第2311回 昭和二年横浜観艦式 先導艦 鬼怒のお話し。 | 模型公園のブログ

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第2311回 昭和二年横浜観艦式 先導艦 鬼怒のお話し。

 

 

 

         2023年2月2日 木曜日の投稿です。  

 

 

昭和の伝道師【戦中・戦後のパイロットの物語】第2749話

 

 

 

 

 

 

 【御召艦 陸奥に到着された 天皇陛下の御用短艇 】

 

 

      【御召艦 陸奥に御成になった、天皇陛下 】

 

 

 

 

【前話 第2302回の続きより。】

 

 

 昭和二年こと、1927年10月30日 日曜日の午前中、

 

東京駅から横浜駅に特別列車が到着され、天皇陛下が、

 

 

 

 

 

 

御召艦 陸奥に御成になると、それに合わせて、天皇旗と

 

呼ばれる大きな旗がマストに掲揚されて、それを合図に、

 

 

 

 

皇礼砲【こうれいほう】が、21発、次々と発射されまして、

 

日本海軍の大勢の将兵は、艦の右舷と左弦に答舷礼【とうげんれい】

 

を行う為に整列して、天皇陛下の観閲【かんえつ】をお待ちしたのです。

 

 

 

 

 御召艦の戦艦 陸奥をの前を先導する、観閲部隊の

 

先導艦【せんどうかん】は、乙型巡洋艦 鬼怒【きぬ】でした。

 

 

 

 

 

先導艦 鬼怒 と書きまして、「 きぬ。」と読みます。

 

名前の由来は、鬼怒川 から名前を取って 鬼怒 と名付けられ

 

ました。

 

関東大震災の発生した1年程前の大正十一年こと、1922年11月

 

に完成就役、基準排水量 5,170トン 艦長は、瀬崎 仁平 海軍大佐

 

海軍兵学校 第32期卒 岡山県出身 でした。

 

 

 

 

 

観閲部隊 2番目の航行は、御召艦 陸奥 【むつ】

 

大正十年 こと、1921年11月就役、基準排水量 39,050トン

 

艦長は、枝原 百合一 海軍大佐 海軍兵学校 第31期卒 山口県出身。

 

 

 

 

観閲部隊 3隻目の航行は、供奉艦 阿武隈 【あぶくま】

 

大正十四年こと、1925年5月に完成就役、

 

基準排水量 5,170トン 艦長は、長井 実 海軍大佐

 

海軍兵学校 第32期卒 神奈川県出身。

 

 

 

 

観閲部隊 4隻目の航行は、供奉艦 由良 【ゆら】

 

大正十二年 1923年3月完成就役 基準排水量 5,170トン

 

艦長は、豊田 副武 海軍大佐、

 

海軍兵学校 第33期卒、大分県出身。

 

この当時、由良の艦長をされていた、豊田 副武 海軍大佐が

 

後の大東亜戦争こと、太平洋戦争末期の連合艦隊司令長官で

 

海軍大将であられた方です。

 

 

 

 

観閲部隊 5隻目の航行は、供奉艦 球磨【くま】

 

大正九年こと、1920年8月完成就役、

 

基準排水量 5,170トン 艦長は、大野 寛 海軍大佐

 

海軍兵学校 第32期卒 愛知県出身。

 

大野 寛 海軍大佐は、後に海軍中将まで進級された方でした。

 

 

 

観閲部隊 6隻目の航行は、供奉艦 長良【ながら】

 

大正十一年こと、1922年4月完成就役、基準排水量 5,170トン

 

艦長は、柳沢 恭亮 海軍大佐、海軍兵学校 第32期卒 群馬県出身。

 

 

 

 

 

 観閲部隊は、6隻の艦艇で構成され、約400メートルの距離を

 

保ちつつ、航行し、停泊している艦艇の観閲を行って行ったのです。

 

 

 

 

 

 戦艦 陸奥の艦橋の中に、観閲台が作られ、1メートル程度

 

後で、皇族の伏見宮殿下が、受閲艦艇の艦名と、艦長の名前を

 

読み上げて、天皇陛下に説明されるという仕組みで開始された

 

のです。

 

 

 

 

 

      【 当時の 横浜沖での観艦式の各艦艇の配置図 】

 

 

 

 

 いよいよ、神奈川県の横浜港沖での、日本海軍 

 

 

 「昭和二年 特別大演習 観艦式。」

 

 

が始まろうとしていたのです。

 

 

【次回に続く。】