栄光の自由

       ローマ人への手紙 第8章18~22節

 

            加 藤 高 穂

 

今のこの時の苦しみ

 「私は思う。今のこの時の苦しみは、やがて私たちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」(ロマ8:18~19)。

 使徒パウロは、「今のこの時の苦しみ」をはっきりと目の前に見すえていた。神に造られた者の苦しみ、この世の苦しみ。それは私ども人間の苦しみだけに止まらない。神の全被造物は、前へ体を伸ばして一刻千秋の思いで、「神の子たちの出現」を切望しているというのだ。

この希望は、徹頭徹尾、神に向かう希望に他ならない。復活のキリストが再び目に見える姿で来り給い、神の国が実現する日であり、救主イエス・キリストによる万物更新が実現する日への希望なのである。それは先ず「神の子たちの出現」となって顕わとなるのだ。「出現」と訳出された言葉の多くは、「黙示」と訳され、覆いを取って真相を明らかにするという動詞に由来する。

 かつて主の忠実な僕・老ヨハネは、ローマ皇帝ドミティアヌスの迫害により、パトモス島に流された。このとき彼は、キリスト・イエスの黙示を受け、罪贖われた神の子たちの姿を、ありありと見せてもらった。そこには死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去った新しい天、新しい地なる神の国に生きる、輝かしい神の民の姿があった。

 こうしてキリスト・イエスにより、死に隈どられた私どもの肉の体は、やがて主の栄光の体へと贖われる日が来ることを教え示された。だが今、その日は、将来する時の中に留まっており、被造物全体は産みの苦しみの中に置かれている。

 

虚無に服したのは

 「なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びの縄目から解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共に呻き共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている」(ロマ8:20~22)。

 旧約聖書冒頭の天地創造の記事によると、人間は神の喜ばしい存在として創造され、神の愛と慈しみの中で生活していた。また天地自然とも真に麗しい調和があった。こうして、私ども人間は、「神の国」の原型ともいうべきパラダイスにおける神との交わりから、その歩みを始めたのである。

 だが、その喜ばしい神との調和が崩れたのが、神の如くならんとして、人類の始祖アダムとエバが、禁断の果実を食するという罪を犯し、楽園を追放されたことに始まる。そして、人間の罪は、人のみならず万物に堕落と破壊を齎し、死と滅びなる虚無の世界に生きることを余儀なくされた。

 そして、被造物全体が、言葉にならない痛み、苦しみのどん底から、共に呻き共に産みの苦しみを続けている。老い衰えてゆく命、癒し難い病、避けることのできない死。愛する人との離別。この世は、何と多くの苦しみ、悲しみ、悩みに満ち満ちていることか!

 しかし、パウロは、呻く以外にない苦しみを圧倒し、凌駕する神の救いと希望の光を見ていた。私どもの今この時の苦しみの只中に、自ら入り込み給い、苦しみの中にある私どもに、すべての苦しみと死を凌ぐ、神の生命と交わりを与えて下さる十字架の主を知らされていたからだ。死の床を蹴破り、神の右に座し給う復活の主の生命を受けると、苦しみと死の只中に、肉の身を貫き流れる熱い血潮の滾りを覚え、湧き上がる讃美を頂くのである。