イエス・キリストの福音のはじめ
マルコによる福音書 第1章1節
加 藤 高 穂
新約聖書27巻の巻頭を飾る四つの福音書中、時間的に最初に書かれたのが、『マルコによる福音書』である。この福音書を紐解くと、その簡潔な記述と行間から溢れ迫ってくる、清新な息吹きと勢いを感ぜずにおれまい。彼は先ず「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(マルコ1:1)と声をあげる。
福音は、私ども人間ばかりでない。全世界・全被造物の歴史の初め、否、その歴史の行き着く先から将来する、神のいのちの割入りなのだ。
著者ヨハネ・マルコは、初めであり、終りである神の御霊に与からしめられた。生ける主イエス・キリストの、愛と生命を受け知らされたのである。
福音という言葉は「喜びのしらせ」との意味だが、福音の内容は、福音そのものなる主イエス・キリストのことであり、また主の救いに与からせて頂くことに外ならない。なればこそ、マルコならずとも、その喜び、恵みと祝福を伝えずにおれなくなるのである。それでは、福音に与かった伝道者マルコとは、如何なる人物だったのだろうか。
少年マルコの衝撃
彼の母マリヤは、自分の家をエルサレム教会の集会所、また本拠として提供していた(使徒行伝12:12)。紀元30年、十字架を前に、イエス様は十二弟子と最後の晩餐の時を過ごされた。その場所となったのも、マルコの母マリヤの家の二階・大広間だったと考えられる。
この夜、サタンに魂を売渡したイスカリオテのユダに、イエス様は「しようとしていることを、今すぐするがよい」(ヨハネ13:27)と言って、一切れの食物を渡された。ユダは、それを受けとると、すぐに家を飛び出し、闇の向こうに走り去ったのである。
その後、イエス様は夜を徹して祈るため、弟子たちと共に、ゲッセマネの園に出かけて行かれる。それからの出来事を、一睡もせず、驚きの目を瞠って密かに目撃していたのが、少年の日のマルコだったのだ。そして夜も明けやらぬ時のことだった。祭司長、民の長老たちから送られた大勢の群衆が、剣や棒を持って、イエス様を捕えるため、ユダに先導されてやって来た。この時、弟子たちは皆、主イエスを見捨て、蜘蛛の子を散すように逃げ去った。
マルコは「時に、ある若者が身に亜麻布を纏って、イエスの後に着いて行ったが、人々が彼を捕まえようとしたので、その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った」(マルコ14:51~52)と、危うく捕まりそうになった人物を紹介している。この若者こそ、名は明かさぬまでも、間違いなく少年マルコ本人の姿だったのである。
この夜、彼自ら体験した、一連の恐ろしい事件は、忘れられない衝撃的な記憶となって胸の奥深く刻まれた。さらには、主イエス・キリストの十字架前夜を知る、稀有な目撃証人として、今に生きる私どもに、生々しい事実を伝えてくれているのである。
マルコに関する記事は、ここで一旦、消えてしまう。そして再び彼の名が出るのは、大凡16年後、使徒パウロが、第一回伝道旅行に出立した途中、マルコが引き起こした事件だった。
マルコの苦い失敗
紀元46~48年、使徒パウロとバルナバは、聖霊に送り出されて、シリヤのアンテオケ教会の人々の見送りを受け、伝道の旅に出で立った。この時、かつての少年マルコは、年のころ30歳前後、意気盛んで、身体壮健な好漢に成長したバルナバの従弟マルコも、一行に加わっていたのである。最初の伝道地クプロ島における伝道の成果はめざましく、旅は順調な滑り出しを見せていた。こうして、小アジアの南岸、地中海に臨み、沼沢地の広がるパンフリヤのペルガに至った時だった。
何を思ったのか。突然、マルコは、一行を離れ、エルサレムに帰ってしまったのである。理由は分からない。そのため、後世の学者が、色々と推測を逞しくして言う。
得心のいく意見としては、湿気多いこの地で、パウロはマラリヤ熱に罹ったが、それを押して小アジア中央の高原都市ピシデヤのアンテオケを目指すという。目の前には、標高三千㍍を優に超える峨々たる山々が、どこまでも連なるタウロス山脈が、屏風のように聳え立っている。九十九折の峠には、凶悪な山賊が出没。森や林には、危険な野獣が身を潜め、獲物を狙っている。屈強な人間でも、死の危険と恐怖で足がすくみ、逃げ出したくなるであろう。しかも、半病人を抱えての山越えである。マルコが、後生大事と、一行を離れ、エルサレムに逃げ帰ったのも理解できよう。
だが、この事件が、お互いの信頼と友情による強い絆で結ばれていた、パウロとバルナバの決別を招くことになったのである。
主は万事を益となし給う
紀元49~52年、使徒パウロは、第二回伝道旅行(使徒行伝15:40~18:22)を行っている。
この旅に出る前、パウロは「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、みんながどうしているかを見てこようではないか」と、バルナバを誘った。彼に異論はない。二つ返事で賛成した。
この時、バルナバは、ヨハネ・マルコを一緒に連れて行く積もりだった。だがパウロは、前回、パンフリヤで一行を離れ、働きを共にしなかった者など、連れて行かないと強く反対した。そこで、激しいやり取りがあり、二人は互いに別れ別れの道を歩むことになったのである。パウロはシラスを選んで出かけ、バルナバはマルコを連れてクプロ(キプロス島)に渡った。
慰めの子と呼ばれ、その温和な性格と深い思いやりで、人々から多大な信望を得ていたバルナバである。他人の失敗を許し、苦境に置かれた人のためには、自分が憎まれ疎んじられようと、その人を庇って、後に引かない。泥を被ってでも、その人を守り抜く強さをも持っていたのが、バルナバであった。マルコ・ヨハネが、そのバルナバに導かれたのは大きい。
やがてマルコは、イエス様の筆頭弟子だった使徒ペテロにとって、掛替えのない助け手となり、ペテロから「私の子マルコ」(第一ペテロ5:13)と呼ばれるまでになった。
そればかりでない。自分を厳しく非難した使徒パウロが、ローマで幽閉生活を送っていた時には、彼の傍らにあって、その信頼を集めたマルコの姿があった。
人は、変わるのである。今が駄目だからと裁くのでない。すでにその人の上に、主イエス様が臨んでおられるのだ。主の恵みと祝福の下に、お一人お一人を受けしめられる豊かさにこそ、生かされたいものである。
とまれ、マルコは、バルナバから真の優しさを、パウロからは主の道に生きる者の厳しさを、そしてペテロからは、地上に生きておられた頃のイエス様のお姿を懇ろに聞かせて貰うことができた。そして福音の何たるかをつぶさに体験したのである。
マルコ伝誕生の時代背景
マルコが福音書を書いたのは、彼がローマに滞留していた紀元65年のこととされる。その前年には、皇帝ネロの迫害によって、教会の柱と目されたペテロとパウロが、相次いで殉教の死を遂げたのだ。当時のキリスト者にとって、大きな心の支えだった二人の指導者を失い、また仲間から数多の殉教者を出した教会は、これからどうなるのかという不安と動揺に包まれたであろう。その時、キリスト者を鼓舞激励するために、緊迫した空気の中で、急ぎ書かれたのが、『マルコによる福音書』だった。
ローマ皇帝は自ら、神の子と呼ばれることを求めた。これに対して、十字架に死に、三日目に甦り、今も、現に、生きて働き給う主イエス・キリストこそ、真に神の子であり、この御方による以外に救いはないと、マルコは天下に向かって、声高らかに宣言するのだ。
しかも、聖書に預言された神の約束は、熱い生命の奔流となって、アブラハム以来、四千年の歴史を貫流し、主イエス・キリストによって、私どもの救いが、成就したという事実を証ししているのである。