第3176回 備前国天王原の合戦と松田元成の墓地を見学する。 | 模型公園のブログ

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第3176回 備前国天王原の合戦と松田元成の墓地を見学する。

 

 

 

            2024年4月1日月曜日の投稿です。

 

 

              三毛猫犬ルンルン

 

 

 

 

 今日紹介する室町時代の松田元成と言う武将は、元々は

 

赤松氏と言う守護大名の家老的な守護代職で、現在の

 

岡山県岡山市北区と東区周辺の領地として赤松氏の支配下で

 

領地を治めていたのです。

 

 その年貢から、赤松氏に税金こと、当時の年貢を納めて

 

いたのですが、それをごまかしているとか、いないとかで

 

赤松氏と松田氏の関係が悪化し、殺し合いをするようになって

 

行ったのです。犬アセアセ

 

 

 

その後、赤松氏が衰え、現在の岡山県瀬戸内市や和気町などを

 

領地していた、同じ守護代職の浦上氏が台頭し、両者は吉井川を境にして

 

対立を深めて行ったとされています。

 

つまり、

 

 

東の浦上氏 バツレッド 西の松田氏

 

 

岡山県の江戸時代の文献のお話を少し紹介すると、

 

室町時代の文明15年こと、1483年の秋、松田元成

 

は、西の備後国神辺城の山名氏と同盟を結んで、戦に勝利

 

した後は、山名氏の臣下になる約束を交わし、援軍を要請し、

 

 

 

【松田元成が本陣を置いた、岡山県岡山市東区吉井地区】

 

 

 

現在の岡山県岡山市東区吉井の山に本陣を置いて

 

 

 

 

吉井川を挟んで、浦上則国の軍勢と対峙したそうです。

 

浦上則国の軍勢は、備前国福岡城に本陣を置いて、

 

赤松氏の援軍を待つ作戦だったとされています。

 

 

 

 

【備前国 福岡城跡 】

 

 

 

 

ところが、どう言う訳か赤松氏からの援軍は来なかった

 

とされています。

 

困った時に援軍にも来ない赤松の神輿は担げないと

 

なっていつたようです。

 

これが、後に、赤松家と浦上家の反目しあう大きな原因に

 

なっていったそうです。

 

 

 

 

 

小競り合いなどがあった後に、翌年の文明16年こと、1484年

 

1月24日に、松田勢は吉井川を渡河して現在の長船町周辺

 

を焼き払い、その時に、長船氏の屋敷も攻撃され、焼き払われた

 

とされています。

 

 

 

 

 

 その後、いつまで待っても赤松氏の軍勢が姿を見せず、

 

兵糧の問題もあったのか、浦上の軍勢は、福岡城を

 

捨てて、東に移動したそうです。

 

 

 

 

 

 

それで松田勢は、後を追いかけて東に向かって進軍中に

 

待ち伏せに合い、合戦の後に退却し、天王原と言う場所で

 

さらに敗退し、吉井川を超えて西に退却し、備前国吉岡庄

 

で陣を立て直したそうです。

 

 

 

 

 

 当時、松田勢が本陣を移したのが、備前国吉岡庄こと、

 

現在の岡山県岡山市東区千種小学校の北側の丘だったそうです。

 

 

 

 

 

ここで追い打ちをかけて来た浦上勢と大きな合戦となり、

 

松田勢は壊滅したとされています。

 

 丘全体が血で染まり、当時は、血草【ちぐさ】と呼ばれる

 

程度、大勢が亡くなり、その後、この地が現在は

 

千種【ちぐさ】と呼ばれるようになったそうです。

 

 

 

 

 

松田元成は手傷を受けて、北に、北に逃走し、備前国 磐梨郡矢上村

 

の池と言う場所まで逃げて切腹して果てたとされています。

 

 

 

 

 そんな予備知識を紹介しましたが、切腹したと言う池と言う

 

場所に到着しました、

 

ここの山の上を超えると、以前紹介した千光寺に

 

至ります。

 

 

 

 

三毛猫上差し矢上村の池と言う室町時代の地名は、山の池と言う地名でした。

 

 

 

 

 

三毛猫上差し

 

岡山市役所の説明版がありました。

 

文章は、僕が読んだ江戸時代の本の文章をそのまま

 

のストーリーで載せてあります。

 

 

 

 

ありました、あのお墓が、松田元成の墓地のようです。

 

 

 

 

松田元成は、ここまで逃げてきて、大けがをしていたのか、

 

殺されて死ぬ前に、自分で命を絶ったとされています。

 

 

 

 

 

 

大けがをして、この背後の山越えは難しいと

 

当時、考えて、自決を選んだようです。

 

 

 

 

 

 言い伝えでは、左の丸いのが、松田元成の室町時代の

 

墓石だそうです。

 

右の仏塔の墓石が、大村盛恒の墓石だそうです。

 

 

 

 

大村盛恒と言う武士は、使者として出雲の尼子氏に

 

援軍を頼みに出向いて、備前国に戻って見たら、

 

主君の松田元成は亡くなっていて、その墓地で自分も

 

切腹して果てたと言い伝えがあって、一緒に葬られたと

 

されています。三毛猫犬もやもや

 

 

 

 

こうして、室町時代には大きな権力闘争が吉井川を

 

挟んで行われていたようです。

 

 

 

 

       三毛猫 じゃあ、みんな また今度ね。ハートラブラブ

 

 

【次回に続く。】