第3182回 備後国 鞆港の本願寺のお話。【小説 宇喜多直家 備前岡山の父】 | 模型公園のブログ

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第3182回 備後国 鞆港【ともみなと】の本願寺のお話。

 

 

       2024年4月4日木曜日の投稿です。

 

 

【脚本小説】宇喜多 直家【備前岡山の父】第43話

 

 

 

 

 

 

【前話 第3168回の続きより。】

 

 

  岡山県の江戸時代の古い本には、宇喜多 興家とその子の

 

直家と忠家は、備前国邑久郡豊原庄にあった砥石城を攻められ、

 

命からがら逃げだして、備後国の鞆港【ともみなと】に落ち延びた

 

と文章があります。

 

鞆港こと、現在の広島県福山市沼隈町鞆【とも】は古くからの

 

瀬戸内海の港町で、建武2年5月には、足利尊氏らの水軍が

 

ここで潮待ちをしたり、室町幕府の最後の将軍の足利義招が、

 

ここで鞆幕府を開いていたり、江戸時代の幕末には、いろは丸と

 

紀州藩の明光丸が海上で衝突し、坂本竜馬が紀州藩に損害金の

 

請求を行った場所としても知られています。

 

 

 

ところで、鞆港の歴史を調査すると残念な事に、宇喜多家と

 

鞆港の事について説明できる人は誰一人いませんでした。

 

長い間、時間を作っては現地を訪れ、やっと遠いい昔の

 

室町時代の出来事がわかってきました。

 

 

 

 

鞆港から東に1キロ程度福山方向に進むと、後地【うしろじ】地区と

 

言う地域に至ります。

 

 

 

 

ここの一番東北側の路地の奥に、本願寺【ほんがんじ】と言う

 

お寺があり、お寺の境内の中に、青江【あおえ】の井戸と

 

言う室町時代の井戸があります。

 

 

 

 

伊予国 河野通信 公の孫の一遍【いっぺん】上人の時宗の

 

寺院で、鞆 本願寺と呼ばれるお寺は、遠い昔、伊予の河野水軍

 

の所縁の寺院でした。

 

 

 

 

 

本願寺の正門には、伊予国 河野水軍の旗印の折敷に三文字紋

 

が取り付けられています。

 

本日のお話から、備後国鞆港の東のはずれの本願寺に

 

宇喜多 興家と、その子の直家、忠家と乳母のお春さんが

 

落ち延びて来たと言うお話で少しずつ紹介して行きます。

 

 

 

 

 

ここの本願寺の境内には、昭和2年まで、古い井戸があって、

 

それを青江の井戸と呼び、寛正の頃、備中国 青江【あおえ】

 

現在の岡山県倉敷市祐安の周辺から、水害と飢饉で逃げて

 

避難して来た同じ河野一族の青江家次の刀工の一族が暮らして

 

いました。

 

 

 

 

 

 宇喜多 興家一行は、備前国 児島の林村を経由して、

 

瀬戸内海を河野水軍の軍船で西へと進み、備後国の鞆港

 

の沖合まで落ち延びて来たのでした。

 

 

【次回に続く。】