信仰による義人は生きる

      ー宗教改革の原点ー

                 ローマ人への手紙 第1章17節

 

加 藤 高 穂

 

宗教改革の原点

 「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてある通りである」(ロマ1:17)。

 この聖句は、マルチン・ルター(1483~1546)による宗教改革の原点ともいうべき決定的な意義を有している。ルターは、少年の頃から「神の義」こそが、神の性質と受け止めていた。神は義しい者には正しく報い、不義な人間や罪を犯した人間を、厳しく処罰する、恐ろしい審判者としての神を信じていた。そのため、自分の罪深さを自覚するにつれ、神を恐れ、心の平安を得ることができずに苦しんでいたのである。

 そんな彼が「信仰による義人は生きる」という御言に隠された本来の意味を、天来の光に照らされ、受け知らされたのだ。彼の心は、湧き上がる、救いの喜びと平安に満たされた。人間が、神の前に義とされるのは、信仰による。キリスト・イエスの恵みによる。恩寵のみ、信仰のみとの確信を得たとき、彼の前に、天国の門が大きく開けたのである。もはや何ものも、彼の魂の平安と喜びを奪うことはできなかった。

 こうして、免罪符問題をきっかけに起きた1521年4月18日の「ヴォルムス国会」における異端審問の場でも、ルターは臆することなく、福音の真実のために戦い、「私はここに立っている。それ以外にない。神よ、助け給え。アーメン」と応え、生ける神の証人として毅然たる姿勢を貫いたのだった。

 では「神の義が、福音の中に啓示され」とは、どういうことなのか。

 

福音の中に啓示され

 神の福音とは、神の御子イエス・キリストのことである。神の義は、主イエスにおいて啓示されている。啓示されつつあると、ギリシャ語原文では、現在形・受動態になっている。「啓示する」(アポカルプトー)とは、覆いを取るという動詞で、今まで秘義であったものを全て明らかに示すという意味の言葉である。すなわち、神の真理なる福音は、神ご自身が見せて下さらない限り見えてこないのだ。

 だが、神の啓示を受けた刹那、私どもの眼にありありと焼きついて来るのは、何か。それは、神の怒りであり、十字架の主イエスのお姿以外にない。主の十字架こそが、実に神の怒りの啓示に他ならないのだ。

 受難の黒人霊歌として、感銘深い讃美歌に『あなたも見ていたのか』(Were you there when they crucified my Lord?)がある。教会学校の子供たちと、この讃美歌をはじめて歌ったとき、十字架に釘打たれる主のお姿が焼きついて来て、強く心揺さぶられたのを憶えている。鳥居忠五郎訳の歌詞を紹介すると、

 

  一、あなたも見ていたのか、

    主が木にあげられるのを。

    ああ、いま思いだすと、

    深い 深い 罪に

    わたしはふるえてくる。

 

  二、あのとき見ていたのか、

    主が釘をうたれるのを。

    ああ、いま思いだすと、

    深い 深い 罪に

    手足がふるえてくる。

 

  三、あそこで見ていたのか、

    主が槍で刺されるのを。

    ああ、いま思いだすと、

    深い 深い 罪に

    からだがふるえてくる。

 

  四、あなたも見ていたのか、

    主を墓に葬るのを。

    ああ、いま思いだすと、

    深い 深い 罪に

    こころがふるえてくる。

 

 実に福音において見えてくるのは、「裁きの座」に他ならない。わが罪が、否、この私自身が、義なる神に断罪され、見捨てられ、死と滅びに渡される姿以外にないのである。

 だが、義なる神の裁きを受け、己が存在の破滅を知らしめられて、砕けた魂のどん底から神の名を呼び、神に立ち帰るとき、不思議にも神の側から、一方的な救いの恵みに与からせ給うのだ。

 裁く神は、裁かれる神となって、十字架の深みから、死と滅びが相応しい者を、そっくりそのまま、救いに渡して下さった。義なる神こそ、愛の神であることを、十字架の主イエスは明らかにされたのである。

 

使徒パウロの救い

 使徒パウロが、身をもって体験したことも同じだった。熱心なユダヤ教徒・パリサイ派の急先鋒として、将来を嘱望されていた彼は、「十字架に刑死したナザレのイエスが復活して、今も、現に、生きて、働いておられる。この方による以外に救いはない」と宣べ伝えるキリスト者たちを、真の神を汚す邪教徒、この世から根絶やしにすべき神の敵、憎むべき輩として、激しく迫害した。そして、命からがらエルサレムを脱出し、シリヤのダマスコに避難したキリスト者たちを執拗に追跡して、ダマスコ城門のあたりまで来た時である。パウロは、太陽の光よりも明るい光に巡り照らされ、地に打ち倒された。その彼の耳に、思いがけない声が響いたのだ。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」。

 彼は、吃驚して尋ねた。「主よ、あなたはどなたですか」。すると、答えがあった。「私は、お前が迫害しているイエスである」。

 この瞬間、彼は上からの回心を経験し、生まれ変わった。それまでの彼は、神の御用のために働き、自分ほど神に熱心な者はいないと自負していた。神の前に義しい者と認められるべく、日夜、誰よりも激しく研鑽を重ね努力していた。だが、そんな自分こそ、「不義をもって真理を阻もうとする人間」であることを、如実に思い知らされたのである。受けてこそ知る、神の真実である。

 こうして、彼は初めて、己れの罪、神に対する己が不信心と不義を受け知らされた。激しい神の怒りを、骨の髄まで知ったのである。存在そのものが、根底からひっくり返され、焼き尽くされ、神の大いなる愛が焼きついてきたのだ。生ける主イエスの燃え盛る愛の炎に、全身全霊が包まれ、古いサウロは死に、新しいパウロとして生まれ変わったのである。

 

信仰による義人

 ところで、「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」とは、どういうことなのだろうか。もっとも原文には、「至らせる」という語はないので、そのままを直訳すると「なぜなら、神の義は、福音において、信仰から信仰へと啓示される」とも訳し得るであろう。

 「信仰」(ピスティス)は、信心とは違う。信仰を神の福音たるキリスト・イエスを受けるべき条件としての心と魂の状態と取れば、とんだ思い違いとなる。そうではない。人は、福音に触れて、信仰へと覚醒させられるのだ。

 使徒パウロが、ダマスコ途上で回心を経験した時は、どうだったか。彼の心には、十字架の主イエスへの信仰など、微塵もなかった。それどころか、敵意を抱き、憎悪していたのである。主イエスを奉ずる輩を、この世から抹殺せんとしていた。

 パウロだけでない。この世は、寄って集って、不義をもって真理を捕まえ、息の根を止めんとしたのである。それが、復活の主の圧倒的な光を受けてひっくり返ってしまったのだ。

神の怒りは、他ならぬ自分の上に下されたのだ。こうして、神の怒りに焼き滅ぼされたパウロは、生ける主イエスの復活の命に生かされるものとなった。

 信仰は、私ども人間の側から始まるものではない。神の側から、恵みとして賜わるのである。それは、十字架に打ち殺されたイエス様を目の当たりにして、絶望と闇をしか見ることのできなかった直弟子たちにとっても、変わらない。彼らも、甦りの主に見えることで、初めて生けるキリストへの信仰を呼び起こされている。

 それでは、私どもの場合は、どうだろうか? 私どもも福音に出会うことによって、信仰に目覚めるのだ。私どもの存在に割り入り、信仰を生み出し、呼び起こす神の力こそ、主イエスの福音なのである。この主なる神からの、大いなる恩寵としての信に生かされ、共々に、主の御栄えを拝しつつ、歩ませて頂きたい。