第2919回 延原 弾正忠 景能の墓を見学する。【岡山県和木町日笠下】 | 模型公園のブログ

模型公園のブログ

模型公園の日々の出来事のブログです。

第2919回 延原 弾正忠 景能の墓を見学する。

 

 

       【岡山県和木町日笠下】三毛猫犬ルンルン

 

 

       2023年11月26日日曜日の投稿です。

 

 

 

 

 

 今日のお話は、室町時代に岡山県和気郡和気町の佐伯庄で

 

勢力を持っていた国人の武士の延原 弾正忠 景能の墓地を

 

見学したお話です。

 

 

犬?

 

☆延原 弾正忠 景能と書いて、

 

「のぶはら だんじょうのちゅう かげよし。」

 

と、読むそうです。

 

弾正忠と言うのは、朝廷の官位の一つです。

 

 

〇弾正尹 【だんじょうのいん】

 

〇弾正弼 【だんじょうのひつ】

 

〇弾正忠 【だんじょうのちゅう】

 

〇弾正疏 【だんじょうのそ】

 

4種類あり、意味は、その地域での治安の維持に

 

あたる弾正台と言う役所の役職だったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

墓地は、和気町【わけちょう】の日笠下にあります。

 

 

 

 

  【 延原 弾正忠 景能の墓地 全景】

 

 

  延原 弾正忠 景能と言う人物は、不明な部分が

 

大変多く、研究が進んでいない室町時代の人物の1人です。

 

僕は、それを研究している一人です。

 

生まれた正式な年は不明ですが、室町時代の永正の頃

 

の生まれではと推測しています。

 

つまり、千利休が生まれたのが大永2年ですから、

 

利休居士より、少し年上であったと考えています。

 

延原家が歴史の上で名前が出てくるのが、

 

 

 

 

 

享禄4年【1531年】6月に発生した、

 

摂津 天王寺の合戦で、軍勢を率いていた 

 

備前国、美作国、播磨国の3カ国を支配して

 

いた 浦上 村宗が大敗し、戦死して、

 

その後、浦上家に残された故 村宗の子息の

 

次男の与二郎君を補佐する重臣の1人として

 

名前が出てきます。

 

 

 

 

 

 播磨国の室津城で合議制の評定衆の中で対立が発生し、

 

残された遺児の長男派と、次男派が対立し、殺し合いを

 

始めるのですが、延原家は、次男の与二郎君派の有力者

 

として歴史書に登場します。

 

 

 

 

 

墓地が現在残っているのは、日笠 青山城の1キロ程度

 

南側の日笠下と言う場所になります。

 

 

 

 

実に立派な墓地で、現代の延原家はご先祖を大切に

 

されているのがよくわかる墓石です。

 

ここの和気町では、おそらく一番の墓石と思います。三毛猫ハート

 

 

 

 

 

 当時、浦上近江守国秀と言う人が、表向き跡を継いで

 

領地を統治していたのですが、次男の与二郎君を当主と

 

称して謀反を起こしたのです。

 

その時の中心人物だったとされています。

 

そして、与二郎君は、元服して、浦上宗景と

 

名乗りました。

 

 

 

 

 

こうして、兄の浦上 政宗 派と、弟の浦上 宗景 派

 

に分かれて、浦上家は内乱が発生し空中分解して

 

行きました。

 

 

浦上 宗景の重臣として歴史書に名前が登場するのは

 

6名で、

 

 

➀ 延原 弾正忠 景能

 

② 大田原 長時

 

③ 服部 備後守 久家

 

④ 岡本 太郎左衛門尉 氏房

 

➄ 日笠 次郎兵衛尉 頼房

 

⑥ 明石 飛騨守 行雄 

 

と言う人達の名前が知られています。

 

延原 弾正忠 景能と言う人は、筆頭家老格だった

 

そうです。

 

 

 

 

三毛猫!

 

延原家の出所は、諸説があるのですが、今現在、

 

もっとも信ぴょう性があるお話として、

 

☆備前国 佐伯庄の 延原の住人だった。

 

 

とする、佐伯庄 延原説が可能性が高いと考えています。

 

 

 

 

 

現在の佐伯町の北に延原と言う場所があります。

 

 

 

 

 

 

ずいぶんと山の上に上がって行くと、その場所はあります。

 

 

 

 

  現在の佐伯町を過ぎて、吉井川沿いを進んで、

 

  山中に入ると、延原と言う地名が今も残っています。

 

 

 

 

 

 延原家の出所が、備前国佐伯庄の延原であると言う説を

 

補強する有力な証拠資料があって、日本刀の腰刀で、

 

 

 

 

短刀 

 

 

〇備前長船六郎次郎勝光同国於佐伯荘為

 延原九郎左衛門作之

 

 享禄五年二月吉日

 

寸法 刃長 六寸七分五厘

 

 

 

と言う作品が残されています

 

年号の享禄五年は、浦上家が兄弟で分裂した年で、

 

延原九郎左衛門と言う武士は、延原 弾正忠 景能

 

の叔父と言い伝えがあります。

 

このような作品から、延原家は佐伯荘の延原

 

と言う地区の出身ではないかと思われています。

 

それから、延原家と当時、備前長船で、100名

 

程度の兵を連れていたとされる刀工でもあり、

 

長船氏の当主でもあった六郎次郎 勝光と

 

取引があったことを証明する貴重な資料として

 

この作品について注目しています。

 

 

何しろ、不明なことが多く、正しいとされていても

 

間違いかもしれません。

 

 

 

 

 

 元々の墓石は、こちらと思われます。

 

後に、新しい大きな墓石を子孫が整備されたようです。

 

毛利家の古文書では、ここから北に行った、

 

美作国の合戦で、毛利方と交戦し、天正8年【1580年】

 

の3月に、毛利方の中村肥前守に討たれたとあります。

 

 

 

 

 

三毛猫カメラ中央の右の林が鹿帰前 丸山城址

 

 

 

   中央市街地の左が、日笠 青山城址

 

  

 

     現地では、秋の気配でした。

 

 

 

 

 

    みなさんも、近くを通られたら、両手を合わせて

 

    お参りしていただけたらと思います。三毛猫犬お願い

 

 

 

 

     三毛猫 じゃあ みんな また今度ね。ハートラブラブ

 

 

【次回に続く。】