第2884回 備前国和気庄住重則の作刀地を見学する。【岡山県和気郡和気町】  | 模型公園のブログ

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第2884回 備前国和気庄住重則の作刀地を見学する。

 

       【岡山県和気郡和気町】三毛猫犬ルンルン

 

 

       2023年11月8日水曜日の投稿です。

 

 

 

 

三毛猫!

 

 備前長船から、6キロ程度北に吉井川をさかのぼる

 

と、吉岡一文字で有名な備前国吉岡庄に至り、さらに、

 

6キロ程度さかのぼると、備前国和気庄にたどり着く。

 

 

 

 

 

            三毛猫!

 

バツレッド和気庄と書いて、「わきのしょう。」と読むのは間違いで、

 

 

地元の人々は、

 

 

二重丸和気庄と書いて、「わけのしょう。」と呼びます。 

 

 

 

三毛猫ラブラブ 近くに間違えて読んでいる人がいたら教えて

 

    あげてください。

 

 

 

 

 

和気庄には、東から、金剛川、南から、初瀬川が

 

合流し、大雨が3日続くと、周辺は水深が3メートル

 

程度の洪水が発生する危険な場所でした。

 

金剛川から南側の干拓された地域を 備前国新田庄と呼び、

 

金剛川から北側の干拓された地域を 備前国和気庄と呼びました。

 

この地域は、藤野村とその周囲を和気郷と言う朝廷の国衙領

 

があり、古くから有名な、和気清磨 などの有名な和気氏が

 

治めていたことで知られています。

 

 

 

 

 今日のお話は、遠い鎌倉時代の終わり頃に作刀されていた

 

とされている 和気庄の刀工の作刀地を見学したお話です。

 

この地域を現地踏査を行ったり、古い忘れ去られている

 

文章を読んだり、時間を作っては研究しているのですが、

 

注目する古い和気町の文章があって、その文章には、

 

 

 

 

 

「昭和36年こと、1961年頃、新しく和気町立中学校の

 

校舎を新築する工事で、地下から大量の鉄くずが出土し、

 

ここが、和気庄の刀工の作業場だったに違いない、ほぼ

 

間違いがない。」

 

と言う、その場所は、和気庄の政庁かあったとされる

 

藤野の地から西に進んで、竜王山の南の山麓で、

 

下原の北、泉なる場所らしい。

 

そんな文章を読んで現地に向かいました。

 

 


 

 

【東側から撮影した 和気中学校の風景】

 

 

和気町の昭和36年頃の古い62年も前の文章では、上の写真の

 

和気中学校の校舎の新築工事に伴い、基礎床堀を行ったら

 

大量の鉄のくずが出土したので、おそらくここの校舎の周辺に、

 

鎌倉時代の後半に、刀工達の住居があったに違いないとあります。

 

 

 

 

但し、僕の考えでは、周囲も発掘調査してみないと、

 

なんとも言えないと思いますが、周囲は民有地で

 

なかなかそうは出来ないのですが、

 

 

 

広い学校の用地内で、その部分のみまとめて鉄のくずこと、

 

金くそ と呼ばれる物が出土したことは注目に値します。

 

 

 

 

この上の写真の金くそは、少し後代の室町時代の

 

備中国呰部庄三谷の左兵衛尉国重の屋敷跡を

 

50センチ鋤取りして、大量に現地で出土した

 

中の一つです。

 

こういう石のような鉄が大量に出土したそうです。

 

 

 

 

〇残されている作品。

 

 

☆正中三年【1326年】

 

 備前国和気庄住重則 【太刀】

 

 

☆嘉暦元年【1326年】

 

 備前国和気庄住重助【短刀】

 

 

☆嘉暦三年【1329年】十月日

 

 備前国和気庄住人重助

 

☆正慶元年【1332年】

 

 備前国和気庄住政則【太刀】

 

 

などの作品が残されています。

 

 

 

 

昭和36年の和気町役場の当時の人達が失敗したのは、

 

出土したのを記録したのは良いのですが、詳細な

 

発掘調査の記録を行っていなかったようです。

 

 

 

 

 

 

これを行っておけば、僕が見たら、鎌倉時代の

 

刀工の屋敷跡のおおよその概要が今の時代でも

 

わかるのですが、今調べていますが、どうも

 

記録が無いようです。

 

 

 

 

 

重則や、重助や、政則なる刀工が、どういう経緯で

 

和気中学校の校舎の近くに家を構え、日本刀を

 

作刀していたのかは研究中で、そして、どうして

 

南北朝時代の初頭に姿を消したのかは、わかっていない

 

のですが、

 

 

 

 

 

建武二年【1335年】十二月から建武三年正月にかけて、

 

この地方に、南朝方の新田勢や、北朝方の足利勢が乱入し、

 

家屋敷を焼き払ったと言う文章が残っていて、

 

そして、建武三年【1336年】5月に北朝方の足利勢

 

が、この地方を通過して、家を壊して、薪にしてしまったとか

 

いろんな狼藉を伝える古い文章が残っています。

 

数キロ北の岩戸一文字派や、和気庄の重助などの一派が

 

消えたのは戦乱のそれに起因するのではと今は推測して

 

います。

 

みなさんも、何か情報があったら、投稿で教えて

 

ください。

 

 

 

 

      三毛猫 じゃあ みんな また 明日ね。ハートラブラブ

 

 

【次回に続く。】