第3055回 宇喜多興家の紅岸寺への逃避行のお話。【小説・宇喜多直家】 | 模型公園のブログ

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第3055回 宇喜多興家の紅岸寺【こうがんじ】への逃避行のお話。

 

       2024年2月1日木曜日の投稿です。

 

 

【脚本小説】宇喜多直家【備前岡山の父】第34話

 

 

 

 

 

 天文三年こと、西暦1534年6月の末日の夜に

 

不意を突かれて備前国邑久郡豊原庄こと、現在の岡山県

 

瀬戸内市邑久町豊原の館を攻められた宇喜多興家父子は

 

背後の山中に逃げ込み、獣道を通って南に進み、

 

 

 

 

 

 

 

暗闇の中、険しい山々を超えて、南側の海辺に出たのでした。

 

 

 

 

現在の岡山県岡山市東区邑久郷地区は、現在は農地が広がって

 

いますが、昔はここは海で、山裾が当時の海岸線であったと

 

言われています。

 

ちょうど、ここの山裾の海岸沿いに突き出した丘があり、

 

ここの丘の上に宇喜多興家の父、宇喜多能家【よしいえ】が

 

建立したお寺があったと言い伝えが残っています。

 

 

 

 

 

江戸時代に、備前岡山藩の寺院整理で廃寺とされ、お寺の

 

領地などが没収され、廃れて行きましたが、その後も

 

地元の納岡町内会の皆さんによって大切に保存が

 

行われています。

 

 

 

 

 

 その宇喜多能家が建立した寺院の名前は、

 

紅岸寺と書いて、現在地元のみなさんからは、

 

「こうがんじあと。」と、呼ばれています。

 

 

【今は干拓されていますが、農地は海でした。】

 

 

この小説では、宇喜多興家父子は、北西方向の

 

備前国福岡庄の妻の実家の阿部家に向かって逃走した

 

のではなく、南の山を超えて、紅岸寺に向かって

 

逃げたと言う設定でお話を進めて行きます。

 

 

 

 

 

 

 

【前話 第3041回の続きより。】

 

 

 宇喜多興家が八郎こと、後の宇喜多直家公の手を引き、

 

乳母のお春さんが、赤子の後の宇喜多忠家公を両手に

 

抱いて、埃まみれになりながら抜け穴から出たのは、

 

備前国の豊原庄の宇喜多館の南の山中にあった古【いにしえ】

 

の飛鳥時代の昔の貴人の墓地の入り口であったのです。

 

興家は、手に持っていた灯りを、

 

 

「ふっ。」

 

 

と、息を吹いて消すと、

 

 

「お春、大事ないか。」

 

 

と声をかけ、お春さんは、

 

 

「お館様、大丈夫でございまする。」

 

 

と、小さな声で語り、

 

 

「お春、後ろをついてまいれ。」

 

 

と言って、険しい山中に進んで行ったのです。

 

 

乳母のお春さんにとっては、2度目の真夜中の

 

逃避行でした。

 

2人は暗闇の中、南の山中に向かってけもの道

 

を歩いたのでした。

 

 

 

 

4人が向かったのは、宇喜多能家が建立した寺院、

 

紅岸寺でありました。

 

 

 

山中を、南に、南にと獣道を進み、少しずつ山を

 

超えて行ったのです。

 

途中、八郎君が足が痛いと言い出し、宇喜多興家が、

 

八郎を背中におんぶし、4人はなんとか紅岸寺に

 

たどり着いたのです。

 

 

 

 

「ドンドン、ドンドン。」

 

「もし、ご住職。」

 

「朝早く、申し訳ござらん。」

 

「ドンドン、ドンドン。」

 

「もし、ご住職。」

 

 

と、必死に興家とお春さんは叫んでのでした。

 

 

すると、寺の房から、

 

「どなたかな。」

 

と、声がしたのでした。

 

 

 

備前国邑久郡の7月の季節は、夜明けが午前4時過ぎでした。

 

夜明け前の午前3時過ぎに備前国邑久郡紅岸寺に到着した

 

宇喜多興家他3名は、住職に助けを求め懇願したのでした。

 

 

 

【次回に続く。】