第2745回 備前国 守護代 浦上国秀 公のお話。【小説 宇喜多直家】 | 模型公園のブログ

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第2745回 備前国 守護代 浦上国秀 公のお話。

 

 

 

 

       2023年8月31日の投稿です。

 

 

 

【脚本小説】宇喜多 直家【備前岡山の父】第12話

 

 

 

 

 

  【 自決した、足利幕府 管領職 細川 高国 公 】

 

 

 

 

【前話 第2730回 尼崎の大物崩れのお話の続きより。】

 

 

  京の将軍 足利 義晴の名代として出陣した、

 

管領職 細川 高国 公は、摂津の国 天王寺の合戦で、

 

播磨の国の赤松勢が突然裏切り、背後から襲われて、

 

総崩れとなり敗走し、尼崎の大物【だいもつ】と言う場所で、

 

阿波国 三好勢に捕らえられ、尼崎の広徳寺にて、

 

自害するよう求められたのでした。

 

 

 

 

 

【兵庫県 尼崎市にある 広徳寺の現在の様子。】

 

 

 合戦から4日後の享禄4年6月8日、

 

 

管領職の細川 高国 公は、筆を手に持ち、

 

 

 

「絵にうつし、石をつくりし、海山を、

 

後の世までも目かれずや見む。」

 

 

と、辞世の和歌を書き残し、平造りの短刀を

 

右手に持ち、自分の左腹に、そっとあて、

 

両目をぐっと開いて、大きく息を吸い込むと、

 

 

「えぃ。」
 

 

と、大声を出すと、右手を少しずつ右に引き、

 

苦しそうに前のめりになると、後ろに立っていた

 

三好勢の武士が、

 

 

「介錯 つかまつり候【そうろう】。」

 

 

と、静かに語り、

 

右手を肩の高さまで上げて、太刀を上段に構えると、

 

 

「 たぁっっっっ。」

 

 

と、大声を掛けながら太刀を振り下ろし、首が

 

落とされ、この世を去ったとされています。

 

 

 

 

 ところで、この享禄4年こと、1531年6月4日の

 

天王寺の合戦を境に、備前国の武士達全体と、

 

播磨国の武士達の全体は、いままで一つの集団で

 

あったのですが、双方が対立するようになって

 

行ったのです。

 

 

 

 

 

播磨の国の武士達は、

 

「守護職 赤松義村 様の仇を打った。」

 

 

と、申し立て。

 

 

備前の国の武士達は、 

 

「合戦の最中に裏切り、一族を殺された。」

 

と申し立て、長く恨みが続いて行ったのです。

 

 

 

 

【 浦上氏の本拠地 備前国 三石城 】

 

 

 

備前の国では、支配者であった、守護代の浦上村宗 公

 

が戦死し、当時33才だったそうです。

 

 

 

 

 

     【 浦上 村宗 公の墓 岡山県備前市 】

 

 

 

それで、跡を継いだのは、幼少の虎満丸様であったそうです。

 

でっ、虎満丸様は幼児だったので、一族の大叔父にあたる

 

浦上 国秀 と言う留守居役だった人が、実際に跡目を

 

相続したそうです。

 

つまり、虎満丸様が大きくなるまでは、陣代として、

 

差配をすることになって行ったようです。

 

 

 

 

 

この浦上国秀 公と言う人物には諸説があって、

 

今現在でもよくわかっていません。

 

討ち死にした、村宗 公の弟だったとか、又は、

 

叔父にあたる人だったとか、いろんな説があって

 

今現在、浦上と言う苗字なので、一族と言うことは

 

間違いがないことですが、討ち死にした浦上村宗公の

 

弟だったということにしてしまうと、弟は、備前国の

 

香登城の城主で、対立していた浦上 宗久と言う人が

 

知られていて、弟にしてしまうと出来事のつじつまが

 

合わなくなってしまうのです。

 

それで、ここでは、討ち死にした、浦上村宗公の

 

叔父と言う設定で誌面で紹介して行きたいと思います。

 

 

 

 

備前の国では、守護代 浦上 村宗公らが、

 

 

「摂津国に出陣し、播磨の国の赤松氏に裏切られて、

 

合戦の最中に後ろから襲われ大敗し、討ち死にし、

 

首を取られた。」

 

と、伝わると、

 

 

「仇討ちをすべし。」

 

 

などと、勇ましい説を唱える武士達がいたの

 

ですが、仇討ちを行う兵力が整えられなかった

 

のです。

 

大勢が、浦上村宗公と一緒に出陣し、帰ってこなかった

 

ので、年若い少年や、留守居をしていた年寄りしか

 

城に残っていなかったのです。

 

 

 

 

そんな事情で、主君であった 浦上家でも、

 

一緒に出陣した、宇喜多家でも、主力部隊が

 

壊滅し、兵力が3分の1以下となり、自分の

 

領地を維持するのがやっとだったようです。

 

 

【次回に続く。】