第3268回 備後国 岡島城のお話。【脚本小説】宇喜多直家【備前岡山の父】  | 模型公園のブログ

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第3268回 備後国 岡島城のお話。

 

       2024年5月16日木曜日の投稿です。

 

 

【脚本小説】宇喜多直家【備前岡山の父】第49話

 

 

 

 

【前話 第3255回の続きより。】

 

 

 

 

 備後国の鞆津【とものつ】の後地【うしろじ】の海岸で

 

刀工 青江家次の弟の貞次らが、船にゆっくりと藁で巻いた

 

木箱を積んでいたので宇喜多興家は疑問に感じて聞いてみると、

 

 

「海の満潮の昼まで待って、引潮に乗って備後国尾道

 

に向いまする。」

 

 

 

とか話すので、その場にいた他の者に尋ねると、潮の流れに

 

逆らって西に進むより、潮の流れに乗って西に向かう方が

 

楽なので昼の満潮時まで待つそうでありました。

 

 

 

 

 

 

貞次は、宇喜多興家に弓と矢筒を手渡すと、

 

 

 

「宇喜多様、海の上での戦は、矢の撃ち合いから

 

始まります、これをお持ちください。」

 

「弓の心得は。」

 

 

と聞くので、興家は、

 

 

 

「弓は、子供の頃からたしなんでおりまする。」

 

 

と話しながら、弓と矢筒を受け取って、船に乗り

 

組んだのです。

 

その後、貞次と、宇喜多興家らが乗り組んだ小舟は

 

備後国の鞆の後地の海岸を離れ、西へと向かったのです。

 

 

 

現在の広島県尾道市の百島【ももしま】の沖を通過し、

 

戸崎の沖を通過すると、向島【むかいしま】が見えて

 

きます。

 

室町時代は、向島の事を、歌島【うたしま】と呼んで

 

いたそうです。

 

その名残が、向島の東の海岸に歌【うた】と言う地名

 

が残っています。

 

 

 

【 上の画面中央の山が、岡島城跡 広島県 尾道市 】

 

 

 

山波【さんば】の須【す 浅瀬のこと】を通過して西

 

に進むと尾道水道に至ります。

 

今は知る人はほとんどいませんが、この尾道水道に

 

昔、こんもりした山があって、砦のようなお城が

 

ありました。

 

その尾道水道に浮かぶ城が、岡島城【おかじまじょう】

 

と呼んでいたそうです。

 

 

 

 

現在の広島県尾道市の旧市街地の海岸に尾道市役所

 

の建物がありますが、その南西の方向に明治の頃

 

は、海の中に岡島と言う小さな島があったのです。

 

ちょうど、尾道駅の南側あたりになりますか、

 

まぁーっ、もう忘れ去られて知る人はほとんどいません。

 

そんなお話をすると、現在では、古くから住んでいる

 

土堂の一丁目から二丁目の商店街の周辺の人から、

 

 

えームカムカ「おみゃーぁー、うそを言うなぁ。」

 

 

えー!「何を言うるんなら。」

 

 

とか、言われます。

 

 

 

 

慶応の頃は、岡島のことを 川島【かわしま】と呼んで、

 

向島のことを 歌島【うたしま】と呼んでいました。

 

現在の向島ドックの造船所や、向島中学校などの土地

 

は埋め立て地で、室町時代の頃は海で、岡島と言う島が

 

海の中にあって、ここに海の砦があったのです。

 

 

 

 

 

言い伝えでは、千光寺山に砦があって、千光寺山城と言う

 

杉原氏のお城があって、尾道の周辺から、現在の広島県

 

三原市の沼田川の東側、つまり宮浦の近くまで領地として

 

いたそうです。

 

東は、最大勢力の頃では、広島県福山市の神辺町なども

 

勢力下にあったそうですが、天文の頃は、高須 杉原氏

 

と言う一族が反乱を起こして、杉原氏が分裂し、現在の

 

東尾道駅周辺は海で、その西側の山中の阿草付近に砦が

 

あって云々と言う言い伝えが残っています。

 

尾道水道の中央に浮かぶ岡島にも砦があって、尾道の港

 

に入って来る船を見張っていたそうです。

 

それを誌面では、備後国 岡島城と言う名称で紹介して

 

行きます。

 

 

 

 

 

当時の掟では、尾道水道は、東から西に向かって潮が流れますが、

 

ちょうど尾道造船のドックの手前程度から、尾道大橋の下を

 

通って、尾道水道に入ると、そのまま潮の流れに乗って進み、

 

岡島城の前まで船で進んで、その岡島城の侍達に挨拶をして

 

許可を得てから、北側の尾道港に接岸していたそうです。

 

 

 

 

事前説明はこの程度にして、

 

 

 

「宇喜多様、あそこが、岡島城でござる。」

 

 

と叫ぶと、貞次は、河野水軍の旗印の折敷に三文字紋

 

の入った、旗印を船の船首に立てたのでした。

 

 

 

 

 

 

今現在も、広島県福山市の鞆町後地にある河野水軍の

 

所縁の寺、時宗 本願寺の門に、河野水軍の家紋が

 

取り付けられていますが、この家紋を、

 

「折敷に三文字紋。」

 

と呼びます。

 

これを室町時代は見せると、海賊も手出しはしなかったと

 

言い伝えがあります。

 

 

【次回に続く。】