第1897回 備前国吉岡一文字の作刀地を見学する。【岡山県岡山市東区万冨】 | 模型公園のブログ

模型公園のブログ

模型公園の日々の出来事のブログです。

第1897回 備前国吉岡一文字の作刀地を見学する。【岡山県岡山市東区万冨】

 

 

 

              2022年9月6日 火曜日の投稿です。

 

 

              三毛猫犬ラブラブ

 

 

 

 

三毛猫ハート

 

 今日のお話は、行政機関の岡山市が広報物に,吉岡一文字の作刀地

 

と文字を入れて印刷物などを作っている場所を見学しに行ったお話しです。

 

撮影日は、2015年頃の写真です。

 

 

 

三毛猫ルンルン

 

 備前國福岡庄から船に乗って、吉井川を北方向に上ると、

 

 

 

 

 

そうーー距離で言うと、6キロ程度、左に大きくカーブして、入り江の

 

ような湾のような場所があって、現在のJR山陽本線万冨駅周辺に至ります。

 

万冨 と書いて、「 まんとみ。」と読みます。

 

ここが、平安時代から鎌倉時代程度から、備前国 吉岡庄と

 

呼ばれていたとされています。

 

 

 

 

 

ここの万冨駅は鎌倉時代は川の中で、少し北側に船着き場のような港が

 

あったとされています。

 

 

 

 

 

 ここの万冨と言う場所が、鎌倉時代には、備前国吉岡庄と

 

呼ばれていたそうです。

 

ここは、粘土の産地として、古くから知られ、焼物の工房が

 

あったとされています。

 

 

 

備前国吉岡庄で、粘土から瓦を作って、船で、泉州 堺の港に

 

輸送し、陸路、奈良の東大寺に運んで、東大寺の大仏殿の瓦は、

 

備前国吉岡庄産だったとされています。

 

 

 

 

 

 万冨駅の北側の万冨瓦工房跡から、北西に、そうーー1キロ程度か、

 

行った田んぼの周辺が、岡山市役所によると 備前国吉岡一文字

 

の作刀地とされて、印刷物が作られています。

 

 

 

 

 

 

 千種小学校を過ぎて、少し行った場所です。

 

 

 

 

上の写真の高架は、山陽自動車道です。

 

 

 

    【岡山市役所の唱える、備前国吉岡一文字の作刀地】

 

三毛猫?

 

行政機関の指定する場所なので、おかしな場所ではない

 

と思うのですが、何を根拠にこの場所を指定しているのか、

 

市役所の人も移動などでよくわかった人がいないのが現状です。

 

昔から言い伝えがあるそうです。

 

 

 

 

山陽道の高架を通って、山に上がって行く地域が、鍛冶屋と言う場所

 

で、聞いて見たら、古くからそう言う地名だそうで、道筋を調べて

 

回ったのですが、平成の当時、吉岡一文字や、他の刀剣の史跡、

 

刀工の古井戸などはありませんでした。

 

 

 

 

 

実は、普通の人なら、市役所が言うのなら本当だろうで終わって

 

しまうと思うのですが、当時、疑問を感じて、戦前の資料などを

 

調べて見ることにしたのです。三毛猫?

 

上の写真の場所でも、作刀していたのかもしれませんが、その内の

 

吉岡一文字の作刀地は、別の場所にあることがわかってきました。

 

ちょうど、上の写真の中央の山の中腹、川沿いの場所でした。

 

その場所については、奥池と言う池があって、義光谷と言う

 

谷があって、屋敷跡があると書いてありました。

 

その場所を捜したお話しは、次回紹介することにして、

 

 

 

 

三毛猫!!

 

備前國吉岡一文字の刀は、

 

鎌倉時代の嘉元【1303年】頃から姿を現します。

 

鎌倉時代の永仁【1293年】の頃、姿を現す福岡一文字の

 

焼刃の高い作品と比較すると、刃が低く、静かな感じの

 

作風です。

 

 

 

 

当初は、漢字の 「一。」 と言う文字を銘に切り。

 

その後、時代が下がるにつれ、長銘の銘を切るようになって行きます。

 

 

 

 

令和の今現在のお話しとして、ここの備前国吉岡庄に鎌倉時代の

 

終わり頃に、一文字派と呼ばれる刀鍛冶の一族が住んでいて、

 

作刀していたと言う説を否定する人はいないです。

 

それで、いつ頃からなのか、と言う事ですが、僕が知る限りでは、

 

正応三年【1290年】頃の 助吉 と言う二字銘の作品があり

 

ます。

 

吉岡庄と銘に無いので、意見が分かれるところですが、そう考えて

 

よさそうです。

 

理由は、その後、吉岡庄では、助□ と助と言う漢字を銘に用いる

 

刀工が作品を残しています。

 

 

 

 

 どこの砂鉄を用いて、大鍛冶と呼ばれる集団が鉄を精錬していた

 

のかは、わかっていません。三毛猫?

 

その精錬した鉄を用いて、少なくとも正応の鎌倉時代の後半頃には、

 

助吉 と銘を切る刀工が住んで、作品を作っていたようです。

 

 

 

 

粘土は、吉岡庄の地元の粘土を磨って、ワラ灰などを混ぜて、

 

焼刃土を調合していたのでは思っています。三毛猫?

 

 

 

 

 

それから 備前国吉岡庄は、石灰の産地でもあって、この石灰を

 

何某かに用いていたのではと推測しています。

 

 

 

 

 

 

 今も、いろんなことを考えて見るのですが、いずれも

 

想像の域を出ないことばかりです。

 

つまり、世間が納得する証拠が見つからないのが現状です。三毛猫??

 

 

 

 

備前国の福岡一文字派も、吉岡一文字派も、正中一文字こと、

 

岩戸一文字も、用いている材料は一緒ではと考えています。

 

 

 

 

今、考えているのが、完成した製品も、素材の鉄や、その他の

 

品物も、船で備前国吉岡庄から、南に川を下って福岡庄に運ばれたり、

 

北に上って、岩戸庄に運ばれたり、当時の商売人の人が行き来を

 

していたのは間違いが無い事実と思っています。三毛猫??

 

 

 

 

  三毛猫じゃあ みんな また 今度ね。ハートラブラブ

 

 

【次回に続く。】【転載コピー自由です。】