第3326回 備後国三原正家の屋敷のお話。【小説 宇喜多直家【備前岡山の父】】  | 模型公園のブログ

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第3326回 備後国三原正家の屋敷のお話。

 

 

      2024年6月13日木曜日の投稿です。

 

 

【脚本小説】宇喜多直家【備前岡山の父】第53話

 

 

 

 

 

 

 

【明治初期の広島県尾道市の土堂付近の様子。左 宝土寺】

 

 

 

【尾道水道から西の糸崎方向を見る。 左の島は岡島、手前は向島。】

 

 

 

【前話 第3312回の続きより。】

 

 

 備後国こと、広島県尾道市の浄土寺の前から西に

 

海岸線を6キロ程度進むと、備後国木梨庄糸崎と言う

 

場所があります。

 

 

 

 

【明治初期の広島県尾道市千光寺山の様子 昔、杉原氏の城がありました。】

 

 

 

 ここの山裾に昭和の頃に三菱病院と言う大きな病院が

 

あって、ここの石垣の下、糸崎駅から少し北に歩いて、

 

 

 

【 明治時代の 広島県三原市糸崎町の風景 】

 

 

 

薬局を右に曲がると、三原正家 井戸跡があります。

 

 

 

 

【備後国の刀匠 三原正家 井戸跡。】

 

 

 

鎌倉時代の末期、大和国 金剛峯寺の支配地であった、

 

備後国大田庄尾道港は、大和国から多くの刀工が移住して

 

集落を形成して行きました。

 

東大寺の手掻【てがい】派、大和国 当麻寺【たいまじ】

 

の刀工達などを元祖としていました。

 

建武三年【1336年】五月頃、備後国木梨庄、現在の

 

広島県三原市中野町の和久井川の周辺には、仏具を

 

造る鋳物の集落があったのですが、浄土寺が南朝方の

 

金剛峯寺を裏切って、足利方の北朝方に味方した為、

 

仏具の製造を行っても、在庫が増えて品物がさばけ

 

なくなって行ったようです。

 

こういう鋳物師【いもじ】の人々が、支配者の杉原氏の

 

差配で刀工に転業して行ったとされています。

 

宇喜多興家が鞆に住んでいた、天文三年の頃、こうした

 

人々が大量に鉄を仕入れて、小船に載せて出来上がった

 

刀などの品物を尾道港に持ち込んでいたのです。

 

その場所が、お寺の建物で 辰房屋敷【たつみのぼうやしき】

 

であったのです。

 

 

 

 

糸崎の海は、沼田川の堆積土で水深が浅く、大きな船の

 

接岸が座礁の心配があって難しかったのです。

 

ところが、尾道港は、海岸の近くがすとんと深くなっていて、

 

大きな船が横に接岸するのに便利であったのです。

 

 

 

 

 

ところでお話は戻って、辰房屋敷で、大月左太郎と、青江家次

 

がお話していると、三原正家達の船が到着し、業界の井戸端

 

会議が始まって行ったのです。

 

ここ、尾道港に、周辺の地域から物資が集まり、大きな船に

 

乗せ換えて、遠くに運ぶ出発点のような場所でした。

 

 

 

【岡山県 瀬戸内市豊原にある 砥石城跡 】

 

 

 

備前国邑久郡豊原庄の砥石城の城主であった、宇喜多興家公

 

は、あれよあれよという間にすってんてんとなって行き、

 

これからさてどうしたものかと考えていたようですが、

 

尾道の港で、大月左太郎や、三原正家達を見ていて、これから

 

進む方向を見つけたようでありました。

 

 

 

 

宇喜多家のご先祖は、海運業で力をつけ、地方の領主に

 

なっていたのです。

 

宇喜多興家は、先祖を見習って、もう一度、海で

 

交易をして、富を蓄え、お家の再興を考えるように

 

なって行ったようでした。

 

 

【次回に続く。】