幼な子らを呼び寄せ
ルカによる福音書 第18章15~17節
加 藤 高 穂
絶壁に向かって
主イエスは、弟子たちを前に、すでに二度、ご自身の死と復活を予告された。だが、弟子たちはというと、肝心なことを何一つ理解できていなかったらしい。何か空恐ろしいことが、イエス様の身に起こるだろうと感じはしたが、それ以上、敢えて訊ねることを避けた。真実を知るのが怖かったのである。
私どもも、変わらない。自分にとって嫌な事、恐ろしい事が目前に迫っていると分かって居ればいるほど、それを見たくない、知りたくないばかりに、不都合なことには目をつぶってやり過ごそうとする。
パスカルは「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである」(『パンセ』183)と言っている。
だがイエス様は、目の前の絶壁・十字架の死をしかと見据え、エルサレムへ向かって歩を進めていた。その主の周りには、様々な病や心の闇を抱え、世の苦しみからの救いを求めて、飢え渇く人々が押し迫っていたのである。そんな群衆に混じって、わが子を祝福して貰おうと、幼い子どもを抱いた若い父親や母親たちが、我先にとイエス様の許にやってきた。
触って頂くために
「イエスに触って頂くために、人々が幼な子らを御許に連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らを嗜めた(ルカ18:15)。
ここに出ている「幼な子」(ブレフォス)は、生まれたばかりの乳児、乳飲み子を意味している。彼らが、自分で歩いて来れるはずはない。父親か母親かが、わが子の幸福を願い、神の人なる御方からの祝福を求めてやって来たのだ。
ユダヤでは、最初の誕生日を迎えた幼な子を高名なラビのもとに連れて行き、祝福して貰う習慣があった。そうした折も折、各地で評判の主イエスが来られたと聞けば、親はじっとしておられない。愛児を抱いて、急ぎイエス様の許に駆けつけたのである。
そんな親たちの姿を見た弟子たちは、彼らを叱りつけた。イエス様が、ご自身の死と復活を予告されても、何ら理解できなかった弟子たちだった。それでも、主イエスが重大な決意と共に、エルサレムに向かっておられるのは分かっていた。
その緊迫した情況にあっても、イエス様は嫌な顔ひとつ見せず、人々の求めを受け、彼らを救いに渡しておられたのだ。そして今また、大勢の群衆が、押し合い圧し合いやって来ている。イエス様のお疲れは、如何程であろう。主の負担を少しでも軽くして差し上げたい。それなのに、切羽詰った救いを要してもおらず、訳も分からぬ乳飲み子への祝福を求めてやって来る親たち。彼らの身勝手な行動に業を煮やした弟子たちは、一体、何を考えているのかとばかりに、親たちを叱責したのである。
こうして、弟子たちが乳飲み子を邪険にした底には、当時、人間扱いされなかった子供や小さな者への差別意識が働いていたのかも知れない。
幼な子らを呼び寄せ
「するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、『幼な子らを私の所に来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である』」(ルカ18:16)。
主イエスへの親切ごかしに、親たちを叱り飛ばした弟子たちを、イエスご自身は是とされなかった。マルコ10:14は、「それを見てイエスは憤られた」とまで言っている。イエス様が怒られる姿は、ほとんど聖書に出てこない。しかし、この時は、弟子たちのやり方がよほど腹に据えかね、怒り心頭に達せられたのであろう。思い違いも甚だしい弟子たちを制し、「乳飲み子らを呼び寄せて言われた、『幼な子ら(タ・パイディア)を私に来るままにせよ、彼らを拒むな。神の国は、このような人たちのものだからだ』」。
主イエスは、何をもって幼な子、とりわけ乳飲み子が神の国にふさわしいとされるのだろうか。
我が家に初めて子供を授かったころ、赤ん坊は静かに寝かしておくのが良いと言われていた。今は、できるだけ子どもの目を見て、優しく話し掛けることを奨励しているとも聞く。事ほど左様に、育児法にはその時代、その時代の流行があって、変化していくものらしい。これこそ最高という子育ての仕方は、いまだ確立していないというのが、正直なところで、いつの世も試行錯誤を繰り返しているという証拠なのだろう。
とまれ、最初の子は別室に、ひとり静かに寝かせておくことが多かった。時折、赤ん坊の様子を覗くと、私どもには見えない何かが、見えているかのように目を開け、嬉しそうな声を上げて、手足をばたつかせている姿を目撃したりすることがあった。
かつて主は、「心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう」(マタイ5:8)と言われたが、あの乳児の笑いは、私どもには見えなくなってしまった神を、間近に拝し、天来の声に反応していたのだろうか。
人は、生まれた時には、神の光の衣を纏っているが、歳を重ねるにつれ、神の光が消えていくとも言われる。だから、イエス様は乳飲み子の純粋無垢、穢れを知らぬ無邪気な人間こそ、神の国にふさわしいと仰せられたと理解したくもなる。
しかし、乳飲み子のようになれと言われても、はい分かりましたとは行くまい。どんなに努力しても、あの乳幼児のようになることはできない。純真無垢、疑いを知らぬ真っ直ぐな目や、無邪気に喜びを表わす笑顔、柔らかく瑞々しい姿を求められても、全くのお手上げである。
だが、ここでは、純朴な子供の心やその美点を愛でられたのではない。それではと、未熟さ故に、人間扱いされなかった当時の子供を思い、謙遜が尊ばれ、自己卑下することが求められていると早合点して、万事に控え目に振舞うことと勘違いするに至っては、まさに論外である。
幼な子とは、主の御霊に与かって知る、私ども人間の真の姿なのだ。別けてもイエス様が、乳飲み子を取り上げておられるのは、唯、一方的な恵みと祝福に与かる以外に、神の国に入ることのできない私どもの真実が言われているのだ。
幼な子のように
「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(ルカ18:17)。
「よく聞いておくがよい」とは、直訳すると「アーメンあなた方に言う」となる。イエス様が、これだけは間違ってはならぬと大事を告げられるときは、決まって「アーメン」と言って語り出された。それを「よく聞いておくがよい」としたのでは、力が失せてしまう。
とまれ、主イエスは「誰でも幼な子のように神の国を受けない者は、決してそこに入ることはできない」と仰せられた。
乳幼児がミルクを飲むとき、彼らはミルク成分を分析して、自分が生きるために有用かどうかなどは考えない。ただ、母親の温かく柔らかな胸に抱かれ、慈愛に富んだまなざしを受けて、与えられたお乳をひたすら素直に飲む。
神の国・神の支配とは、何か。それは、乳飲み子が母親の胸に抱かれるように、主イエスに抱かれ、祝福されることに他ならない。
また、幼な子とは、イエス様にあっての幼な子ということである。こちらは、何もない。空っぽのまま、お受けするだけ。一方的な神の愛、主イエスの恵みに包まれて、生かされることである。
一昨年来、日曜礼拝では、『使徒行伝』を共に読ませて頂いてきた。真っ暗な冬の海、怒涛逆巻く嵐の中、破船の危機に直面し、人々が絶望する中で、主イエスの恵みに生きる使徒パウロは、逆境にあればこそ、人々に快活であることを勧め、何よりも先ず、主なる神に感謝を捧げた。
吉凶禍福、色んなことが起こる。その只中で、主の先立ちを拝しつつ、永遠の息吹きを受け、主の幼な子として共に歩ませて頂きたい。