、神の光に満たされて、平安そのものとなる。主だけが主、神が生き給う、天来の喜びに招き入れられたのだ。

 

主イエスを着よ

 地上に在りし日、イエス様は十字架の死を見据え、エルサレム入城を果された。その折、多くの人々に福音の喜びを伝えたいとの熱い祈りから、種々の譬をもって天国の奥義を語られた。そのひとつが、王が催す愛息の婚宴の譬(マタイ22:1~14)であった。

王子の婚礼である。招待客リストに名を連ねるだけでも、名誉な事だったろう。その慶びの日が来たのだ。王は喜色満面、招待客に使者を送った。だが、招かれた上流階級の人々は、この世的な利益や都合で、出席を断ったのである。

そこで王は、誰でも構わぬ、人を呼んで参れと使いを送り、一般の人々を婚宴に迎え入れた。こうして、王族・貴族しか入れない王宮に、沢山の身分の低い人々が招待され、喜び溢れる祝宴が始まった。

 だが、そこに礼服を着ない男がいた。当時、王様が人を招く時、礼服のない者には礼服が用意されていて、祝宴の客に唯一つ求められたことは、礼服を着るということだけで、それは大切な礼儀だったのだ。

 そこで王は、「どうして君は、婚礼の服を着ないで、入ってきたのか」と言った。ところが、男は不貞腐れたまま、返事もしない。怒った王は、その非礼な男を、外の暗闇に放り出させたという。

 私どもは、自分の業や力で、王の婚宴・天国の喜びに入ることはできない。死と滅びがふさわしい罪の子である。それが天来の救いに与からせて頂いたのだ。

これこそ、神の栄光の衣、主イエス・キリストを着るという一方的な神の恩寵、聖霊にバプテスマされて始まったことなのである。主イエスは先立ち給う。神の御栄えを拝しつつ、今というこの時を、共に歩ませて頂きたい。