第2922回 宇喜多能家と所持した大薙刀のお話。【岡山県瀬戸内市】 | 模型公園のブログ

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第2922回 宇喜多能家と所持した大薙刀のお話。【岡山県瀬戸内市】

 

 

 

       2023年11月27日月曜日の投稿です。

 

 

              三毛猫犬ルンルン

 

 

 

 

 

三毛猫ピリピリ

 

 今日のお話は、岡山県瀬戸内市邑久町豊原の

 

砥石城の城主だったとされている、室町時代の

 

武将の宇喜多 能家 と言う人が用いていた、

 

大薙刀【おおなぎなた】のお話です。

 

 

犬?

 

専門用語を並べると眠くなってわかり

 

にくいので、初心者でもわかるような

 

簡単な表現の文章で紹介します。三毛猫ハート

 

 

〇 宇喜多 能家 と書いて

 

「うきた よしいえ。」

 

と読みます。

 

 

 現在1週間に1話のペースで紹介している

 

【脚本小説】宇喜多 直家【備前岡山の父】の

 

小説の主人公の直家のお爺さんにあたる人です。

 

 

 

 

 

 

60人程度の小勢で、松田氏の大勢の軍勢を追い払ったり、

 

合戦の駆け引きが上手で、戦上手で評判だったそうです。

 

浦上氏と言う主君から忠義の臣として信用されていた

 

と言い伝えがあります。

 

 

 

 

 

       【宇喜多 能家 公の肖像】

 

 

 

 

天文3年6月に、岡山県瀬戸内市邑久町豊原の砥石城で

 

亡くなったとされています。

 

 

 

 

岡山県瀬戸内市の市役所から南に1キロ程度進むと、

 

千町川と言う川が流れていて、川を渡ると砥石城跡

 

と言うお城の跡があります。

 

 

 

 

 

今は、埋め立てが進んで農地になっていますが、室町時代

 

は、長沼 と呼ばれる沼地がここに広がっていました。

 

 

 

今は、千町川と呼ばれる川が流れています。

 

今日のお話は、戦国大名の宇喜多 直家のお爺さん

 

の宇喜多 能家と言う人は、大薙刀を持って出陣し、

 

戦功をあげていたのではないかと言うお話です。

 

 

 

 

次のような作品が残されています。

 

 

【薙刀【なぎなた】】

 

〇備前国住長船次郎左衛門尉藤原勝光

 

  同    与三左衛門祐定

 

 為 宇喜多和泉守三宅朝臣能家作

 

 

 

この作品は、宇喜多 能家が長船刀工の勝光に

 

注文し、自分の名前を入れた薙刀を造らせたと言う

 

そういう作品です。

 

 

 

 

言い伝えでは、現在の岡山県瀬戸内市長船町に、兼光屋敷

 

と呼ばれる林と墓地があります。

 

ここは現在は長船さんと言う人の墓地です。

 

 

 

 

 

 ここが南北朝時代に兼光と言う刀工が住んでいた

 

とされている場所で、その後、言い伝えや、古文書では

 

文明の頃は、備前長船 勝光や、弟の宗光の屋敷だった

 

とされています。

 

その後、長船氏と言う武装集団となり、100名程度

 

の勢力だったとされています。

 

 

 

 

上の地図の矢印の個所が備前長船です。

 

 

 

 

 南に8キロ程度行った場所が宇喜多氏のお城のあった

 

 邑久郡豊原庄です。

 

 宇喜多 能家は、北に8キロ程度離れた場所の

 

 備前長船次郎左衛門尉勝光に薙刀を造ってほしい

 

と、注文を出したとされています。

 

 注文を受けた 次郎左衛門尉勝光は、下造りを、

 

下請けに出したようです。

 

 

 

 

 

 仕事を受けたのが、与三左衛門祐定と言う刀工でした。

 

 

 〇 与三左衛門祐定

 

 と書いて、「 よそうさえもん すけさだ。」

 

 と、読みます。

 

与三左衛門祐定は、初代と二代目があるとされています。

 

残念な事に作品に製造年月日の年期が刻印されていません、

 

そう言う事情で推測するしかないのですが、おそらく、

 

薙刀が造られたのが、宇喜多 能家が生きていた時代、

 

天文三年以前とすると、初代の与三左衛門祐定が作業を

 

行ったとする方が正しいと考えます。

 

過去の作品を見ての推測ですが、永正から大永を経て

 

享禄までの年号の期間に作刀されたのではと考えています。

 

与三左衛門 祐定は、中川と言う苗字を用いていたので、

 

藤原と長船と言う苗字を用いていた 勝光の一派とは

 

別系列の刀工でしたが、長船の周辺の地域を統治して

 

いたのが、勝光や宗光の一派で、主流派だったと考えて

 

います。

 

つまり、祐定とか、清光とかの刀工は従属する

 

工房ではなかったのかと研究しています。

 

 

 

 

宇喜多氏は、言い伝えによると、朝鮮半島の百済と言う

 

国の貴族の出身だったそうです。

 

朝鮮半島の人だったのです。

 

 

 

その後、戦乱で追われ、船で朝鮮半島を脱出して、

 

日本の備前国児島と言う島にたどり着いて、ここを

 

拠点としたとされています。

 

当初は、三宅と名乗り、海運業で力をつけて、

 

大きな武装集団になって行ったそうです。

 

 

 

 

 

 こんな事情で、宇喜多家の軍勢の旗印は、備前国の児島の

 

 「児。」の古い字体の文字を用いていたそうです。

 

 

 

 

 

   合戦場で、大きな薙刀をふるって活躍していたそうですが、

 

  どんな流派の薙刀だったのかと研究している最中です。

 

 

 

 

    三毛猫 じゃあ みんな また 今度ね。ハートラブラブ

 

 

【次回に続く。】