私は主に寄り頼む
詩篇 第11編
加 藤 高 穂
旧約聖書の詩篇150編中、半分近くはダビデの名が冠せられている。何をやっても超一流、感性豊かで詩才に富む彼は、若い頃から竪琴を弾き、たくさんの抒情詩を作った。一介の羊飼から身を起こして王位にまで上り、イスラエルの全盛時代を現出させた名君ダビデだが、その生涯は実に波乱に富んでいる。
彼の作とされる詩篇第11編は、逆境の真只中にあって詠った第23編と共に、珠玉の名品として多くの人に歌い継がれてきた。
逆境のただ中にあって
「私は主に寄り頼む。なにゆえ、あなた方は私に向かって言うのか。『鳥のように山に逃れよ。見よ、悪しき者は、暗闇で、心の直き者を射ようと弓を張り、弦に矢をつがえている。基が取り壊されるならば、正しい者は何をなし得ようか』と」(詩篇11:1~3)。
これは、ダビデの若き日、サウル王から迫害を受けた頃の作だとされる一方で、晩年、愛息アブサロムの叛乱に遭った時の詩だとも伝えられている。それでは、サウル王による迫害時の詩だとすれば、どうか。
王の迫害を受けて
神意を裏切って、神に見捨てられたサウル王は、悪霊に悩まされ、音楽で心を癒すべく、竪琴の奏者としてダビデを宮廷に召した。王に仕えるダビデは、次第に天賦の才能を発揮し、遂に側近の兵士に登用される。そんなダビデの名を、国中に轟かせる出来事が起きた。イスラエル軍を震え上がらせた、強敵ペリシテの大勇士・巨人ゴリアテを石投げの石ひとつで見事に倒したのである。以来、彼は連戦連勝、戦いの度に名をあげ。サウル軍最高の地位にまで登りつめた。
サウル王は、側近としてダビデを重用していたが、彼の名声が高まるにつれ、疑心が芽生え、心中穏やかでなくなってくる。そんな或る日、女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」(Ⅰサムエル18:7~8)と歌うのを耳にして、ダビデに対する妬みと恐れ、不安が一気に噴出したのである。ダビデが謀反を起こして、王位を奪うのではないか。
一刻の猶予もならぬ。彼は、宮廷で琴を弾くダビデを殺害しようとして、槍を投げたが、危うく身をかわしたダビデは難を逃れた。それからが、息つく間もない、逃亡生活の始まりだった。命からがら逃げ出した彼を、サウルは情容赦なく、執拗に厳しく追及する。荒野や山地、森や洞窟、転々と居場所を変え、時には宿敵ペリシテの領内に身を潜めてまで彷徨う中、この詩が作られたというのだ。
或いはまた、晩年の作だとすると、どうか。
息子アブサロムの叛乱
世の親の内、誰が、愛して止まぬ信頼する子供に反逆され、命を狙われる日が来るなど、想像できよう。王位にあったダビデが、そうだった。まさか息子アブサロムが自分に刃を向け、叛乱を起こすなど夢にも思わなかった。百戦錬磨の名将ダビデも、不意を突かれては、どうすることもできない。取るものも取りあえず、王宮を逃れるのが、やっとだった。こうして、王位を奪われ、王宮を追われ、寄る辺なき身となって、不毛の砂漠を流浪していた時、この詩篇は作られたというのである。
クーデターにより王位を奪われ、亡命の身となるだけでも、失意の底に叩き落とされるのに、反乱の首魁が、愛する息子アブサロムだった。王たる者にとっては部下の背反、父親としては子の反逆。公けの国家生活と私的な家庭生活の最大不幸が、一挙にダビデを襲ったのである。この世のどん底。心と魂の悲哀と懊悩の極みにあって歌われたのが、この詩篇なのだ。しかし、そこに、微塵の暗さも感じられない。失意の影が見えないのである。
私は主に寄り頼む
「私は主に寄り頼む」とダビデは詠う。この一句に、彼の生命が、存在のすべてが懸かっている、人はいざ知らず、私は神に寄り頼む。そこに一点の曇りもない。疑い、不平、呟きなど、どこにも見られず、魂の底から生ける神に信頼している。
だからと言って、彼が痛みも悲しみも知らぬはずはない。人に優れて、感受性豊かなダビデのことだ。魂の悲嘆、悩み、苦しみは、人一倍、深く激しいものがあったろう。
そんな彼の窮境を察して、心配のあまり居ても立ってもおれなくなった親近の友は、ダビデに忠告した。御覧なさい。悪しき者は暗闇に隠れ、心の真直ぐな人を射ようと弓を張り、弦に矢をつがえているのです。正義と公道、社会の秩序という、国の基が破れては、主に従う義人に何ができましょう。猟師に狙われた鳥が、深山の巣に逃れるように、あなたも山に退いて難をお避け下さい。この友の言葉に、ダビデは応える。
主の御座は天にあり
「主はその聖なる宮に在し、主の御座は天にあり、その目は人の子らを御覧になり、その瞼は人の子らを調べられる。主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、その御心は乱暴を好む者を憎まれる。主は悪しき者の上に炭火と硫黄とを降らせられる。燃える風は彼らがその杯に受くべきものである。主は正しく在して、正しい事を愛されるからである。直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう」(詩篇11:4~7)。
宗教は地上の王・この世の支配者の支配に生きるのではない。確かに、神から権威を授けられた者として、王を尊ぶのは当然である。だが、そこには自ずと限界があるのだ。ダビデは、はっきりと知っていた。彼が目の前に仰ぎ見るのは、生ける神であり、彼が真底従うのは、王の王である主なる神以外にない。
なればこそ、今、地上に正義が行なわれずとも、厳然として御座に在し給う神に目を注ぐ。神は天の玉座から人の子らを御覧になり、その瞼は人の子らを調べられる。神は、風にそよぐ野草の微かな揺れをさえも見過ごしにされない。迫害の最中、如何に苦境にあろうとも、言葉にもならぬ、苦しみの声、心の叫びをすべて観ておられる。神は、神に寄り頼む者の心を見ておられるのだ。決して見棄てられることはない。如何なる状況にあろうとも、主なる神は、最善の道を備えて下さる。ダビデはそこに深い安堵と大きな安心を見ていた。
友よ、山に逃れる必要はない。うなだれた顔を上げ、目を天に向けるが良い。そこから力を受けるのだ。すると、どうか。不思議にも、私どもは敵の襲撃の中にありながら、弱き心を一掃し、勇気を持って前進することができるのだ。
私は神に寄り頼む。窮乏の極にあるはずの彼だが、何と力強い言葉だろうか。単純明快、静かで澄み切った、何者にも屈しない大胆な魂の表明である。神の御手に、身を委ね、一切を託した人間が知る平安の告白なのだ。
ダビデの血統
だからダビデは、執拗に自分の命を狙うサウル王を逆に襲い、殺害する機会があったが、決して自ら手を下そうとはしなかった。神の権威と秩序に信を置き、神の御旨にすべてを委ねていたからに他ならない。また、息子アブサロムの叛乱に遭おうとも、彼への愛が失われることはなかった。
やがて必ず、私どもは、それに相応しい杯を、神から受ける日が来る。先走りして、裁かなくとも良い。たとい狂気に捕われた王であろうと、「主が油注ぎ給うた者」として、ダビデはサウル王に敬意を払い続けた。息子アブサロムを愛し続けた。そして、彼らが「主に寄り頼む」者となるよう、真の神に立ち帰るようにと、心から神の導きを祈ったであろう。肉にあっては、このダビデの血統に、主イエス・キリストが誕生され、ダビデ畢生の祈りを、成就して下さったのだ。
主イエスは、迫害する者の手で、十字架に釘打たれる中、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」と祈りつつ、私どもの罪を担い、私どもが受けるべき、神の怒りの杯を自ら引受けていかれた。主イエスの十字架の御血潮・聖霊に与かると、私どもは真に生きる命と力、何者も奪うことのできない勇気と喜びに生かされるのである。
〔2018.1.20.〕