第2212回 昭和2年 美保関事件の日本海軍の指揮系統。
2022年12月23日 金曜日の投稿です。
昭和の伝道師【戦中・戦後のパイロットの物語】第2725話
【前話 第2209回】
昭和2年こと、1927年8月24日 日曜日の23時頃に、
島根県の美保関の北、約35キロ付近で発生した、4隻の艦艇が
衝突した日本海軍の海難事故は、日付が変わって翌日の8月25日
月曜日の夜明けを迎え、
現場海域に第二艦隊の戦艦 金剛、比叡、巡洋艦 阿武隈が到着し、
現場海域の指揮は、第二艦隊司令長官 吉川 安平 海軍中将に
移っていったのです。
娑婆のみなさんには、わかりにくいので、わかりやすく紹介すると、
海難事故が発生し、第五戦隊の巡洋艦 加古、古鷹が到着し、
救助活動の現場指揮を、第五戦隊司令であった、清河 純一
海軍中将が執っていました。
これが変わると言う事はどう言う海軍の仕組みかと言うと、
【 広島県の江田島の海軍兵学校 】
日本海軍では学歴社会で、何事も海軍兵学校の成績が基本だった
のです。
同じ海軍少尉でも、 25才の海軍兵学校の第52期の私と、
海軍の学校を卒業していない、40才の海軍少尉とでは、
私が上官であったのです。
海軍では、海軍兵学校の卒業時の成績の番号、これを
ハンモックナンバーと言いまして、成績のよい人から
順番によいポストに着任する事になっていたのです。
例えば、卒業年次のクラスで、首席の海軍少尉と、番号が87番の
海軍少尉では、同じ海軍少尉でも、首席の人が上官であったのです。
3才年下の源田 實 海軍少尉は、海軍兵学校 第52期 卒業番号
が17番で、卒業の時点での学業成績が私よりよかったので、年上の
私より上官の扱いであったのです。
当時、第五戦隊 司令の 清河 純一 海軍中将は、
第二艦隊 司令長官の 吉川 安平 海軍中将が到着し、
指揮権を譲ったのは、 同じ海軍中将でも、海軍兵学校の
卒業年次が、吉川 安平 海軍中将の方が、4年先輩で
あったのです。
こうして、
◎ 清河 純一 海軍中将 大阪府出身 海兵第26期卒
から、
◎ 吉川 安平 海軍中将 山口県出身 海兵第22期卒
に権限が委譲され、夜明けと同時に、遭難者の広域捜索開始
の命令が発令されて行ったのです。
当時の潮流は、北から、南東に流れていたので、広範囲に捜索した
そうですが、遺体は発見できなかったそうです。
ほとんどの行方不明者は、演習中で艦内の部屋の隔壁を締めて
いたので、そのまま閉じ込められ、海底に沈んだとされたようです。
逆に、隔壁を閉じていたので、浸水が艦内に広がらず助かった人も
大勢いたとされています。
ところで、この120名の行方不明者が発生した、美保関事件と
呼ばれる出来事は、新聞記者達の知る所となり、大騒ぎになって
行ったのです。
何しろ、2週間程前に、 常磐 と言う艦で爆発事故があり、
約30名の人が吹き飛んで行方不明になって、大勢負傷した事故が
発生したばかりで、騒動となって行ったのです。
【次回に続く。】