第3033回 日本共産党 しんぶん赤旗の創刊のお話。【昭和の伝道師】  | 模型公園のブログ

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第3033回 日本共産党 しんぶん赤旗の創刊のお話。

 

 

       2024年1月21日日曜日の投稿です。

 

 

〇昭和の伝道師【戦中・戦後のパイロットの物語】第2794話

 

 

 

 

【前話 第3019回の続きより。】

 

 

 昭和3年こと、1928年12月に私は、茨城県稲敷郡阿見村に

 

ありました、霞ヶ浦海軍航空隊に勤務しておりまして、そこから、

 

当時、神奈川県の横須賀軍港に停泊していて、長崎県の佐世保軍港に

 

向かう予定の重巡 青葉に転勤になったのですが、やっと娑婆に出まして

 

 

 

 

 

 

世間の出来事を知ることになって行ったのでした。

 

国鉄 常磐線 荒川沖駅から、当時は阿見村に

 

軍事鉄道が敷いてありまして、海軍の極秘扱いの

 

地域で、写真撮影も当時は厳禁で、世間から遠ざ

 

かって新聞なども見る機会も少なかったのです。

 

 

 

 

 

以前、前年の昭和2年に、共産主義の政党だった国民党の中で、

 

蒋介石総統と、毛沢東らが手を組んでいたのですが、その後、

 

 

 

 

蒋介石と毛沢東達が対立し、殺し合いが始まって行ったのですが、

 

ソビエト共産党が、毛沢東達を支援し、蒋介石総統達と手切れ

 

を通告して対立して行ったのです。

 

 

 

 

 

昭和2年の10月に、国民党の蒋介石総統らが、九州の

 

福岡県の玄洋社の頭山 満 総裁を仲裁人にして、

 

当時の田中 義一 内閣総理大臣に和平をもちかけ、

 

軍事援助を要請して来たお話は、佐藤機関のお話と一緒に

 

以前詳しく紹介したのですが、ちょうどこの頃、日本人の

 

日本共産党の共産党員が、毛沢東側に寄り添っていたのです。

 

その人物は日本共産党の水野成夫と言う党員でありました。

 

 

 

 

【 しんぶん赤旗の初代編集者 水野 成夫 日本共産党 党員 】

 

 

その日本共産党の水野成夫 党員は、武漢国民党の設立に

 

関与し、毛沢東や、周恩来などと一緒に共産主義を広める

 

活動を支那大陸で行っていたそうです。

 

ちょうど彼が28才の頃の出来事でした。

 

このような事情で、日本陸軍憲兵隊では、武漢国民党政府の

 

日本人諜報員として厳重に監視していたそうです。

 

その後、いずれかのルートで、日本共産党 水野成夫 党員が、

 

支那大陸から日本に極秘帰国して、その動静を憲兵隊と警察が

 

調査・監視していたそうです。

 

 

 

 

 

 そして、昭和三年こと、1928年2月1日に日本共産党が

 

発行したのが、「しんぶん 赤旗。」と言う機関紙であった

 

のです。

 

当時、彼が29才の頃の出来事です。

 


 

 

 

当時の資料を研究すると、1か月に2回赤旗を発行する

 

予定だったそうです。

 

 

 

 

 

 当時、彼らの構想とは、大日本帝国をソビエト共産党を

 

模範として、資本主義を否定し、個人資産を否定し、すべてを

 

国有化して、国家が経済活動を計画し、主導し、それに基づいて

 

生産活動を行い、労働者に均等に富を分配する政治を目指していた

 

そうです。

 

元々、毛沢東や、汪兆銘や、周恩来などと、大陸で語り合い、

 

東亜全体を共産主義の国家にしようとしている大物危険人物として

 

陸軍憲兵隊や、内務省・警察にマークされていた人物が、

 

赤旗とか言う新聞の印刷を始めたと言うことが日本政府の内務省

 

関係者に知られ、日本共産党 水野成夫 党員は逮捕弾圧される

 

ことになって行ったそうです。

 

 

 

【 しんぶん赤旗初代編集長 水野成夫 静岡県出身 東京帝大卒 】 

 

 

 日本共産党の党員で当時29才だった水野成夫さんと

 

言う人は、戦後の人は忘れ去られて知る人は少なくなった

 

のですが、後に古新聞からインクを分離させ、再生紙を

 

作る技術を考え出して、大日本再生紙と言う会社を作って、

 

陸軍省の知り合いの将校とつるんで商売を行って財を作り、

 

その陸軍の知り合いの将校とは、

 

 

 

    

  【 岩畔豪雄 陸軍少将 広島県出身 陸士30期卒 】 

 

 

 日本陸軍の諜報員養成学校の中野学校の設立者の

 

岩畔豪雄【いわむろ ひでお】陸軍少将でありました。

 

戦後の、京都府の京都産業大学の設立者の岩畔先生でした。

 

日本共産党の水野成夫党員は、その後、大阪の産経新聞社を

 

買収し、後のフジテレビなどのフジサンケイグループの創業者

 

 

 

 

となる、水野成夫 会長 その人であったのでした。

 

こんな出来事があったのですが、水野会長を赤の大赤

 

の大物と呼び、逮捕、しんぶん赤旗廃刊などの命令を

 

出したのは、

 

 

 

 

当時の内閣書記官長だった、 鳩山一郎先生と、

 

兄の内務大臣だった、鈴木 喜三郎先生だったと

 

されています。

 

 

【次回に続く。】